Memory 3
Memory 3
人との関わりを避け始めたのは、いつ頃のことだったか。
ずっと前からだったかもしれないし、最近の話かもしれない。明白なきっかけとも言える出来事はあるにはあったが、それ以前から内気で人見知りだったかもわからない。しかしそれ以降、自らの不遜さ、傍若無人ぶりが自分でもわかるほどに悪化していったことも事実だった。
結局のところ、原因を突きつめていけばそれは全て己の在り方へと向かっていく。彼の生き方が現在の彼を作り出し、彼の性根が今の彼の元となった。なんにせよ、今現在の自分の境遇が、『社会悪』とやらによるものだとは、彼は欠片も思っていなかった。
そんな、短い人生で何度も脳裏によぎったことをまたもぼんやりと考えながら、壁に並ぶ窓の向こう側の風景を眺めつつ、彼はトウキョウ特別能力育成第一高等学校の廊下を歩いていた。北側の通路は、たとえ夏であろうとも背筋に冷たい物を感じる。実際の気温の問題というよりは、むしろ、自らがあまりいい感情を持ち合わせていない施設の、年中日の光が差し込んでこない場所という条件が、彼を緊張させているというだけの話だろう。
そう、緊張だった。自分がこの施設にいるという事実そのものに、違和感を覚える。繊細なガラス細工に、小さな罅を見つけてしまったような、そんな感覚。そこにいるというだけで、全てを台無しにしてしまっているかのような背徳感。
周りの人間からの視線がどういった意味合いを持つかなどわからない。しかしそれが、お世辞にも好意に満ちた代物ではないことぐらいは予想がつく。
何となくだが見覚えのある人間とすれ違うたびに、彼らがぎょっと目を見開くのがわかる。それは恐怖によるものか、驚愕によるものか。どちらにせよ心地のいいものではない。彼は無意識に歩幅を広いものにしていたことに気がつき苦笑しながら、目的の扉の前で立ち止まった。
二、三度ノックして、引き戸をスライドさせる。思いの他荒々しい開き方になってしまったことに舌打ちをすると、ちょうどその職員室から出ようとしていた男性教員が目を丸くしてこちらを見つめてきた。
「おや。放課後に登校かい? 合理主義者の君らしくもない」
どうやらこの教員には、彼のことが『合理的な人間』に見えるらしかった。他人の性質、性格をそのようにたった一言で言い表すのは、彼の趣味ではない。自分が語ることも、語られることも嫌悪する。『お前が何を知っているんだ』、と。つまりは、よくあるちっぽけな自尊心というやつだ。よくあることだと断定するのもまた、少々躊躇われるが。
それ以前に彼は、この教員の名前を知らない。初対面かはわからないが、どちらにせよ好印象は持てなかった。
「で、何の用? 君が目的もなく登校するなんてことはないよね?」
ほら、まただ。人のことを、何のためらいもなく、言葉で定義しようとする。思わず舌打ちしてしまいそうになるのを、必死に堪える。今更すぎるかもわからないが、教員の自分に対する印象をこれ以上下げるわけにはいかない。
「社会科の教員に、質問がありまして。どなたかいらっしゃい……」
「ああ、いいよ。敬語使わなくて。君のことは、エボちゃんから散々愚痴られているからね。そうやって改まって話されるのは、逆に違和感があるかな」
エボちゃん、という呼び名が、エボニー・アレインのことを指しているのだと察するのにしばらくかかった。彼女が愛称で呼ばれるほど教員と仲が良くなるのは珍しい。少なくとも、中学の段階では、彼女は教員というものを嫌悪する傾向にあった。
「そう言われると、意地でも敬語を使い続けたくなりますね」
「アッハッハ! やっぱり、エボちゃんの言ってた通りだ。そう答えると思っていたよ」
「…………」
先ほどからどうもいけ好かない男だった。こんなのとエボニー・アレインの仲が良好であるというのは、正直信じがたい。
「社会科の教員と話に来た、ねえ。悪いけど、あまりおすすめしないかな。君はかなりの数の教員に嫌われているけど、社会科は別格だ。彼らのはもはや敵意だと言ってもいい」
「そうですか。気がつきませんでした」
「いやいや。授業に出席したときは大抵、君が出ていなかった授業の内容を質問しているらしいじゃん? 明らかに嫌がらせでしょ。しれっと完璧な答えを返す君も君だけどねえ」
「そうですか。てっきり、俺が自習しているか確認しているものかと」
彼の言葉に、その教員は片目を瞑ると、胸ポケットから煙草の箱を取り出した。
「本気で言ってる、それ?」
