第三章 暗転-2
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超越者。
超能力者の中の超能力者であり、世の理をも超えてみせた、神に選ばれし八人の総称。
序列七位と八位は研究を専門職としているものの、他六名は全員が治安維持隊に所属。文字通りの世界最高戦力であり、他すべての超能力者の力を統合しても彼らには遠く及ばないとされる、人間兵器を超越せし人間大量破壊兵器。
曰く、凶悪犯罪者殺害のために、町一つを瓦礫の山にした。曰く、山中に隠れた敵をあぶり出すために、山を半分に切断した。曰く、仕事量を減らしたいがために、一夜にして犯罪組織の一角を解体した。前世界での核兵器に例えられるほどの抑止力であり、治安維持を超えた『戦争』における最終手段的な存在。
それゆえに、彼らを動かすことができるのは、治安維持隊元帥のみという厳しい制約がある。
「待て! つまり、つまり……!」
御影奏多がルークの依頼を引き受けたのは、一応の勝算があったことも理由の一つだ。たとえブレインハッカーが治安維持隊の半数を支配下におさめているのだとしても、頭であるレーガン元帥までは操れていない。だからこそ、敵は超越者を動かすことができないと確信できた。もし『本当に』隊を敵に回せと言われていたら、絶対に首を縦には振らなかっただろう。
前提条件として、超越者が動くなどあってはならない。もし仮にレーガン元帥までが洗脳されているのだとしたら、それは治安維持隊全てが乗っ取られたことを意味する。つまりは、その部下であるルークが御影に救援を依頼するなど最初から不可能だったことになってしまう。
「お前は、ヴィクトリア・レーガン元帥の指示で、俺を捕らえにきたのか?」
「いや? 私がここにいるのは、いつも通りの独断専行だが?」
「独断専行? 超越者が? いや待て、じゃあお前は、ブレインハッカーとグル……」
「ブレインハッカー? これはまた、懐かしい通り名が出てきたな。そちらの異名はそれほど有名ではないと思っていたのだが。あの男は、現序列一位が粛清したはずだ」
「粛清? ……序列一位が、粛清しただって?」
最初から、ブレインハッカーはこの世に存在していなかった?
もしこの男の言葉を信用するならば、ルークが御影に嘘をついていたということになる。だが、敵であるレイフの言葉が真実である保証はどこにもない。いや、それを言うならば……ルークが御影奏多に語った内容もまた、信憑性が高いとは言い難い。
客観的に考えれば、問題は実に単純となる。
つまりは、『治安維持隊の半数が超能力で洗脳された』というルークの主張と、『御影奏多一個人がルークに騙されていた』という新たな予想の、どちらがより現実的かだ。
そんなことはもはや、考えるまでもない。
「どうも認識の違いがあるようだが、そのようなことを気にかけている暇はない。貴様は、金堂真の娘を連れている超能力者で間違いないか?」
「……さあな」
震える声でそう答えた途端、左肩に再びその『剣』がねじ込まれた。
絞り出すような叫びが、中央エリアの裏通りにこだまする。銀の刃が宙へと掻き消えていく向こう側で、レイフ・クリケットはやれやれといった様子で首を振った。
「なるほど。典型的な、身の程を知らない子供というわけか。いや、けなしているわけではない。何も知らないからこそ、これだけのことができた……いや、できるのだからな」
レイフは息も絶え絶えにもだえ苦しむ御影から目を離さないまま、右手を後方へと伸ばした。
その瞬間、レイフの背中から少し離れた場所に巨大な鏡のようなものが出現し、刺される直前に御影が作りだした真空の刃が死角から襲ってきたのを完全に防ぎ切った。
「度胸があるのは認めよう。が、奇襲を企むなら、その目に宿す殺意を敵に悟らせないことだ」
なけなしの反撃をこうもあっさりと防がれると、絶望を通り越して呆れるしかない。笑いなのだか悲鳴なのだかよくわからない喚き声を上げて地を這いずる御影の背に、相も変わらず憎々しいほどに落ち着き払った声が降ってきた。
「いかんな。私はどうも高飛車に出る悪癖がある。不快に思わせてしまいすまないな」
……確かに不快ではあるが、それは精神的にというよりは肉体的にだ。馬鹿なのかコイツ。
上から目線も何も、この男は超越者としてこの世界に君臨する、最強最悪な人間兵器の一人だ。一連の攻防を通じてそれは文字通り骨の髄まで痛感させられたし、何よりこの男に関する噂はかねてから耳にしていた。
レイフ・クリケット。戦闘系超越者で唯一『大量破壊』を不得意とし、周囲に無駄な被害を出すことが少ないため、超越者の中では最も現場に出る回数が多いのだという。しかしそれは決して、レイフが超越者として劣った存在であるということではない。出動する機会が多いということは、それだけの死線を潜り抜けてきたということにほかならず、事実上げた武功の数は他の超越者を圧倒しているのだという。
