第一幕‐2
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「愛!」
「宮島先輩!」
視界に入っていなかったが、近くにいたらしい副部長の莉穂と、なぜか幼馴染みであるの声がした。
ゆっくりと顔を上げると確かに2人の姿がある。
2人は呆然と床に崩れ落ちた愛を見つめている。
その視線を辿るように千敦は顔を俯けると、いつの間にか辺りには血が広がっていて、それは少し離れた自分の足元まで辿り着きそうになっていた。
声が出なかった。というか、目の前に起こっていることが現実だとは到底思えなかった。
千敦はしばらくの間呆然と愛を見つめていた。
すると息も絶え絶えな愛が自分に向かって弱々しく手を伸ばす。
千敦はふと我に返ると、無意識のうちにその手をしっかりと握り締めて傍らに膝を着いた。
血で制服のズボンが濡れたことが一瞬気になったが、そんなことはすぐに忘れてしまった。
「……せき、おか…………」
「はい!」
僅かな沈黙。
「……千敦」
「えっ? あ、はい!」
「私は…………私は……お前のことが、好きだ」
愛はいつものように笑う。
笑うと八重歯が見えて、それが密かに可愛いなと思ってて、いつもと変わらない笑顔なのにたまらなく切なくて、胸が締めつけられてひどく痛くて苦しくて、千敦は何か言いたかったけれど一言も言葉が出なかった。
愛の目が静かに閉じられていく。
それは完全に閉じられると、握っていた手から急に力がなくなり、熱がどんどん奪われて冷たくなっていく。
「ぶ、ちょう…………部長?……部長! しっかりしてください! 部長!」
千敦は力強く愛の手を両手で握り締める。
けれど愛が目を覚ますことはなく、手は既に異様なくらい冷たくなっていたが、千敦はまだ愛の死を認めたくななかった。
だが現実は残酷で容赦なく千敦に襲いかかってくる。
愛の顔は完全に生気を失っていた。しっかりと目が閉じられ、まるで化粧をしているかのように顔全体は白く血の気がない。誰が見たって死んでいるのは明らかだった。
千敦はその顔に触れようと恐る恐る手を伸ばしたが、触れられなかった。
急に頚椎の辺りに鋭い衝撃を感じると、そのまま少しずつ意識が薄れていく。そして重力に耐え切れなくなった体が真横に倒れる。
千敦が最後に見たのは、八重歯を微かに覗かせ満足そうに笑っている愛の姿だった。
「うあぁぁぁぁぁぁ!」
叫び声を上げながら千敦は勢い良く上体を起こす。
目の前には見慣れない景色が広がっていて思わず顔を顰めた。
少ししてからここが保健室で、自分はベッドで寝ていたことは分かったが、それにしても目覚めの悪い夢だった。
というか夢にしてはあまりにもリアルで、愛の温もりが少しずつ失われていくのを思い出すと、今でも恐ろしくて鳥肌が立つ。
でもさっきのは絶対夢だ。あんなことが現実にあるわけがないし、第一に愛が自分に告白するはずがない。と言い聞かせるように心の中で呟く。
とはいえ自分がどうして保健室にいるのか分からなかった。怪我なのか病気なのかは分からないが、倒れた記憶なんて全くない。
試しに千敦は肩を回したり足をそっと動かしてみたが、特に痛いと思う箇所もない。
ふと夢のことを思い出して頬の辺りを触ってみたが、当然血なんてついていなかったし、本当なら部長の血で濡れているはずのズボンもいつも通りだった。
念の為に鼻を近づけて匂いを嗅いでみたが、生臭くもなければ鉄が錆びたような匂いもしない。
疑問に思っていると突然ドアが開いて、おー、ようやく起きたか。と言いながら保健室の天使と名高い保険医のかすみが中に入ってくる。
長い髪の先端で1つに束ね、薄いピンク色のワイシャツに適度に膨らみがある胸。タイトでやや短めの黒いスカートと、そのスカートから伸びる美しいおみ足。 おまけに美人とくれば男どもが放っておくはずもなく、この学校に来て以来かすみは一部の男子から絶大な支持を受けている。ただどうして一部なのかと言うと、もう別の2つ名に原因があった。
「関岡、気分はどう?」
「えっ? あぁ、まぁ普通ですかね」
千敦はありのままを素直に答えた。
「立てる?」
「はい」
千敦はベッドから降りてその横に立つ。特に痛みを感じる所はない。
「歩ける?」
「はい。多分、大丈夫だと思います」
千敦は頷くと適当に保健室を歩き回る。やはり何の異常も感じられなかった。
「じゃ帰れ」
「えぇぇぇぇぇぇ!」
「ここは健康で悩みもない人間がいる場所じゃないの。だからさっさと帰れ」
かすみの言うことは正論だったが、教員としての態度がこれで正しいのかというと、少し間違っているような気がする。