「半分嘘で、半分本当です。薄々察してはいましたが、好意によるものかどうかは判断がついていませんでした」
「なるほど。その説明もまた、半分嘘で、半分本当なんだろうねえ」
教員は煙草を口にくわえ、全てを察しているかのような、感情の読めない笑みを浮かべた。ただのお人好しな愚者なのか、それとも人を見透かす達人なのか。どうも判断がつかない。これも、両者それぞれに正しく、また、偽りなのだろう。何より、自分の主義に従うならば、彼はこの男を名前でしか定義することができない。自分は自分としか言えないのと同じだ。
そういえば、この男の名前を知らなかった。一応聞いておきたいが、そのタイミングは既に逸してしまったような気がする。まあ、会話だけならば問題はないが。
「これから学生警備室でお茶しようと思うんだけど、君もどう? もしかしたら、君の疑問の解決に役立てるかもよ?」
「……あなたは、教員ではありませんよね?」
学生警備室、という言葉で、この男が教員ではなく、学生警備の関係者なのだと察した彼の前で、男は煙草を手にとると、ゆらゆらと誘うように揺らした。
「一応教員だけどね。専門知識はないけど、社会科よりは親身になってあげられると思うよ」
「俺、紅茶は嫌いなんです。コーヒーも。麦茶あたりがあるなら、お付き合いします」
「あるよ、いろいろと。自販機無料だから、好きなの選んで」
「そうですか。では、もう一つだけ」
彼は無料と言葉を少し意外に思いながらも、それを表に出すことなく言った。
「今わかったが、俺はあんたが嫌いだ。それでもいいか?」
なるほど。学生警備隊長はそう呟くと、苦笑を浮かべながら天井を見上げた。やれやれといった調子で首を振り、視線を戻したその男は、彼の想像に反して笑みをより深い物にしていた。
「嫌われるのは慣れているよ。それでも、僕は個人的に君と話したいと思うね」
「……はあ」
何とも間の抜けた声を出してしまった彼に、そういえば、と、今気がついたというように、男は右の拳で左掌を叩いた。
「僕の名前は、ジミー・ディランだ。少し遅かったが、初めましてと、そう言うべきかな? 御影奏多君?」
※ ※ ※ ※ ※
学生警備室は、一階の昇降口に近い場所にあった。エボニー・アレインがこの場所を活動の拠点としていたことは今まで全く知らなかったが、登校回数が少ないからだというよりは、灯台下暗しと言った方が正しいように彼には思えた。
棚の隣に隠れるように置いてあった自販機の内容にざっと目を通す。マネーカードを当てる部分も、硬貨を入れる場所もない。どうやら本当に無料のようだ。彼は無難に烏龍茶を選択すると、取り出し口からお茶の入った紙コップを取り出して、中身を口に含んだ。麦茶に比べて、少々味の主張が強いのが鬱陶しい。
「ま、適当にかけちゃって」
ジミーはそう言ってパイプ椅子を一つ手前に引くと、どさりと身を投げ出すようにして座った。ポケットからライターを取り出し、職員室にいたときからくわえていた煙草に近づける。ジミーのすぐ隣にある箱型の灰皿を眺めながら、彼は吐き捨てるように言った。
「未成年の俺に汚い煙を吸わせる気なら……煙ごとこの部屋から吹き飛ばすぞ」
「よ、容赦ないね。というか、実技トップの君が言うと本気で洒落にならないよ、御影君」
ジミーは若干顔を青ざめさせながら、まだ火もつけてない煙草を灰皿に放り捨てた。御影もまたパイプ椅子に座り、足を組み合わせる。この男に対して丁寧な物腰を保つことは、既に諦めていた。
「エボちゃんと君は、同郷の仲だってね?」
半分ほど飲み干したコップを机に置いた彼に、ジミーは頬杖をつき問いかけてきた。
「ああ。当時それなりに話題になったな。同じ地区から超能力者が同時に出るのは、初のケースだったか、確か」
「なるほどね。昔からの友人、というやつだ」
「ただの腐れ縁、っていう言い訳は、言い訳にしか聞こえないわな。だが、本当にそれだけだ。前代未聞の問題児である俺が、典型的なエリートであるあいつの友人だって? 笑い話にもなりやしねえ」
彼がこれ見よがしなため息を吐くと、ジミーは腕組みをしてじっとこちらを見つめてきた。
「へえ。これは……僕が思っていた以上に、面倒くさいことになっているみたいだね」
「んだよ。さっきから黙って聞いてりゃ、わかったみたいなことを言いやがって」
「わからないね。わかるわけがない。人が何を考えているかなんて、その人自身にもわからない」
「……あっそ」