超越者にしては珍しく、自分だけではなく周りの人間も傷つけない、守りの戦いを得意としていることから、将来有望な超能力者の現場教育を担当することが非常に多く、治安維持隊内部には彼を慕う人間がかなりいる。
もっと簡単に説明してしまえば、ずぶの素人と共に戦場に送られても涼しい顔で任務をこなす化け物だということだ。最初から御影ごときに太刀打ちできるような相手ではなかった。
「やっぱ……すげえな、アンタ」
御影は建物の壁に背中を預け、何とか上体を起こすと、淡い苦笑を浮かべてみせた。
「不沈艦の異名は伊達ではない、か。いやほんと……いろんな意味で参ったぜ」
「時間稼ぎだな。ターゲットの娘はこの近くにいるということか」
「…………」
いや、本当に参った。腕があるくせして頭もいいと来た。
正直言って、もう何をどうすればいいのかがさっぱりわからない。現状の打開策がまったくないこともそうだが、どうやら自分が『世紀の大犯罪者』に仕立て上げられたらしいと察した直後だ。何を信じて、どう行動すればいいのやら。
結局のところ、自分はまたもや失敗したと、そういうことだ。何に、と聞かれたら、全てと答えるしかないほどに。考えてみれば、人生で自分の思い通りに物事が進んだことなど一度もなかった。道化としては一人前だが、そんなことを誇ってもまったくもって意味がない。
だが確かに、御影が失敗から学ぶべきことはあった。原因を確かめ、二度と同じ過ちを繰り返さないこと。根拠の無い思い込みで、可能性を潰してしまわないようにすることだ。そして、この場に限って言えば、御影はまたもや『想定外』の出来事に足元をすくわれることになる。
「御影!」
甲高い少女の声が耳朶を打ち、彼は大きく目を見開いた。
眼球がぐるりと回転し、声の聞こえてきた方向へと視線が固定される。視界の中央では、白い入院服を着た少女が、泣きそうな顔をしてこちらを見つめていた。
『……この、馬鹿ッ!』
泣きそうなのはこっちだ。これで、万が一の勝機も失ってしまった。戻ってこなかったら自分を捨てろとあれほど言い聞かせておいたのに、どうしてあの女は……。
『――ありがとう。やっぱり君は、優しい人だ』
あの書斎で聞いた言葉が脳裏を掠め、御影は強く唇を噛んだ。最初から、あの女が救いようのないほど『優しい』人間であることはわかっていたはずだった。自分が戻らなければ、逆に彼女の方から探しに来ると予想できたはずなのに、どうして大丈夫だと思ってしまったのか。
新たな乱入者の存在に、レイフ・クリケットは声の方向へと顔を向けた。予想外の事態だったのか、彼がいぶかし気に眉を顰めるのがわかった。
当然のことではあるが、ノゾムに対して何の脅威も感じていないらしく、レイフは彼女が御影の元へと駆け寄る様子をただ傍観していた。
「御影! 御影!」
「……」
「なんでこんなになるまで戦ったの! 大馬鹿じゃん!」
この女、どうやら自分が出てきてしまったことで、『こんなになるまで戦った』ことの全てが無意味になったという自覚がないらしい。
肉体的な傷やら精神的な傷やらでもはや喋る気力もなく、虚ろな目をして座り込む御影の前で、ノゾムは強く唇を結んだ。
勢いよく立ち上がり、腰に左手をあてて経緯を見守っていた超越者から、御影を守ろうとするかのように、両手を広げて敢然と胸を張った。
というか、本気で御影を庇う気らしい。あれほど守られる側だと説明したのにも関わらずこれだ。正直、悲嘆を通り越して呆れてしまう。
「……興味深いな」
超越者、レイフ・クリケットは、眉一つ動かさずに、恐怖に全身を震わせながらもその場に立ち続けるノゾムに語りかけた。
「わかっているのか? 貴様がこの場に出てきたことで、その男がなしたことの全てが、水泡に帰したということを」
「……」
「自らが庇護を受けるべき立場だと、わかっていたはずだろう。数多のフェアリーテイルが証明している通りだ。姫に、竜は殺せない」
「……御影を、殺さないで」
「愚か者。貴様が今一番になすべきは、自らの命乞いだ」
敵であるはずの人間からのもっともすぎる指摘に、ノゾムの肩が揺れた。
恐怖を感じていないはずがない。畏怖を覚えていないはずがない。
そもそも彼女は、七年間の間ずっと、箱庭で過ごしてきたのだ。外の世界は憧れであったかもしれないが、それ以上に危険な場所だと本能的に理解しているだろう。
「私には貴様の感情が理解できない。そして私は、人間の感情というものに最大限の重きを置く。ゆえに暫し、私は自身の責務を忘れよう」
完全になめられている。この隙を利用して何かできればいいのだが……生憎と向こうも、こちらが万事休すだとわかっているからこそのこの対応なのだろう。
