勇者様がギルド酒場で顔面から転んだらしい。治癒士の私は何もしていません
勇者レオンハルトの顔面が、ギルド酒場の床に叩きつけられた。
骨の折れる音がした。
酒杯が震え、天井の吊り灯りが小さく揺れ、満員だった大酒場から一瞬で声が消える。
床に広がった赤いものを見て、酒場の誰かが息を呑む。
けれど、誰も叫ばなかった。
誰も駆け寄らなかった。
誰も、私を見なかった。
私、治癒士エルナは、両手で古びた魔導書を抱えたまま、ただ立っている。
その角に、ほんの少しだけ赤いものを付けて。
「……き、貴様ぁぁぁぁっ!」
床に這いつくばった勇者レオンハルトが、潰れた鼻を押さえて叫ぶ。
「エルナ! 今、俺を殴ったな! 勇者であるこの俺を! お前ごとき治癒士が!」
酒場は静まり返っていた。
誰も答えない。
私は何も言わなかった。
言えば、きっと泣いてしまうと思ったからだ。
勇者パーティに入って八年。
気づけば、二十代の大半をこのパーティに捧げていた。
かつていた仲間たちは、レオンハルトの横暴に耐えかねて一人、また一人と去っていった。
それでも私はずっと、レオンハルトを支えてきた。
彼がまだ勇者などと呼ばれる前から、傷を塞ぎ、毒を抜き、呪いを祓い、壊れた鎧に応急の付与をかける。
仲間の食事も、報酬の計算も、依頼主への謝罪も、すべて私の役目だった。
誰よりも早く起きて、誰よりも遅く眠る。そんな日々が、当たり前になっていた。
魔力が枯れて指先が震えても、レオンハルトは言った。
「治癒士なんだから、それくらい当然だろう」
足を引きずって歩けば、彼は鼻で笑った。
「戦えないくせに疲れた顔をするな」
魔物の爪が私の頬を裂いた夜も、彼は傷より先に、自分の髪の乱れを治せと言った。
それでも私は耐えた。勇者パーティが魔王領の侵攻を食い止めれば、多くの村が救われる。レオンハルトがどんな人間でも、彼の剣には力がある。そう思っていた。
けれど、今夜。
彼は、私の杖を折ろうとした。
亡くなった師匠が、最後に私へ遺してくれた白樫の杖。
私が治癒士として初めて命を救った日から、ずっと握ってきた杖。
もう何度も修理を重ね、飾り石も欠け、古びて、見栄えはしない。
それでも、私にとっては命と同じものだった。
レオンハルトはそれを奪い、酔った声で笑った。
「こんな古臭い杖、もういらんだろう。明日からはリリアが俺の専属聖女になる。お前はクビだ、エルナ」
彼の腕に寄りかかっていた金髪の少女が、くすくすと笑う。
王都神殿から来たという新しい聖女、リリアだ。
「ごめんなさいね、エルナさん。私、まだ若いですし、治癒も浄化も祝福もできますから。おばさんの出番、もうないみたいです」
リリアは私の杖を見下ろし、鼻で笑った。
「でも、そんな古い杖にしがみついているから、いつまでも二流なんじゃありません? レオン様、もう折ってしまってもいいと思います。どうせ、この人には必要ないでしょうし」
その言葉に、レオンハルトは愉快そうに笑う。
私は何も言わない。
言えば、声が震えると思ったからだ。
八年間、傷を塞いできた手で。
八年間、頭を下げてきた口で。
八年間、何度も「仕方ない」と飲み込んできた心で。
私は、ここまで耐えてきた。
だから、もう十分だった。
レオンハルトはさらに言った。
「それと、今まで俺の名声で食わせてやった分、退職金など出さん。むしろ慰謝料を置いていけ。お前の鈍臭さのせいで、俺は何度も死にかけたんだからな」
そう言って、レオンハルトは私の胸元へ視線を落とす。
私が抱えている、白樫の杖へ。
「その杖も置いていけ。慰謝料代わりにはなるだろう」
レオンハルトが、また手を伸ばしてくる。
私は杖を引き寄せ、胸に抱え込んだ。
怖かった。
けれど、それ以上に、もう限界だった。
この人には、もう一つも渡したくない。
この人にだけは、もう何も奪わせたくない。
そう思った瞬間、私は机の上にあった分厚い治癒魔導書を掴んでいた。