でもかすみはいつもこんな感じで、軽い怪我だと舐めときゃ治るとか、我慢しろなどと平気で言う保健医で、ベッドもあまり貸してくれない。そんな人なので一部の生徒からは保健室の悪魔と呼ばれている。
けれど千敦はかすみのことが嫌いではなかった。
それは見た目の部分も大きいが、普通に怪我をしたら当たり前だけど手当てしてくれるし、数日経ったときに怪我の具合はどう? と聞いてくれたりする。噂では本当に悩んでいる生徒にはちゃんと話を聞いてくれるらしい。
「わ、分かりましたよ……」
千敦はとりあえず保健室を出ようと思ったが、不意に聞かないといけない大事なことを思い出したので、勢い良く体を反転させてかすみと向き合う。
「あの先生……俺はなんで保健室なんかにいるんですかね?」
「何も覚えてないの?」
「はい。あっ、いや……覚えてることはあるにはあるんですけど…………」
千敦は夢のことを思い出して言い及ぶ。
「言い出して急に止められるの嫌なんだけど」
かすみの冷たい視線が痛い。
「その…………部長の宮島さんが突然血を流して死んじゃうんです。もちろん夢だとは思うんですけど、何かそれがすごいリアルで…………」
「覚えていることはそれだけ?」
「はい……でも先輩は元気なんですよね? 死んでなんていないですよね?」
千敦は自分でも馬鹿な質問をしたと思った。
でも夢とは思えない程、今も鮮明に覚えている。真っ赤な血、初めて聞く愛の弱々しい声。好きという言葉に一瞬胸が高鳴るが、冷たくなっていく手と静かに閉じていく瞳を思い出すと、千敦の胸は激しく締め付けられて思わず左胸を強く掴んだ。
突然、関岡。とかすみに名前を呼ばれる。
その声に反応して顔を上げると、切ない瞳でこちらを見つめてくるかすみと目が合った。
思考が停止した。
こんな顔をするかすみを千敦は今まで見たことがなかった。まるで夫を失い途方に暮れる夕暮れの未亡人、または団地妻。そんな顔だった。
千敦は生唾を飲み込む。
なぜそんな顔をするのか聞きたかったが、上手く声が出なかった。
それにそんな切ない顔をされると、まるで本当に愛が亡くなったのではないかと不安なる。
もしかして夢じゃなかった? いや、そんなはずはない。あれは絶対に夢だ。などと自問自答してると、突然かすみがひどく呆れたような溜め息を吐き出す。
いきなり脳天にチョップをくらった。
「痛ってぇ!」
「……関岡は本当にバカだね」
「えっ?」
「宮島ならさっき普通に廊下走ってたけど? そもそもさ、あいつは絶対にタダじゃ死なない奴だから安心していいよ」
かすみの顔は完全に呆れていて、千敦は乾いた笑い声を漏らしながら頭を掻く。
本当に馬鹿なことを言ってしまったようだ。やっぱりあんなことが現実に起こるわけがない。
でも愛が普通に元気だという話を聞いて千敦は少し安心した。
「ですよね。本当に馬鹿なこと聞いちゃってすみません……あっ、そうだ。今日ってこのまま部活に出ても問題ないですよね?」
千敦は保健室のドアに向かって歩き出す。
「あぁ。でも無理はしないでよ。あと部活行くならとにお礼言っときな」
「どういうことですか?」
「その2人がここまで連れて来てくれたんだよ。何でも関岡は階段の踊り場で倒れてたらしいよ? 全く、女の子に運ばせるなんてだらしないなぁ」
かすみのひどく呆れた視線を再び受けながら、千敦はただただ苦笑するしかなかった。
最後にもう一度かすみにお礼を言うと、千敦は保健室を後にした。
そしてその足で多目的室へと向かう。
いつもは本校舎から少し離れた部室棟に一旦集まって、そこからロードワークに行くなり、多目的室に行ってストレッチと発声練習したりするのだが、今日に関しては結構時間が経っているようなので、そのまま多目的室へと行ってみることにした。
学校によって考え方違うと思うが、我が良衛高校の演劇部は役者は体が資本。という愛の考えで運動系の部活にも引けを取らないほどの筋トレやロードワークをしている。
ましてや千敦は男子ということもあって、女子達の倍やらされていた。
今日は事情があったのにせよ遅れてしまったわけだし、校庭10周、いや30周くらい言われるんじゃないか。と不安なことばかりが頭に浮んでは消えていく。
そうこうしているうちに多目的室へと辿り着いてしまった。
自然と深い溜め息が漏れる。
千敦は気合を入れ直してから意を決してドアを開ける。
すると既に役者をやっている部活のメンバーが発声練習をやっていた。
あいうえお、いうえおあ、うえおあい、えおあいう、おあいうえ。と皆で黒魔術の呪文のように低い声を発している。
その中にはもちろん愛の姿もあった。