「多弁は身を滅ぼすと言うが……話してみろ、金堂真の娘。貴様はなぜ、そこに立っている」
まったくもって、この男の言うとおりだ。
御影が彼女を守るのは義務だとしても、その逆はありえない。逃げていい。見捨てていい。むしろそれを、御影は望んでいた。
わかっていたはずだ。常におちゃらけ、ふざけていたが、ノゾムが聡いことはわかっていた。彼女にはただ、教育と情報が与えられていなかった。それだけだ。
自分の安全を最優先にすることが肝要だと、理解していただろう。それなのになぜそこに立つ。なぜ、抗おうとする。負けがわかっていてなお、無謀にも自分を守ろうとして……。
「初めてだった!」
「……」
「ちゃんと向かい合ってくれた人は、御影が初めてだった!」
……何を、言っているのか。
ごまかした。有耶無耶にした。他人の問題を自分のものとしてしまうことを恐れて、当たり障りのない、距離を取るためだけの言葉しか用いなかった。
他人と本気で向かい合ったことなど、人生で一度もない。
「かわいそうだと言わなかったもん!」
それは、無責任に相手をあわれむ連中を、御影が好んでいなかっただけだ。
「話を、ちゃんと聞いてくれたもん!」
状況確認のために必要だからやったまでだ。だいたい、奴隷じゃあるまいし、話し相手くらい今までもいただろう。
「みんな話すのを嫌がるんだ! 仕事だとしか思っていなかった! 笑ってくれた! 耳を傾けてくれた! 受け答えをしてくれた! でも全部、中身がなかった!」
ああ、そうだろう。テロ組織にいた者の娘なんだ。そういう対応をして当たり前だ。そして、子供は大人の感情に対して敏感だ。
だから、御影もまた、その『病院』にいた者と同じだと……。
「違ったもん!」
違わないだろう。同じだ。同じ人間だ。特別じゃない。
「たまにしか見せない微笑みも、話を聞くときの沈黙も、突き放すような言葉も……」
……やめろ。
「本物だってわかった! だって、今まで嘘しか見てこなかったから!」
……やめてくれ。
「隣にいてくれたんだ! だから……だから!」
これ以上、幻想を語るな。儚い夢を見るな。御影奏多という人間を、理想の枠に閉じ込めようとするな。戦闘のための人間兵器として、自己を確立させてくれ。
現実も理想もいつだって、こちらの期待を裏切るものだから。
御影奏多が特別なのは、超能力者であること。その、ただ一点にすぎないのだから。
ノゾムの背中が、傾いていく。彼女は俯き、道路に引かれた白線の上に散った御影の血を見つめて、両手で自らの肩を抱きしめる。
「お願いだから……もう、一人にしないで」
いつだって人は、孤独に生きていくしかない。本当の意味で自らを理解できるのは自分しかおらず、そしてその自分すら持て余すという事実があるだけだ。
しかし、どうなのだろう。彼女の主張が間違いである以上、自分の思想が正しいと、どうして言い切れるのか。諦めだけが何もかもを支配すると、どうして達観してしまえるのか。それは、傲慢というものではないか。
少なくとも一つ、はっきりと言えることは、この世界に『甘さ』は致命的だということだ。
「……なるほど、理解できないな。普遍的な解答を欲した私が、間違いだったようだ」
超越者が、動く。筒状の何かを強く握りしめ、右手を高々と掲げる。
「共感することなど私には不可能だが、感情という物を曝け出させた以上、私もそれに答えなくてはなるまい。たとえ私にとって、それが何の意味もない行為だとしてもだ」
このままでは、二人もろともに無駄死にする。
ならばせめて、彼女の必死の嘆願すらも体力回復のための時間稼ぎだったとわりきり、行動に移るべきだ。自分にできることなど、もうそれくらいしかないのだから。
たとえ体が動かなくとも、脳は働く。超能力は、イメージという本来現実に干渉しえない脳内の活動に形を与えたものだ。
まだ、御影は戦える。そして、その事実をレイフ・クリケットも理解している。そのうえで、ノゾムの発言を許した。だが、たとえ逆転の目がないのだとしても、最後まであがかない理由はない。現実というやつはいつだって、御影の想像を超えた場所にあった。ならば、こんなときくらい、自分に都合のいいように世界が動くことだってあるかもしれない。
能力用の回路を、脳内に張り巡らす。御影の粒子に、青の粒子が次から次へと出現する。その光にレイフが目を細め、応じる形で銀の輝きが彼の右手の先に集まっていく。
――こうして、御影奏多の見ていた『世界』は崩壊した。
※ ※ ※ ※ ※
エンパイア・スカイタワー最上階。
「いったいこれはどういうことなのかね! 説明したまえ、レーガン元帥!」
先ほどまでヴィクトリアしかいなかった円卓は、エレベーターに一番近い場所にある六つの席を除いた全てが治安維持隊上層部の面々で埋め尽くされていた。
