[LD] side R
「――――」
遠くから声が聞こえる。
見知らぬ声。何やらあどけない少女の声がこだまする。
暖かいぬくもりが頬を撫でた。
子供の頃触れたことのある母の手の温もりにそれは似ていて、くすぐったくも気持ちいい。
なにやら、光が目をこじ開けようと必死だ。
ああ、まだ起きたくないのに・・・後5分、あと5分だけこの手の温もりをこの身に宿していたい。
その願いは叶わず、その暖かさに引かれるようにして現実の海に引き戻された。
「――おはようございます。救世主様」
ガクが目を薄く開けると、そこには純白に染まる壁。
その壁には所々滲んだ黒ずみがあり、過ぎ去った時代を感じさせる。
薄らと、パイプオルガンの音が鼓膜に鳴り響いていた。
(ん・・・どこだこれ)
頭を横に傾けると、そこには古き良きヨーロッパ調をどこか思わせる豪華な作りの調度品が散りばめられた室内。
強い日差しは窓をすり抜け、赤、青、緑、色とりどりの光が小さく部屋を彩っていた。
(あれはステンドグラスか・・・?教会かなんかか、ここは・・・)
現状を確認する為に、身体を起こそうとするがなかなかいう事を聞いてくれない。
鉛の様な重さが身体全体に行き渡りガクをベッドに縛り付ける。
「あ、ちょっと待ってください」
どこからか少女の声が部屋に響いた。
先ほど、夢の中で聞いた声とそれは似ていた。
声の主は、ガクが居るベッドから少し遠巻きに、入口扉のすぐ横に腰掛けている。
少女はまるで彼の混乱を前もって知っていたかの様な話しぶりで静かに、優しく語りかけた。
「・・・あんまり無理をなさらずに。まだ召喚されて一刻も過ぎておりませんので。」
彼女は、眉間にしわを寄せ、クシャっと心配そうにこちらを見つめる。
ガクは無理やりにでもと身体に力を込め、上半身を起こし少女に目を向ける。
「・・・すいません、ここはどこですか」
「ここは、『聖都』のマクスウェル教会ですよ。」
少女はガクの問いに簡潔に答えると、その手に持っていた分厚い本を閉じ自らの傍らに置いた。椅子から立ち上がりベッドまで歩みを進める。
年の頃は16歳位だろう。揺れる、透き通る質感を持った金色の髪は、部屋に入り込む光を浴び、輝きに溢れた。髪と同じ美しい金色の目がまっすぐとこちらを見つめる。あまりにもの、キリっとしたまっすぐな視線にこちらが恥ずかしくなってしまう。
服装は、肩の露出し、丈の短めな修道服といった所か。
白を基調とし金の細かい刺繍が施されていた。
服の前面には上に伸びるかの様に、天を仰ぎ見る一本の龍が登っていて、その龍の横側から流れるように両辺に4本ずつ、計8本の龍の首が描かれていた。
その刺繍の細かさから明らかに高価なものだと見て取れる。
膝上までの長さの白いソックスにも同じ模様が踊っていた。
あどけなさを残す肌と、少し小柄ながらバランスの取れたスッとした歪みない身体つき。まるで、往年の大作家が絵の中に望んだかのような『聖少女』がそこに居た。
(何が何だか分からない・・・俺は昨日自分のベッドで眠りについて・・・)
ガクは思考の渦に飲み込まれながら、少女に問いかける。
突如訪れた自分の境遇に戸惑い、言葉の端々から苛立ちが隠せなかった。
「君には、目が覚めた時知らない場所に居た経験はあるかな」
「私には無いですね。残念ながら。でも、そう望んだ経験はあります。幾度となく」
「ならば、その状況にある今の俺の事を羨ましく思うのかい」
「・・・宜しければ、お茶でも入れますよ」
そう言うと、少女は部屋の奥に向いカチャカチャと準備を始める。
少女の後ろ姿を眺めながら、お互いに無言の時が静かに流れる。パイプオルガンの音色と共に、男女の声が入り混じった祈りの歌が部屋に充満する。
―――――
お茶を入れ終わり、少女はティーカップを両手で支え再びガクの元へ近づいてくる。
「聖都で取れた上物の紅茶です。気分を落ち着かせる効果があります」
ありがとうと彼女に伝え、おぼつかない手を制しティーカップを受け取る。
手に伝わる暖かさは安心に変わり、口に運ぶと優しい香りが鼻に流れた。
あ、美味い。紅茶の善し悪しを判断する舌は持ち合わせていないが、その味わいでカップに口を付ける度、心は解れていった。
彼女は、自らをマイカ・ボトルインアンカーと名乗った。
「国王軍直属の第2師団所属です。直属と言っても私自身の階級は高くはありませんので、お気になさらず。今は訳あって暇を頂いておりまして・・・」
正直、その時には彼女が何を言っているのか到底分からなかったが、自然と疑問が口をつく。
「――、軍って事はマイカさん兵士なのか。そんなに可愛らしいのに。」
「はい、兵士です。今まで進軍したのは3度程しか無いのですが。ちなみに、可愛らしいと言うのは褒め言葉として受け取っておきますね。」
マイカは冷静に、そしてどこか誇らしげにそう答えた。
「こんな小さな女の子に戦わせるとかすごいな・・・」
ついつい出てしまった呟きに対して彼女は不思議そうな顔をガクに向ける。
「戦う事が許される事は幸せな事ですよ。それさえナンバーに左右されて、自由に選択出来ない時代もありましたから。私は、自身を幸せ者だと自覚しています」
「それに、」と会話を繋げる。
「今の職務にも誇りをもっています、新たな仕事として、おじい様から救世主様の手助けもお願いされていますしね」
・・・戦える事が幸せ?戦いのない平和な世の中こそが一番素晴らしいと教育を受けているガクには聞いたことが出来ない考え方だった。
「本日の礼拝が終わるまで時間が掛かりますので、それまで『救世主様』はゆっくりしていて下さい。おじい様の準備ができ次第、詳細をお話しますね。」
失礼しますと告げると、マイカは踵を返し扉へと向かう。
(――先ほどから気になってはいたがやはり救世主様とは自分の事なのか。)
「ちょっと待ってくれ、その・・・救世主様って呼び方はやめてくれないかな」
「・・・ならば、何とお呼すればいいのでしょうか」
「ガク・・・ガクで良い。それが、いい」
「ガクですか…良い名前ですね。学問というものは我が身を助ける優秀な手段です。何よりも私たち人が他の生物に比べ秀でていてここまでの発展を支えた一番の発明の訳ですし」
自分の名前をそこまで難しく褒められた経験がガクには無かった為、嬉しいのだか恥ずかしいのだか複雑な感情が押し寄せる。
「俺も、マイカと呼んでいいかな」
「その呼ばれ方は、おじい様以外の方には長い事呼ばれていませんね」
「いいかな」
「貴方は不思議な人です。そんな事をわざわざ確認されたのは生まれて初めてですよ」
「あと、紅茶ありがとう。すごく・・・美味しいよ」
マイカの表情は薄赤く染まる。首を縦に降り、頷くことで返事をすると足早に出ていってしまった。
ガクは一人部屋に取り残された。
・・・しばらく彼女との会話の余韻に浸った後、ティーカップを見やる。
カップの底に浮かぶ自分の顔が波打ち歪んでいった。
その少し冷めた紅茶を、不安と共に飲み干した。




