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 誰かが、何かを否定した。


 全てを諦めて、大切な物を捨て、理不尽に屈し、心臓が止まる瞬間までを惰性的に過ごしていくのが人生だと、それを受け入れることが成長なのだと、そう断言した。


「当然のことだけど、僕はそれに納得しないよ。だって、まだ子供だからね」


 その子供は笑いながら、木で作られた小ぶりな椅子の上で足を組んだ。無邪気そうな見た目に反して生意気な餓鬼だと、彼は思った。


「だから僕は、君に対して納得できないんだ。夢を捨て、大切にしていた物をゴミだと言い、許してはいけないことを許して、何となく今を生きている君には」


 彼はそれに答えない。ただ黙って、華奢なパイプ椅子に腰を掛けたまま、両手をポケットに突っ込み、その子供から目を逸らす。


 鏡を見ているようだと、彼は思った。そしてそれは実際に、ある意味では正しかった。


「君はどうして、僕を捨てていけたんだい? 教えてよ」


 生暖かい風が彼の首元を駆け抜けて、癖の少ない黒髪を揺らし、どこまでも広がる草原で舞い踊る。上には、雲ひとつない青空。数多の草葉が寄り添い、擦り合い、どこか幻想的な合唱を続ける、彼とその子供以外には誰もいない場所。


 これは、いわゆる夢や心象風景というやつなのだろう。ここでの会話に意味はなく、ここでの会話が外に漏れることもない。このやり取りは徹底的に、彼の中で完結している。


「ああ、ああ。また、どうでもいいことを考えていそうだ。本当、『夢』がないよね、君は。こんな場所で、そんな現実的なことを考えるなんて。大人みたいで腹が立つよ」


 そいつは、妙にこちらの感情を逆なでする笑い声を上げた。

 過去の己と話す。過去の己らしき何かと話す。それは別に不可思議なことではない。ここが彼の精神世界であるというのなら、彼以外の人間がいるはずがないのだから。


「だからさ。そう、難しく考えないでよ。なんで君は、いろいろなことに理屈をつけようとするのさ。見ていて鬱陶しいよ。あるがままに受け入れることはできないの?」


 余計なお世話だと思った。そうやって拒絶することは容易だった。


 だが、それを簡単に口にしてしまうこともまた躊躇われた。


 人は理解し合えない生き物なのだと、誰かが言った。だがそれは間違いだ。理解し合える。わかり合える。ただ、共感することができない。それだけの話だった。


 視点は常に一つしかない。自分を起点にしか、物事を観測できない。だから、他人を観察することができても、他人になることができない。


 たとえ自分が相手でなくとも、そもそも会話には意味がない。


 何も変えることなど、できやしない。


「君はあまり人と喋らない。できる限り、一人でいようとする。言葉が間違って理解されることの方が多いことを、他の人が自分と同じ気持ちになれないことを、知っているからね」


「そうかもしれねえな。だが……」


「だけど、それがどうした、でしょ? 逃げてはいけないのか。逃げるのは悪いことなのか。一人で生きていられるなら、それでいいじゃないかって」


「……」


「誰も自分になれないのだというのなら、世界には自分しかいらないって思ってる」


「やっぱりお前、『昔の俺』じゃないだろ」


「そうだね。僕は幼い時の君じゃない。昔の君は、他人を、そして自分を悪く言える人じゃなかったからね。だけど僕は、君だ。君の中に生きる者だ。かつて君が、否定した物だ」


 彼が捨てたもの。今、御影奏多という人間が、持っていないもの。

 その子供は、自分がそういう存在だと断言し。そして彼は――。


「でも、その生き方は、寂しいと思わない? 自分しかいない世界。自分だけがいる世界。そういう、何もない場所で生きたいなんていう人間は……そうだね。ハッキリ言って、面倒だ」


「俺が面倒かどうかなんて、俺の知ったことじゃねえよ」


「そうやって君は、ずっと逃げてきた。自分だけが特別だと思ってきた。自分だけが人間で、周りはみんな化け物で、何を考えているのかわからないって」


「ハッ。なんだその、思春期特有の甘ったれた考え方」


「まあ、少なくとも格好つけではあるよね、君は」


「……」


「あ、これについては何も言わないんだ。なんていうか、面白いね」


 そう言ってその子供は、無表情に笑った。からくり人形が糸で口を動かされているのかと錯覚しそうなほど、中身のない笑顔だった。

 その、変に拙い言葉で紡がれる話を聞かされて、彼は何を感じていたのか。憤りか。虚しさか。その、両方か。


「まあでも、思い込むまでもなく、信じ込むまでもなく、君は特別で、天才だ。それは、ただの事実だからね。こんなことを言っても、君には何の意味もないか」


「……さあな。知らねえよ」


 彼は皮肉気にそう言って。

 誰かを嘲笑するかのように、唇の端を吊り上げた。


「じゃあ、最後の質問だ。何もかもに消極的で、全てを笑ってきた、そんな君が。今という時間を、生きて、戦い、抗っている、その理由は何なんだい?」


 その質問に答えるべく、彼は大きく息を吸い、そして――。





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