初老の男ばかりで、どうにも花が無い。ヴィクトリアはそんな現実逃避気味なことを考えながら、ため息交じりに言った。
「落ち着け。円卓に断りもなく強行したことは、申し訳ないと思っている」
「謝れば済む話ではない! 中央エリアの事実上封鎖に、非常事態宣言だぞ? 本来ならば、我々円卓による十分な話し合いの後に決定されるべきことだった!」
「そもそも、ここまで強硬に進めた必要性が疑わしい」
顔を真っ赤にして気炎を上げる円卓では比較的若い男の横で、髪に白い物の混じり始めた古参の将軍の一人、アーペリ・ラハティ中将が、ゆったりと、しかし厳しい口調で続けた。
「聞けば、ターゲットはたった一人の少女だという話ではないか。アカウントナンバークラッキング事件のことを踏まえても、元帥緊急命令の発布はやりすぎでは?」
「もっともな意見ではあるな」
ヴィクトリアは比較的自分に近いその男に感謝の視線を向けつつ、左手を上げて背後に立っていたザン・アッディーンに合図を送った。
それにこたえる形で、ザンがホログラムキーボードの上で指を滑らせる。彼の操作でヴィクトリアの後ろに巨大なウィンドウが出現する。そこに表示された、ある一人の少女に関するデータに、室内は騒然となった。
顔写真のデータ以外は全て『UNKOWN』表示で、姓名のみならずアカウントナンバーまでもが不明となっている。つまり、この少女は戸籍上存在しないということだ。しかし、円卓にいる人間は全員、そのことに対しての疑問はないだろう。
「ターゲットは、忌むべきアウタージェイルリーダー、金堂真の一人娘だ。昨日の火事から行方不明になっている」
「そんな重要な情報を、なぜ今まで我々に流さなかった!」
再び噛みついてきた別の将軍に、ヴィクトリアは若干の頭痛を覚えて、こめかみを指でもんだ。お前らのほとんどが無能だからと、直球で返せればいいのだが、さすがにそういうわけにもいかない。ヴィクトリアは慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「先ほど言ったように、事態は急を要するものだった。ゆえに早期の対応をするため、情報を限られた人間にのみ共有させ、最速で隊を動かすことを重視しただけだ」
「つまり、我々の能力を疑っていたと、そういうことですか」
疑っているどころか、まったく信用していなかった。危うくそう口を滑らせそうになって、ヴィクトリアは内心引きつった笑みを浮かべつつ、淡々と続けた。
「適材適所というやつだよ。お前が担当する場所は、この事件にはそこまで関係なかった。それだけの話だ。異論はあるだろうが、時間がないからまた今度にしてくれ」
最後の最後に投げやりな口調になったヴィクトリアをとがめるように咳払いをしてきたザンにひらひらと手を振って、彼女は目つきを鋭い物とした。
「彼女が外に出ることが何を意味するのかは、皆も重々承知のはずだ。ゆえに、私は非常の事態とみなし、治安維持隊元帥令により隊を動かした。異論は認めない」
また何か言おうとしていた一人にそう釘を刺して、ヴィクトリアは円卓の面々を見渡し、厳かな口調で告げた。
「改めて、非常事態を宣言する。今この瞬間より、治安維持隊の全権限、及び、生命の一切を、私、ヴィクトリア・レーガン元帥が預かる」
公理評議会、治安維持隊、最高裁判所のさらに上に位置する、超法的統治機関、『AGE』を除けば、ヴィクトリア、ルーク、そして、金堂真の三人のみが知っていた、能力世界の仕組みと生誕の理由。ヴィクトリアは静観を、ルークが現状維持を選択するなか、金堂真はそれを容認することができず、ゆえに絶望し、信じがたい化け物をこの世に生み出した。
それが、彼女。あの男がこの世界に残した、忘れ形見。
あの少女の扱い方について、治安維持隊として確たる方針を出せなかったのは自分の落ち度だった。ルークがこの状況を放っておくはずがないと予想できなかったこともだ。
後悔をしても仕方ない。ただ、最善を尽くすだけだ。
しかし、もし仮に、彼女が現在意識を取り戻しているのだとしたら。たとえ超越者でも、超能力者である以上、彼女を抑えるのは難しいだろう。
この際、事実の一部を限られた人間に公表するのは仕方あるまい。そう判断したヴィクトリアは、剣呑な雰囲気を隠そうともしない円卓へと改めて顔を向けた。
「それでは円卓の諸君。能力世界を否定する悪魔に、正義の鉄槌を下そうじゃないか」
※ ※ ※ ※ ※
世界とは、何なのか。
なにゆえに存在し、どういうわけでそこにあるのか。
この問題。突き詰めていけばたちまち哲学の壁に衝突するのだが、ある程度一般性のある回答を人類は既に見つけている。