「まあなんにせよ、あまりエボちゃんを困らせないでよ。あの子はお人好しだからね」
「お人好しなだけじゃないと思うぜ。あれでいてあいつは案外残酷だ。切り捨てるべきと判断したものは、わりと容赦なく捨てることができる」
「そう、御影君は思っているのかな?」
「かもしれないと、思っているさ。人が何を考えているかなんて、俺が知るか。俺が知っているのは、エボニー・アレインがエボニー・アレインであるという事実だけだ」
彼はそう嘯いて、机上の紙コップを手に取り、中身を一気に飲み干した。手の中でぐしゃりとコップを潰し、部屋の隅にあった屑籠へと放り捨てる。
不毛な会話だと、彼はそう思った。自分とこの男は性格こそ似ても似つかないが、自らの思考を隠す傾向にあるところは共通しているように思う。
「さて、君の質問を聞こうか」
「はい?」
「質問だよ。何か疑問があって、登校したんだろう?」
……こうして、絶妙なタイミングで話を変えるところもまた、自分にそっくりだ。なんというか、痒い所に手が届かないような、何とも言えない嫌悪感を覚える。
「あんたもまた、超能力者なんだよな?」
「まあ、一応ね。地味な能力だけどさ。それがどうかしたかい?」
「なら、一度は疑問に思ったことがあるんじゃないか?」
彼は机の上に少し身を乗り出すと、性懲りもなく新たな煙草をくわえようとするジミーを見つめた。
「一般人と、超能力者。大多数と、ごく少数。その間にあるものが、何なのか」
口元に運ばれようとしていた煙草の動きが、ぴたりと止まった。ジミーは一瞬真顔になった後に、興味深いね、と一言呟き、その煙草をゆっくりと箱へと戻した。
「それは純粋に、才能の違いじゃないのかい?」
「俺もそう思う。そう思っていた。だが、それだけでは説明できないことがある」
橙の光が窓から差し込み、床にのっぺりとした影を貼りつける。彼は自分の影が身振り手振りを交えて話している様子を横目で眺めながら、何かを考え込むように顎を撫でるジミーに続けて問いかけた。
「人間の思考は質量を持ち、現実に干渉しうる。超能力研究は、この考えをもとに始まった。そして実際に、脳の働きに同調するかのように運動する『物質』が発見された。それが……」
「精神粒子。イメージに反応してエネルギーとなり、事象を改変する。それこそが超能力の原理であり、超能力者の精神粒子の保有量は、一般のそれをはるかに凌駕する、だね?」
何をいまさら、といった調子で、ジミーが彼の後を続ける。ここまでの内容は、中学の段階では歴史の授業で必ず習うものだ。能力世界の常識だと言ってもいい。
「俺たち超能力者が超常の力を振るえるのは、ただ単純に、俺たちが『天才』だからだ。学問の分野の事例を取り上げるまでもなく、そういう輩は確かに存在する」
「どこがおかしいんだい? まさか、自分が『天才』だと呼ばれることに抵抗があるとか言い出さないよね?」
「確かに抵抗はあるが、それだけでこんな話を切り出すか。本題はこれからだ」
机に反射して見えるジミーの鏡像が、天地逆さまの状態のまま眉を顰める。
「続けてくれる?」
「超能力者に力があるのは、多数の精神粒子を持っているから。一般人に力がないのは、精神粒子を持っていないから。当たり前のように思えるが、よくよく考えるとこれは異常だ」
「…………」
「単純な話だ。その間にいるべき人間がいない」
学生である彼にとっては、ペーパーテストの成績で例えるとわかりやすい。よっぽど難易度の高いテストでもない限り、点数の分布は谷ではなく山形になる。極めて優秀なわけでも、まったくできないわけでもない中間層が一番多い。
だが、こと超能力者の適正となると、谷型どころか完全に二極化する。超能力者か否かの二択であり、超能力に種類と優劣はあれど、超能力者は皆問題なく力を操ることができている。
「おかしくないか? なぜ、『超能力者の落ちこぼれ』が一人もいないんだ? どんな分野であっても、普通の、真ん中に位置する人間がいるものだろう?」
「なるほど。確かに、その疑問はもっともだねえ。その疑問を、超能力者でも特に優れた者の一人であろう君が抱くのは、少し皮肉めいたものを感じるけど」
難癖に近いその物言いに鼻白む彼に、ジミーは冗談だと笑った。
「じゃあ、こう考えるのはどうかな? 確かに中間層はいる。だけど、超能力を超能力として実際に形にできる人間は上位の、『謁見』で選ばれた人間に限られるっていうのは?」
「つまり、たとえ力があるのだとしても、実際に超能力として発現できるのは、『天才』しかいないという考え方か」