師匠が遺してくれたもう一つの形見。
初級治癒術から禁呪級の再生術まで書き込まれた、鉄板入りの大型本。治癒魔導書というより、ほとんど盾だった。
あるいは、鈍器だった。
殴ろうと思ったのか。
守ろうと思ったのか。
正直、その瞬間のことはよく覚えていない。
ただ、杖を取られたくなかった。
ただ、もう二度と、この人に奪われたくなかった。
次の瞬間、レオンハルトが倒れていた。
椅子が倒れた。
酒杯が跳ねた。
彼の足元には、こぼれたトマト煮込みの皿が転がっていた。
そして。
今に至る。
「ギルドマスター!」
レオンハルトが血を吐きながら叫ぶ。
「何をしている! こいつを捕らえろ! 今すぐだ! この俺を襲ったんだぞ! 勇者への反逆だ! 王国への反逆だ!」
カウンター奥で煙管をくわえていたギルドマスター、ガルドが、ゆっくりと顔を上げた。
片目に傷のある、元Sランク冒険者。若い頃は竜殺しとも呼ばれた男だ。
彼はしばらくレオンハルトを見つめ、それから不思議そうに首を傾げる。
「はて」
低い声が、静かな酒場に落ちる。
「わしには、勇者殿が酔って足を滑らせ、床に顔面から突っ込んだように見えたが」
「なっ……!」
レオンハルトが目を剥く。
「ふざけるな! 今、こいつが俺を殴っただろうが!」
「殴った?」
ガルドが聞き返す。
レオンハルトは震える指で私を指した。
「エルナだ! この女が!」
その指先と私の間に、がしゃり、と大盾が置かれる。
酒場の隅で大盾を磨いていた巨漢が、いつの間にか私の前に立っていた。
Sランク盾士、バルガス。
かつて北方砦で片腕を失いかけたところを、私が夜通し治癒した人だ。
「悪いな。手が滑った」
「バルガス、貴様……!」
「何だよ。俺は盾の整備をしていただけだぜ」
その瞬間、受付嬢のミレイユが、帳簿を抱えて一歩前に出る。
「エルナさんでしたら、先ほどから私の隣で薬草納品の確認を手伝ってくださっていましたよ」
「嘘をつけ!」
「嘘ではありません」
ミレイユは淡々と言った。
「少なくとも、私はそう記憶しております」
「記憶しております、だと……?」
レオンハルトは周囲を見回し、
「お前らも見ていただろう! 誰か言え! この女が俺を襲ったと!」
沈黙。
それから、バルガスが低く笑って口を開いた。
「いや、俺は見てねえな」
「バルガス!」
「むしろ俺には、勇者様がずいぶん派手に転んだように見えたぜ」
「貴様まで……!」
「酒は怖いな」
別の席で、細身の女性弓使いが肩をすくめた。
Aランク冒険者、セラ。
毒蜘蛛の麻痺毒で心臓が止まりかけた弟を、私が助けたことがある。
「足元には気をつけないと。特に、人の大事な杖を踏みつけようとした後は」
「おい、余計なことを言うな!」
「余計なこと? 私は転倒の原因を推測しただけだけど?」
酒場のあちこちから、低い笑いが漏れた。
レオンハルトの顔が赤黒く歪む。
彼は次に、酒場の店主を睨んだ。
「おい、店主! 床の血を見ろ! これが証拠だ!」
丸い腹の酒場の店主は、布巾を持ってのそのそと近づき、床を眺めて、
「ああ、これはトマト煮込みですな」
「血だろうが!」
「いやあ、今夜のおすすめは牛すね肉のトマト煮込みでして。赤いんですよ、これがまた」
「俺の鼻から出ているだろう!」
「勇者様、飲みすぎると鼻血が出ることもありますからなあ」
酒場がまた、くつくつと揺れた。
笑い声ではない。
誰もが、息を殺したまま喉の奥だけで笑っていた。
私はようやく、少しだけ周囲を見た。
そこにいる人々の顔を。
新人の頃、魔狼に腹を裂かれた少年冒険者。
呪いの指輪が外れず泣いていた魔術師。
報酬を払えないからと治療を拒んだ老斥候。
装備の修理費が足りず、引退を考えていた槍使い。
子どもの熱を下げてほしいと夜中に駆け込んできた宿屋の女将。
皆が、こちらを見ないようにしている。
見てしまえば、証言しなければならないから。
だから、誰も私を見なかった。
