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黒アゲハの舞

作者: 和泉あや子


 寒い朝は動きが遅くなる。若いときは寒さとは無縁だったのに。

 時計の針を気にしつつおかずを詰めていく。弁当を包んでほっとした。通勤時間に間にあった。行ってくる、と泰平さんが玄関で言うので気をつけてと答えながら、お弁当を渡した。藍も制服のボタンを留めつつリビングから走ってきた。

「もう、藍。ちゃんと朝ごはん食べていきなさい、身体が縮こまったまま動くと危ないわ」

 むかし自分が母に言われた言葉を、娘になげる。

「ありがとうお母さん、でも私は若いから大丈夫よ。行ってきます」

 どこまでもこの子は私に似ていた。一口でけでもいいからお腹に入れていきなさい、と言いながら弁当と朝ごはん用のパンの包みを渡した。



 二人を送りだし、洗濯かごをかかえて庭にでると、空気が鼻につんときた。はやいところ終わらせようと、手早く干しはじめた。何枚か干していたら、目の前に影が飛びだした。あ、とこぼした声とともに白い息がもれる。

 黒アゲハがいきなり飛びだしてきた。そのままどこかへいくのかと思ったら、私のまわりを踊るように舞いはじめた。羽が黒曜石のように輝いていた。こんな季節に蝶が飛びまわるなんてめずらしい。

 捕まえようかと手をのばしたが、母の言葉がよみがえり空をつかんで止まる。

 幼いころ私に「黒いアゲハ蝶はつかまえたりころしたりしては、いけないのよ」と。特別な理由があったように思うが、どうしてだったか。肝心の理由が思い出せない。あとで母に電話をしてみようか。蝶のことだけで大げさな気もしたが、久しぶりに声が聞きたかった。


 黒アゲハは鼻すれすれの距離まで近づいてきた。私も追いはらうこともせず、蝶の艶やかな瞳をじっと見つめた。蝶のほうも静かにこちらを見ていた。しばらく私を見つめたあと、ふわりと舞い上がってすぐそばの花壇に飛んでいった。

 ときどき蝶を見つつ、洗いあがったばかりの衣類をハンガーにつるしていった。泰平さんと藍のシャツを、丁寧にしわをのばして干していく。風にゆれる真っ白なシャツたちをみて、自然と口元がゆるんだ。目のはしに映る黒アゲハとのコントラストがまた美しかった。残りの洗濯ものを取ろうと身をかがめたら、腰痛んだ。この時期の水仕事が身体にこたえるようになった。そういえば母もよく腰の痛みに悩んでいた。それでも父や兄、私のために家事をこなしていた。むりをしないでと言っても、なんてことないよ家族のためだもの、と言ってきかなかった。この歳になって母の気持ちがわかった気がする。そんな風に感じることが歳をおうごとに増えていた。同時にわがままだった自分を悔やんだ。してもらったことを、自分の家族にしようと思うのは、私だけではなかったのかもしれない。


 もうすぐ干し終わるというところで電話が激しく鳴る音がした。庭にいるのに、やけに頭にひびく。急いでリビングにもどり、電話にでた。実家の兄からだった。

「葵、母さんが亡くなった」

 兄の言葉が頭のなかで反響した。たったさっき母を思い出して、電話をかけようと思ったばかりだったのに。軽いめまいがした。

「今朝は起きるのがおそいと思って様子をみたら、息がなくて」

 兄の声はふるえていたが、さすがは長男だった。死亡届や、葬儀の手配があるけん、ゆっくり話しはできんが、はやめに帰ってきてくれないかと、事務的に言った。

 すぐ帰るとだけ答えて受話器をおいた。いつものハンドバックをひっつかんだ。喪服や数珠、着替えやなんかは泰平さんにあとから持ってきてもらえばいいだろう。泰平さんと藍が帰宅したら出立しようかとも思ったが、じっとしていられなかった。二人にはあとから来てもらうように走り書きの手紙を残して家をでた。


 駅まで走り、新幹線にとび乗った。席について落ち着くと、母の顔が浮かんできた。お盆に帰ったときはまだ元気だったのに。年末にはまた家族で帰ると話したら、「楽しみに待っているわ」と目じりのしわを濃くして笑ってくれた母の姿が鮮烈によみがえった。八十も後半にさしかかっていたが、まだ何年か生きるだろうと思っていた。ながれゆく窓の景色がゆがんだ。


 実家につくと兄がこんなにはやく来てくれて良かった、と疲れたような顔をほころばせた。「母さんは部屋におるよ」と私が聞くまえに言った。ありがとう、とだけ答えて部屋にむかった。


 母の部屋は冷えきっていた。かぶせられた白い布をとると、いつもと変わらない優しい表情があった。なにか楽しい夢をみているような、安らかな顔だった。「ゆっくりおやすみなくださいね」と言おうと母の耳もとに口を近づけたら、反対側の耳もとに虫の羽が落ちていることに気づいた。同時に母の言葉を思い出した。



 「黒アゲハは、普通の蝶とちがうのよ。生きている人に会いに行ける身体なんだから」



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