「さらにその『資質』は、隔世遺伝的な物なんじゃない? 能力のない者は、どんなに努力しようとも、超能力者の領域にたどり着くことはできない。こんなところじゃないかなあ」
「…………」
「納得いかない、と言いたげな顔だねえ」
「理屈はわかる。俺もあんたが言ったことと、似たような結論を出したことがある」
努力が無駄であるという事実に対する感情的な葛藤さえ無視してしまえば、反論する余地はない。人間が手に入れた理性とやらに従えば、ジミーの言葉に矛盾が無いことは理解できる。
だが、どうも喉奥に何かが引っ掛かっているかのような、違和感がある。ジグソーパズルの最後の一ピースが当てはまらないような。その場所を除けば全てが完璧に噛み合っているのにも関わらず、詰めがうまくいっていないような、不快感にも似た感情。
「いや、だが……やっぱり、それで正解なんだろうな」
世界は、思いのほか単純にできている。
他の追随をまったく許さぬ、天才と呼ばれるべき存在がいることは否定できない。ならば、それが超能力者というわかりやすい形で出現することは、不自然ではないのかもしれない。それがきっと、残酷な現実というやつなのだろう。
「……邪魔したな。どうもいけ好かないが、それでもあんたと話せてよかった」
彼は社交辞令的にそう言って、パイプ椅子を引きながら立ち上がった。再び胸ポケットに手を突っ込むジミーに背を向け、警備室の扉へと歩いて行く。
「御影君。最後に、少しだけいいかな?」
あと二、三歩で出入り口にたどり着くというところでジミーの声が飛んできて、彼は足を止めた。振り返らずに顎を動かして続きを促した彼の背中に、ジミーはのんびりと言った。
「君と同じような疑問を持つ人間は数こそすくないけど、君以外にもいるよ。言うまでもないことかもしれないけど、君は一人じゃない。それはわかるよね?」
「ああ、当然だ」
「その手のことに関して調べている人もいるんじゃないかな。国立の大学なら、専門としている研究者もいるだろうね。私立は少ないだろうけど」
「それで?」
「いや、これでおしまいだよ?」
彼が顔をしかめて振り返るのと、ジミーがくわえていた煙草の先に火をつけたのが同時だった。棒の先に灯された、今にも掻き消えてしまいそうな輝点を無意識に追いかける彼に、ジミーは静かな口調で続けた。
「とにかく、まあ、気を付けてね、御影君」
「何だって?」
「いや、杞憂だろうけどね。気にしなくていいよ、御影君」
「……あのなあ。そういう意味深なことを言って、面倒になったらすぐ逃げる奴のことを、なんていうか知ってるか? 卑怯者って言うんだぜ?」
「そうだね。僕は卑怯者だ。でも、人は多かれ少なかれ卑怯な面を持っているものじゃないかな。ねえ、御影君?」
言いえて妙だと、彼は思った。そう思っただけで、それを口に出すことはしなかった。
こうして、彼は学生警備室を後にした。結局のところ、かねてからの疑問を晴らすどころか、新たな迷宮へと誘われてしまったような困惑を胸に抱えて。
だがその後、彼はその会話の内容を、記憶の隅に追いやってしまう。最後にジミーが言っていたことについてもまた、深く考えることなく、考えることを拒否する形で、彼は繰り返しの日常へと戻っていった。
実際のところ、彼にその会話の内容を問題視する機会は与えられなかった。そういう意味で言えば、このやりとりに深い意味があったとみなすのは難しいかもしれない。
しかし後日、彼はジミーに対して抱いた最後の印象を、まざまざと思い出すことになる。
夕日の射し込む部屋でところどころ傷の入ったパイプ椅子に腰を掛け、煙草をくゆらすその男が、全身に返り血を浴びた兵士のように見えたことを。
それは決して、夕焼けの色によるものではなく、ジミーという男が漂わす空気そのものが、経験したこともなかった戦場のそれとまったく同じものであったからだということを。
もっとも、その男がジミー・ディランであるという事実はさして重要ではなかった。ジミー自身が自嘲しているように、ジミーも彼も、迷える大多数のうちの一にすぎなかったからだ。
ここで、何にもまして重要なことは。彼らが生きるその時代が、否応なしに、ジミーや彼のような人間を生み出す環境が醸成されるものであったという事実だ。
誰かが特別優れているわけでもなく、誰かが特段察しが良いわけでもない。
物事は、コインのように、表裏では決まらないのだから。