誰も、私が魔導書を握っていることに触れない。
私は唇を噛む。
胸の奥が熱くて、痛かった。
「衛兵!」
レオンハルトが叫ぶ。
「衛兵を呼べ! こいつら全員、勇者である俺に逆らう気だ!」
その声に応じたように、ギルドの扉が開いた。
カウンターの奥で、酒場の店主が何食わぬ顔で布巾を畳んでいる。
騒ぎの直後、裏口から給仕を走らせていたのは彼だ。
鎧の音。
王都衛兵隊の二人が入ってくる。
先頭の隊長は、厳格そうな中年の男だった。
「騒ぎがあったと聞いた」
「ちょうどいい!」
レオンハルトが血まみれの顔で立ち上がろうとする。
「衛兵隊長! この女を捕らえろ! 俺を襲った! 酒場中が目撃者だ!」
衛兵隊長は眉を寄せ、酒場を見回し、
「目撃者がいるのか」
「ああ、全員だ!」
「では確認しよう」
隊長の視線が、まずギルドマスターへ向いた。
「ガルド殿。何があった」
ガルドは煙管を口元から離し、少しだけ考えるふりをすると、
「勇者殿が転ばれた」
「原因は」
「酒だろうな。足元も、口も、だいぶ怪しかった」
「ふむ」
次に、隊長は受付嬢へ視線を移す。
「そちらの治癒士は?」
「エルナさんは薬草納品の確認を手伝っていました」
「なるほど」
続いて、大盾の巨漢へ。
「あなたは?」
「勇者様が転んだのを見た」
「誰かが襲ったところは?」
「見てねえな」
最後に、隊長は酒場主人へ向き直った。
「床の赤いものは?」
「トマト煮込みです」
「……そうか」
「そうです」
レオンハルトの肩が、わなわなと震える。
「貴様ら……! 全員で口裏を合わせているのか!」
衛兵隊長はそこで初めて、レオンハルトに冷たい視線を向けた。
「勇者殿」
「なんだ!」
「証言は一致している。あなたは泥酔し、ギルド酒場で転倒した。さらに、治癒士エルナ殿に暴行の濡れ衣を着せようとしている」
「違う!」
「そのうえ、ギルド内で大声を上げ、業務を妨害し、衛兵隊に虚偽申告を行った疑いがある」
「俺は勇者だぞ!」
「勇者であっても、王国法の下にある」
その言葉に、酒場の空気が少し変わった。
勇者という肩書きは、あまりにも強かった。
依頼報酬を独占しても、他の冒険者の獲物を奪っても、仲間を罵っても。
最後には「王国のため」「魔王を倒すため」で済まされる。
勇者だから。
そう言われれば、皆、黙るしかなかった。
けれど今夜だけは違った。
この酒場にいる者たちは、知っていた。
誰が本当に仲間を支え、誰がその恩を踏みにじってきたのかを。
「エルナ!」
レオンハルトは最後の頼みの綱のように、私を睨んだ。
「お前、自分で言え! 俺を襲ったと認めろ! 今なら許してやる。土下座して、俺の鼻を治して、今まで通り俺に仕えるなら——」
「勇者様」
私は初めて口を開く。
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「私は、何もしておりません」
酒場が、わずかに息を呑む。
レオンハルトの顔が、怒りで歪んだ。
「この……卑怯者が!」
「ただ」
私は、折られかけた杖を胸に抱く。
「もう、あなたの傷を治すことはありません」
「は?」
「あなたの毒を抜くことも。呪いを祓うことも。寝ずに結界を張ることも。報酬の計算をすることも。依頼主に謝ることも。あなたの代わりに頭を下げることも、二度とありません」
言葉にした瞬間、八年分の重さが肩から落ちた。
涙は出なかった。
ただ、息ができた。
「私は本日をもって、勇者パーティを脱退します」
レオンハルトは一瞬、意味が分からないという顔をする。
そしてすぐに笑った。
「脱退? お前が? 馬鹿を言うな。お前みたいな年増の治癒士、俺のパーティ以外に拾うところがあるものか」
「では、うちが拾おう」
静かな声が響く。
酒場の奥。
黒い外套をまとった銀髪の男が立ち上がった。
周囲がざわめく。
王国最強の一角。
Sランクパーティ《暁の牙》のリーダー、剣聖オルフェン。