すなわち、五感に与えられた刺激に応じて、脳内で構成されるものが、世界そのものであるということだ。目に映るもの。耳に届くもの。手に触れたもの。それらが、『そこにある』と無条件に信じ込むことで、人は自分の周りの世界を形作っていく。だが逆に言えば、もし脳に直接、映像、音響、物体のデータを流し込んでしまえば、たとえ実際には頭にコンピューターからのケーブルを何本も繋いでベッドに横たわっていても、その現実に気がつくことは無い。
別に、ここまで問題を複雑化する必要はないかもしれない。簡単に言ってしまえば、御影奏多は今まで自分の望むように世界を見てきたし、それが『本物』であると頭から信じ込んでいた。さらに踏み込んで言えば、彼は今まで一度も、自分が超能力を使えることに対して、疑問に思ったとしてもその疑問を掘り下げることができていなかった。
そのつけが、今ここに。
自分の手足として使いこなしていた超常の力が、その持ち主へと反乱した。
叫び声。木霊する。
脳内に構成された、超能力専用の思考回路。それが全て、白の火花とともにはじけ飛ぶ。爆発。頭が、痛い。割れるように。壊れてしまいそうなほどに。
この痛みは、痛みではない。貫かれた左肩。その痛みとはまったく違う。感覚を超えた痛覚。精神が、焼き尽くされる。
喉が張り裂けんばかりの叫び声。頭を抱え、髪をかきむしり、胃の中身を全てまき散らしながら。
御影奏多は、彼女の姿を凝視する。
守らなくてはならず、守られる存在だと思っていた彼女。それなのに。
あの少女が目の前にいるという現実が、耐えがたい。あまりの頭痛に、時が引き伸ばされたかのような光景の中心に、少女の存在があることに対して、魂がはじけ飛びそうなほどの衝撃と恐怖が、体の隅々に刻まれていく。
「……な……に?」
どさりと、人が崩れ落ちる音。
御影奏多を圧倒的な力をもって打倒した超越者が。あの、レイフ・クリケットが、顔中に玉のような汗を浮かべて、蹲っている。歯を噛みしめる音がこちらにも聞こえてきそうなほどの、苦悶の表情。ノゾムという一存在が、御影のみならず超越者にまで膝をつかせている。
彼が手にしていた剣の刃が消滅したのと、ノゾムがこちらを振り返ったのがほぼ同時だった。その瞬間、レイフは両目を大きく見開くと、右手を横に一閃させた。
彼の振るった全力の拳が、ノゾムの腹部へと吸い込まれていく。少女の体は、糸を切られた操り人形の如く、その場に倒れ伏した。
その瞬間、全てが正常に戻った。
今まで感じたこともないような頭痛は嘘のように無くなり、視界が一瞬で鮮やかに広がっていく。思わずため息を吐いてしまいそうになるほどの安堵感。
そして、次に感じたのは、自らを煉獄の炎で焼き尽くしたいほどの後悔と、胸を突き破らんばかりの義憤だった。
護衛対象が目の前で殴られたというのに、自分はなぜ地に伏したままなのか。あまつさえ、その事実に安心さえしていた? 冗談じゃない。
「クソがァッ!」
叫びと共に、アスファルトから体を引きはがし、立ち上がる。もはや動けないものと思っていたのか、驚愕の表情を浮かべるレイフを、御影は狂犬もかくやという形相で睨みつけた。
「……吹っ飛べ」
言葉と共に、台風もはるかに凌駕する暴風が、真横からレイフに直撃した。彼の体はそのまま宙を舞い、最初にいたカフェへと突っ込んでいく。あまりの衝撃に、建物が轟音を上げて半壊していく様子を横目で眺めながら、御影はノゾムの隣に顔面から倒れこんだ。
……何が、どうなっているのか。
どこまでが真実で、どこまでが虚偽なのか。
明かされたのはどこまでか。隠されていたのはどこまでか。
何もかもが曖昧模糊に、一緒くたに絡まってしまい、とてもほどけそうにない。
早く、早くここから離れなくては。常人ならば即死だろうが、超越者があの程度で戦闘不能になるはずもない。追ってくる前に、この場から立ち去らなくてはならなかった。
疑問は山ほどある。しかしそれも、ひとまずこの状況を切り抜けなくては、解決するもなにもない。そうわかっていながら、ぴくりとも動けない御影の肩を、誰かが乱暴に揺すった。
「御影! 御影!」
ノゾムだ。急所は外れたのか、刹那の間意識を失った程度で済んだらしい。
またあの頭痛が襲ってくるのかと、びくりと体を動かしてしまいそうになる自分に嫌悪感を抱きながらも、御影は右手をなんとか動かして腕時計に触れると、ホログラムウィンドウをノゾムの前に出現させた。
「いいか。地図の……上の方にある赤い点の場所まで逃げるんだ。なるべく、早く……」
そこで御影は、ノゾムがぽかんとした顔つきのまま、ウィンドウを歯牙にもかけずに、じっと自分の顔を見つめているのに気がついた。
こんなときでも、いちいち勘に障る女だ。まさかとは思うが、地図が読めないのだろうか。いや、さすがにそれはないと信じたいが。
「おい、何してるんだ。いいから地図を見ろ」
「え、でも……」
「でもじゃない。時間がないんだ。早く――」
「地図なんて、どこにもないじゃん」
「…………」
思考が、停止した。
この女、今何と言った?
