1,非・日常
退屈な日常というものは、いつもいきなり終わる。
教壇に立つ教授の、湿り気を帯びた低い声が子守歌のように響いていた。
午後の陽光が大きな窓から差し込み、磨き上げられた机の木目を白く飛ばしている。歴史学の講義。捲られる紙の音とペンの音だけが、高い天井に吸い込まれては消えていく。
私は背筋を伸ばし、万年筆を動かしていた。
ノートには教科書をなぞったような綺麗な文字が整然と並んでいる。幼い頃から私のペン先は一ミリの狂いもなく決められたレールの上を走るように躾けられていた。
(少し眩しいな……)
ふと、視界の端で埃がキラキラと光の粒になって踊っているのが見えた。
自由で、不規則な動き。それを見つめているうちに、重たい瞼の裏側で現実の輪郭がゆっくり溶け始めた。
万年筆の重みが指先から消えていく。周囲の静寂が、もっと深く水底のような心地よい沈黙へと変わっていく。
思考が途切れ、私は深い微睡みの淵へと滑り落ちていった。
水底に沈むような深い眠りの先で、私はいつもの「整えられた世界」とは違う場所に立っていた。
そこは色あせたセピア色の霧が立ち込める、迷路のような裏路地だった。湿ったコンクリートの匂いと、どこからか漂う焦げたような悪臭。教科書でしか見たことのない、スラムの情景。
不意に、霧の向こうから激しい風が吹き抜けた。
「あーもう、ちょこまかと……逃げないで!」
聞き慣れない弾んだ声。反射的に角を曲がると、そこには一人の少女がいた。
私と同じくらいの年頃だろうか。使い古されたパーカーの袖を捲り上げ、彼女は虚空に向かって何かを強く振り抜いた。その瞬間、空中に浮かんでいた黒いヘドロのような塊が、鮮やかな光の礫となって霧の中に霧散していく。
少女は「ふぅ」と短く息を吐き、手元にあったはずの光る短剣を無造作に消した。それこそ、さっきのヘドロのような消え方だ。
「……あれ?」
彼女が私に気付き、ぱちくりと目を丸くする。その表情には敵意も、或いは私が慣れ親しんだ過剰な敬意もなかった。ただ、放課後の教室で友達を見つけた時のような、気さくな驚き。
「ねえ、君。こんなところで何してんの?ここ、今ちょっと『掃除』したばっかだから危ないよ。」
「私は……その、ここはどこ?」
「どこって、誰かの嫌な思い出の中。あ、もしかして迷い込んじゃったの?災難だね。」
彼女は困ったように笑うと、私の元へ歩み寄って来た。近づくと、彼女からは安っぽい洗剤のような、生活感のある香りがした。
「いい?ここはね、私の狩場なの。お嬢様っぽい子には、こういう場所は向いてないって。ほら、そろそろ起きな。チャイム鳴るよ?」
彼女が私の肩をポンと軽く叩く。
その手の温かさがあまりにも現実味を帯びていて、私は言葉を失った。
「バイバイ。またどこかでね、なんて言わない方がいいのかな。」
彼女の屈託のない笑顔が歪み、世界が急速に光の中に溶けていく。
――ガタッ、と。
椅子が床を鳴らす音で、私は現実に引き戻された。
「……っ」
顔を上げると、そこはいつもの清潔な教室だった。黒板を叩くチョークの音。教授の退屈な独白。窓から差し込む、穏やかすぎる陽光。
私は震える手で、自分の右肩に触れた。
夢だったはずなのに、彼女が触れた場所が、そこだけが確かな熱を持って脈打っている。
整然としたノート、整然とした毎日。それらが急に、酷く味気ないニセモノのように思えて、私は窓の外を仰いだ。