魔王軍幹部を三体討った男。レオンハルトですら、表向きは敬意を払わざるを得ない実力者だ。
「エルナ殿」
オルフェンは私に向かって丁寧に頭を下げた。
「以前、黒瘴谷で我々が全滅しかけた時、あなたは報酬も受け取らず、三日三晩治療を続けてくれた。その恩を、我々は忘れていない」
「オルフェンさん……」
「あなたさえよければ、《暁の牙》の正式な治癒士として迎えたい。報酬は均等分配。専用の研究室と助手を用意する。休暇も契約に明記する」
酒場がどよめいた。
均等分配。
研究室。
休暇。
勇者パーティにいた頃、一度も与えられなかったものだ。
レオンハルトが叫ぶ。
「ふざけるな! エルナは俺の所有物だ!」
その瞬間、空気が凍った。
私ではない。
酒場中の人間の目が、レオンハルトに向く。
初めて、全員が彼を見た。
その視線に、レオンハルトは一歩後ずさる。
「……な、なんだ」
ギルドマスターのガルドが、煙管を灰皿に置いた。
「勇者殿。今の発言は聞き捨てならんな」
「俺は事実を言っただけだ!」
「冒険者は奴隷ではない。治癒士も荷物持ちも斥候も、誰の所有物でもない」
受付嬢ミレイユが帳簿を開く。
「なお、勇者パーティの登録契約を確認しましたが、エルナさんには脱退制限条項はありません。未払い報酬が過去三年分ありますので、こちらはギルドから正式に請求いたします」
「未払いだと!?」
「はい。勇者パーティの報酬分配記録上、エルナさんへの支払いは『後日精算』として処理されたまま、三年間実行されていません」
「それはパーティ内の問題だ!」
「ギルド登録パーティの報酬未払いは、規約違反です」
リリアが青ざめた顔でレオンハルトの袖を引いた。
「レ、レオン様、まずいです。王宮に知られたら……」
「黙れ!」
レオンハルトは彼女を振り払った。
「俺は勇者だ! 魔王を倒せるのは俺だけだ! 俺がいなければ、この国は——」
「その件だが」
ギルドマスターが口を挟んだ。
「王宮から通達が来ている」
「通達?」
「勇者レオンハルトの近年の戦果について、虚偽報告の疑いあり。魔王軍幹部討伐三件のうち二件は、他パーティの成果を横取りした可能性が高い。現在、調査中とのことだ」
レオンハルトの顔から血の気が引く。
「なぜ、それを……」
「ギルドは現場を見ている」
ガルドの声は重かった。
「誰が戦い、誰が倒れ、誰が最後に剣だけ掲げたのか。全部な」
酒場のあちこちで、冒険者たちが黙って頷いた。
レオンハルトは、ようやく理解したようだった。今夜、自分を守る者が誰もいないことを。聖剣も、勇者の称号も、王宮の後ろ盾も、この酒場では何の盾にもならないことを。
「衛兵隊長」
ガルドが言った。
「勇者殿は興奮しておられる。いったん詰所で休ませてやってくれ」
「承知した」
「待て! 俺をどこへ連れていく気だ!」
「虚偽申告、業務妨害、報酬未払いに関する事情聴取です」
衛兵二人がレオンハルトの両腕を取る。
彼は暴れ、聖剣に手を伸ばそうとする。
だが、その前にバルガスが剣の柄を押さえた。
「酒場で抜くなよ、勇者様。今度こそ転ぶだけじゃ済まねえぞ」
レオンハルトは歯を剥き出しにした。
「貴様ら、後悔するぞ! 俺を敵に回してただで済むと思うな!」
その時、酒場の店主がのんびりと言った。
「勇者様」
「なんだ!」
「お代がまだです。壊した椅子三脚分も含めて」
酒場に、今度こそ笑いが起きる。
乾いた笑いではない。
ようやく、誰かが息を吐けた音だった。
レオンハルトは衛兵に引きずられ、扉の向こうへ消えていく。
リリアも慌てて追いかけようとするが、受付嬢ミレイユに呼び止められた。
「リリア様」
「な、何ですか?」
「あなたにも確認事項があります。神殿所属聖女を名乗っておられましたが、登録証の提示をお願いします」
「そ、それは……今は持っていません」
「では神殿に照会いたします」
「ちょっと! 私はレオン様の——」
「確認が取れるまで、神殿所属の聖女として治癒活動を行うことは認められません」