「ふざけてんのか?」
「え? ……え?」
「いや、地図だよ! ホログラム! 今、お前の横に浮かんでいる、それ!」
体の痛みも半ば忘れて、必死になってウィンドウの地図を指さす御影に、彼女はぽかんとした顔で首を傾げた。
「さっきから何を言ってるの? 頭打った?」
「お前……お前……」
あまりのことに怒鳴りつけそうになったところで、ふと公園での会話の一部が、走馬燈のように御影の頭をよぎった。
『――そんな風に指をさされても、ノゾムにはよくわからないよ』
今と同じように、ホログラムの地図で、たった今『聖域』から敵の本拠地へと変貌したエンパイア・スカイタワーの場所を説明していたときの、少し奇妙なやり取り。
まさか。その、まさかなのか?
彼女は決して、地図が読めないわけではなく……。
「ホログラムが……見えないのか?」
呆然と呟く御影に、彼女は少しだけ首を傾げた。
「ホログラムって、あの、SFによく出る立体映像のことだよね? なんか未来的な」
「……未来どころか、すでに実現しているよ」
「本当? でも、ノゾムはそんなもの見たことがないよ」
ビルの周りを光り輝きながら浮遊する大型の広告群、さらには、現在進行形で顔のすぐ横に浮かんでいるホログラムウィンドウの存在にまったく気がつくことなく、ノゾムは嘘偽りの感じられない、純粋無垢な声で、そう返してきた。
いよいよもって、わけがわからない。
先ほどの頭痛は、明らかにノゾムの前で超能力を発動したことによるものだった。さらに驚くべきことには、彼女にはホログラムが……人類の能力を利用する形で作られたとされる立体映像が、見えないのだという。
おかしい。これではまるで、ノゾムが化け物か何かのようだ。
いや、本物の化け物は、どちらなのだろうか?
能力世界に住む人間、一億人強と、たった一人の少女。どちらが正しくて、どちらが間違いなのか。普通に考えれば、一億の方が正しいに決まっている。
しかし、そうとは断言できない自分がいる。先ほどの、あの感じ。あの、感覚。『お前たちは間違いだ』と、そう断罪されたかのような、恐怖と絶望。
とそこで、左腕に着けた腕時計、ウェアラブル端末が振動しだし、彼ははっと我に返った。中央エリアの地図を表示していたウィンドウが、ホログラム通信のそれへと切り替わる。
そこに表示された名前を見て、彼はぎりぎりと歯を食いしばると、右手を拳にして通話のアイコンを殴りつけるように叩いた。
「ルーク、貴様ァ!」
画面内に出てきた一人の男に、御影奏多は激情に身を任せて怒鳴りつけた。どうやら、もう自らの職業を偽る気はないらしく、赤茶の制服から全身白のスーツという奇天烈な格好に着替えていらっしゃった。こんな状況でなければ笑えたのだが、正直今はまったく笑えない。
「よくも……よくもまあ、すがすがしいほど鮮やかに騙してくれたな。何がブレインハッカーだ。もう死んでるじゃねえか、そんな奴」
『ああ、そうだね。しかしまあ……なんだかんだ言いながら、その実、心の底から『可哀想な少女』を助けたがっていた君を騙すのは、案外簡単だったよ』
「そうだな! 俺が馬鹿だったな! 畜生が!」
自分の策略で瀕死になった男に対し、あくまで飄々とした態度を崩そうとしないルークに、御影奏多はこめかみに青筋を浮かべながら引きつった笑みを浮かべた。
「てめえ、一体全体何者だ」
ホログラムのアカウントナンバーの下に表示されていた『治安維持隊大佐』という称号は、今では『UNKOWN』の表記へと変わっていた。どのような手段かは知らないが、この男は身分を偽ることが可能ならしい。ご丁寧に服装まで治安維持隊の物に変えられてしまえば、まあ御影でなくとも大半の人間が騙されることだろう。というか、そう願いたい。
そして言うまでもなく、ルークが治安維持隊の人間でないことは確定だ。でなければ、御影を操って治安維持隊と正面衝突させることのメリットが存在しない。
「アウタージェイルの残党か? でなければ、新興のテスタメントか?」
『なるほど。反社会組織に目を付けたか。着眼点は悪くないが、残念ながらどちらも違う』
「……何?」
テロ組織ではない? だが、こんなことをしそうな組織に他に心当たりは……。
いや、一つある。
昔から治安維持隊とは犬猿の仲にある、本来政治を取り仕切るべき組織。軍部に権力を奪われつつある状況に、忸怩たるものを感じているであろう、この世界唯一の立法機関。
『では、改めて自己紹介をするとしよう。私は、政府中枢、公理評議会所属の者だ。きさくに、ルークと呼んでくれて構わないよ』
「お前……官僚だったのか?」
『まあ少なくとも、選挙で選ばれた評議員でないことは確かだ。彼らは皆、軍から賄賂を受け取っているからね。進んでこんなことはしないだろう』
さらっと問題発言が飛び出たように思えたが、自分の身の安全の方が問題なので、聞かなかったことにする。しかし、第三次世界大戦後になってもまだいるのか、汚職政治家ってやつは。
「政治関係のごたごたに巻き込まれたと、そういうわけか」
だいぶ見えてきたような、そんな気がする。
だが、ようやく頭が状況に追いつきつつあると思ったその矢先に、一番の問題児であるところのノゾムが御影の腕を掴んで割り込んできた。
「ねえ、ミカゲン。誰と話してるの? 幽霊?」
「ミカゲンって呼ぶな、御影でいい! ああ畜生! まーた頭がこんがらがってきた! おい、ルーク! お前の正体はそれでいいとして、こいつは一体何なんだ! 本当に人間か?」
「むう! 人のことを化け物扱いするなんて失礼だよ、ミカゲン! というか、ノゾムお腹殴られたんだよ? 意外と大丈夫だったけど、少しは心配してよ!」
「お前はちょっと黙ってろ! 鬱陶しい!」
少し離れた場所で体育座りをしていじけだしたノゾムは放っておくことにして、御影は再びホログラムウィンドウへと向き直った。
「さあ、説明してもらおうか! 中央エリアに入っただけで非常事態宣言を出すほどに、治安維持隊が危険視するあの女は何なんだ! 説明しろ!」
「うわお! もしかしなくても、ノゾムって人気者?」
「だからお前は黙ってろやあ!」
『……盛り上がっているところ申し訳ないけど、その疑問に答えている暇はない。状況はこちらも把握している。レイフ・クリケットと接触したんだろう? あと数分もしないうちに、治安維持隊の増援がそこに到着する可能性が高い』
「いや、移動しろと簡単に言うが……」
そう言われてやっと思い出したが、御影は一応重傷を負っている。その証拠に、左手の方は全く動かすことができない。脳にアドレナリンが止め止めなく放出されているからかは知らないが、何とか立ち上がれているものの、いつ失血多量で意識を失うかわからない。
「何か足がないと動けないぞ。だいたい、騙されていたと分かった以上、治安維持隊に投降するという選択肢も……」
『その子を見捨てて?』
「……」
『もう、指名手配犯級の犯罪行為に手を染めているのに?』
「…………」
いろいろな意味で、完敗だった。
虚ろな目をして諦めのため息を吐く男子高校生の心情を知ってか知らずか、ルークはこの状況を心の底から楽しんでいるかのような、完璧な笑みを浮かべていやがった。
「大丈夫だ。今、ボクシをそちらに向かわせている。確かに、我々は四面楚歌の状態だが、味方がいないこともない」
「ボクシ? 誰だそれ?」
『傭兵だよ。一定量の金額を支払えば何でもこなす、人間を極めた人間だ。君ももうすでに会っている』
「人間を極めた人間? いや、それよりも……もうすでに、会っているだって?」
御影が疑問の声を上げた、その時だった。
狭い通りに、猛々しいバイクのエンジン音が響き渡る。すわ新手かと身構えた御影は、そのバイクが自分のものであることに気がついて、大きく目を見開いた。
黒のレーザースーツに銀の長髪という奇抜な格好をした、モデルもかくやというほどにグラマラスな女性が、御影のバイクにまたがりこちらへと向かってくる。あんぐりと口を開けた御影の横にバイクを停めると、彼女はゴーグルを上にずらして、ウインクをかましてきた。