リリアは真っ青になる。
その後、彼女が正式な聖女ではなかったことだけは聞いた。
騒ぎが収まると、酒場の視線が少しずつ私に戻ってくる。
けれど、誰もあの瞬間のことは口にしなかった。
魔導書の角についた赤いものにも、床に転がっていた白い欠片にも、誰も触れない。
勇者の顔面がどうしてああなったのか。
それについても、誰も何も言わなかった。
ただ、バルガスが大きな手で私の肩を叩く。
「怖かったな、嬢ちゃん」
私は首を横に振ろうとして、できなかった。
代わりに、涙が一粒だけ落ちた。
「……怖かったです」
「ああ」
「ずっと、怖かった」
「ああ」
「でも、もう戻りたくありません」
「戻らなくていい」
セラが、温かい蜂蜜酒を差し出してくれる。
「飲める?」
「少しだけ」
「じゃあ少しだけ。今日は眠れるまで、誰かがそばにいるから」
ミレイユは帳簿を閉じ、私に微笑み、
「未払い報酬の請求手続きは、明日こちらで進めます。エルナさんは休んでください」
「でも、迷惑を……」
「迷惑?」
ミレイユの表情に、珍しく怒りがにじんだ。
「八年間、あなたがどれだけこのギルドを支えてきたと思っているんですか。新人の死亡率が下がったのも、負傷引退者が減ったのも、呪いを受けた患者が復帰できたのも、半分はあなたのおかげです」
「そんな、大げさな……」
「大げさではない」
剣聖オルフェンの声が、静かに続く。
「エルナ殿。少なくとも俺たちは、あなたを勇者の付属品だと思ったことは一度もない」
その言葉で、私はついに泣いた。
声を上げるほどではない。
ただ、ぽろぽろと涙だけが落ちていく。
皆は見ないふりをしてくれた。
今夜二度目の、優しい共犯だった。
◇
翌朝、王都中に噂が広まった。
勇者レオンハルトが、ギルド酒場で泥酔して顔面から転倒した。そのうえ、長年支えてきた治癒士に暴行の濡れ衣を着せようとした。さらに報酬未払い、戦果横取り、聖女詐称の女をパーティに入れようとしていた疑惑まで出てきた。
噂は尾ひれをつけて広まったが、肝心な一点だけは、誰も言わなかった。
治癒士エルナが勇者を襲った。
その話だけは、不思議なほど広まらなかった。
なぜなら、誰も見ていなかったからだ。
満員のギルド酒場にいた百二十七人。
受付嬢が三人。
酒場職員が五人。
偶然居合わせた衛兵が二人。
全員が、同じ証言をした。
勇者様は転んだ。
ひどく酔っていた。
治癒士エルナは、ずっと別の場所にいた。
以上。
数日後、レオンハルトの勇者資格は一時停止となり、聖剣は王宮へ預けられた。
勇者パーティも解散し、未払い報酬については、ギルドと王宮が正式に調査を進めることになる。
リリアも神殿から処分を受け、以後、神殿所属の聖女を名乗ることを正式に禁じられた。
二人がその後どうなったのか、私は詳しく知らない。
知りたいとも思わない。
私は《暁の牙》に加入した。
初めて受け取った均等分配の報酬袋は、ずっしりと重かった。
初めて与えられた自分の研究室には、明るい日が差していた。
初めて「今日は休め」と言われた日は、何をしていいか分からず、半日ほど椅子に座って過ごした。
それから少しずつ、私は自分の時間を取り戻していく。
杖を修理し、魔導書の角も磨いた。
あの夜についた赤い跡は、もう残っていない。
ただ、酒場の店主は今でも私を見ると、片目をつぶってこう言う。
「足元にはお気をつけくださいな、エルナさん。最近、顔面から転ぶ勇者様もおりますから」
そのたびに、周りの冒険者たちは知らん顔で笑う。
私も、少しだけ笑う。
私は何もしていない。
勇者様は、ただ派手に転んだだけ。
それが、あの夜ギルド酒場にいた全員の、揺るぎない真実である。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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