「やあ二人とも。お疲れのところ悪いけど、時間が無い。ちゃっちゃと移動しようじゃないか!」
「いや……あの、うええ!?」
戸惑う御影を米俵か何かのように軽々と担いで、ノゾムを入れていたサイドカーに御影を放り込むと、その女は人差し指をちょいちょいと動かしてノゾムを呼び寄せた。
「さあ、お嬢さんは私の後ろに座って。しっかり僕の体を掴むんだよ」
「わーお! なんかお姉さんカッコいいねえ!」
「ハハッ! そんなに私を褒めるなよ。照れるじゃないか」
……何だ、この天然馬鹿は。
十七年という人生において、こんな短い会話のうちに一人称が二回も変わるとんでも美人と出会った記憶はない。というか、出会いたくもない。
わけがわからない状態のまま、ゴーグルをつけなおしたボクシの運転で、バイクが急発進する。あまりの勢いに側頭部をサイドカーの淵に打ち付けてしまい、目の裏側にちらちらと眩い星が飛び散ったような気がした。この場所に頭を打ち付けておきながらけろりとしていたノゾムの気が知れない。
「ええと……アンタ、ボクシだよな? 監視カメラの目とか、気を付けねえと……」
「あっという間に、居場所を突き止められる、だろ? わかるよ。君が何を考えているのかは、このボクシ、完璧に理解しているとも。僕は君であり、君は私だからね」
「…………ああ、そうですか」
何を言っているのか、さっぱり理解できない。
今思いついたが、『ボクシ』って、もしかしなくても『僕私』と書くのか。……泣きたくなるほどどうでもいいが。
この女が誰なのかをルークに聞こうとしたところで、通信がいつの間にやら切断されていたことに気がつく。御影は思わず舌打ちをしつつ、しぶしぶ彼女の方へと顔を向けた。
「で、どちら様? ルークの馬鹿が、すでに面識があるとか言ってたんだが」
「そんな冷たい反応するなヨウ! 傷つくぜ、御影さん!」
今度はゴーグル越しにウインクをして、ボクシが叫び返してきた。
まるで、男のそれのようなだみ声で。
というか、この声の感じ、ものすごく聞き覚えがある。
より具体的に言うと、あの世紀末ライダーにそっくりなような、そんな気がする。
……おい。ちょっと待て。まさか……その、まさかなのか?
「お前、あのチキンヘッドかあ!?」
「ハハッ! 変装は私の得意分野の一つでねえ」
「嘘だあ! 腕の太さとか、骨格とか、全然違ったぞ! モヒカンは? その長い銀髪は地毛だよなあ? というか胸! その豊満すぎる胸をどこにしまってたんだ貴様ァ!」
ここに来てまだ衝撃の事実があったとは。事実は小説より奇なりとは、本当によく言ったものだと思う。
「気になるのはわかるけど、本当に問題なのはそこじゃないぞ、男の子。騙されていたにしても、いつから騙されていたのかが気になっていただろう? 答えは『最初から』だ。君は初手から躓いていたんだよ。他に何か質問は?」
「……どうりで、ベタすぎる展開だったわけだ」
「王道もなかなか馬鹿にできないものだろう。ちなみに他の非行少年は皆、僕が巻き込んだ本物だから安心するんだ。君のハートマン軍曹張りの演説は、確かに意味があったぞ」
「そいつは良かった。せめてもの心の慰みになる」
もちろんそれは嘘だったが、これくらい虚勢を張らなければやってられない。完膚なきまでに騙され続けていたという事実に顔から火が出そうな思いだったが、恥をかいたことはあとからいくらでも後悔できる。まずは、生き残ることが先決だった。
「これからどこに向かうんだ! 俺はしばらく、動けそうにないぞ!」
「私の拠点の一つに連れて行こう。ひとまず僕たちはそこに籠る予定だ。なあに、全て私に任せてくれればいい。君たちの身の安全は、この僕が保証するとも」
「そいつはご丁寧にどうも! あとその喋り方気持ち悪いからやめろ!」
三人を乗せたバイクは、治安維持隊に接触することもなく、不思議なほど軽やかにトウキョウ中央エリアの道を走っていく。
嵐の前の静けさだな、と思った瞬間、全身にとてつもない疲労がのしかかってきて、御影の意識は瞬く間もなく暗闇の中へと引きずりこまれていった。




