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第9話 小さな事件と守りたいもの

その日の午後、王城の庭園は平和そのものだった。

色とりどりのバラが咲き乱れ、木漏れ日がレースのテーブルクロスに踊る。


「美味しいですわ、お姉様!」


アリス嬢が、口の端にクリームをつけながら満面の笑みを浮かべた。

彼女の膝の上では、私の召喚獣であるウサギのウーちゃんが、同じくイチゴを齧っている。


「ふ、ふん。……まあ、我が国のパティシエも腕を上げたな」


対面に座るアレクシス殿下は、眉間にしわを寄せつつ(これは照れ隠しだと最近分かってきた)、膝に乗せた黒猫の顎を撫で続けている。

殿下の周りの空気がポカポカしているのは、機嫌が良い証拠だ。


私も紅茶を含み、ほうっと息をついた。

悪役令嬢として転生したはずなのに、気づけば「ヒロイン」と「攻略対象」に挟まれてお茶をしている。

不思議な光景だが、この穏やかな時間が壊れることなど想像もしていなかった。


――ガサッ!


庭園の奥にある植え込みが、激しく揺れた。

風ではない。何かが、強引に枝をへし折って進んでくる音だ。


「……?」


殿下が撫でる手を止め、鋭い眼光を向けた。

次の瞬間。


「グオオオオオッ!」


獣の咆哮が空気を震わせた。

緑の葉を散らして飛び出してきたのは、巨大なイノシシ――いや、魔獣「ワイルドボア」だ。

赤い目を血走らせ、口から泡を吹いている。

興奮状態だ。


「魔物!? なぜ城内に!」


殿下が立ち上がり、アリス嬢を庇うように動いた。

しかし、魔獣との距離はあまりに近い。

魔獣は殿下でもアリス嬢でもなく、一番魔力の匂いが強い場所――つまり、召喚獣を侍らせている私の方へ狙いを定めたようだった。


「ブモオオオッ!」


地面を蹴る音。

黒い弾丸のような巨体が、私に向かって一直線に突っ込んでくる。


「リリアナ! 逃げろ!」


殿下の叫び声が聞こえた。

逃げなきゃ。

頭では分かっているのに、足がすくんで動かない。

怖い。死ぬ。

鋭い牙が、スローモーションのように迫ってくる。


その時、視界の端でピンク色の髪が動いた。


「お姉様!」


アリス嬢だ。

彼女はガタガタ震えながら、私を助けようと手を伸ばしてきていた。

駄目だ。

彼女は国の宝だ。私のような悪役とは違う。

もし彼女が怪我をしたら、この国の未来が閉ざされてしまう。


「(私が、守らなきゃ)」


恐怖が、使命感に塗り替えられた。

私は動かない足を無理やり叱咤し、アリス嬢を背に庇って前に出た。


「来ないで! あっちへ行きなさい!」


震える両手を広げる。

攻撃魔法なんて使えない。

できることといえば、この身を盾にして、少しでも時間を稼ぐことだけ。

悪役令嬢の最期としては、悪くないかもしれない。


「令嬢! 何をしていますか、早くお逃げください!」


遠くから警備騎士の悲鳴のような警告が聞こえた。

無理よ。

もう、鼻息がかかる距離なのだから。


私はギュッと目を瞑り、衝撃に備えた。

さようなら、殿下。さようなら、もふもふたち。


ドスッ!

重い音が響いた。


けれど、痛みは来なかった。

代わりに聞こえたのは、魔獣の困惑したような鳴き声と、何かが群がる気配。


「……きゅ?」

「わんっ! わんわん!」

「キーッ!(突撃ー!)」


恐る恐る目を開ける。

そこには、信じられない光景が広がっていた。


「……え?」


私の目の前で、巨大なワイルドボアが急停止していた。

いや、止められていた。


私の召喚獣たちによって。


三つ首のケルベロス(ベルちゃん)が、魔獣の右足にしがみついている。

ウサギのウーちゃんが、魔獣の鼻先に飛び乗っている。

フェレットのモカが、魔獣の背中を走り回っている。

そして、無数の黒いヒヨコたちが、魔獣の進路を塞ぐように地面を埋め尽くしていた。


「ブ、ブモ……?」


魔獣は混乱していた。

振り払おうと頭を振るが、ウーちゃんはピクリとも動かず、むしろその鼻先をペロリと舐めた。


「きゅう(大丈夫だよ)」

「わん(遊ぼうよ)」


声に出さなくても分かる。

うちの子たちは、攻撃しているのではない。

「新しいお友達だ!」と歓待しているのだ。


圧倒的な、もふもふの質量。

そして、私の魔力が生み出す「強制的な癒やし」の波動。


殺気立っていた魔獣の目が、次第にトロンとしていく。

荒かった鼻息が、スゥ、スゥと穏やかなものに変わる。

こわばっていた筋肉が弛緩し、その場にドスンと座り込んだ。


「……ブヒュ」


魔獣は完全に戦意を喪失し、あろうことかゴロンと横になった。

お腹を見せている。

降伏のポーズだ。


「……倒、した?」


呆然とする私に、殿下が駆け寄ってきた。


「リリアナ! 無事か!」


殿下は私の肩を掴み、強く抱きしめた。

痛いほど強い力。

殿下の心臓の音が、私の耳元で激しく鳴っている。


「で、殿下……苦しいです」


「馬鹿者! なぜ前に出た! 私を頼ればよかっただろう!」


殿下の声が震えていた。

顔を上げると、そのアイスブルーの瞳が、怒りと安堵で揺らいでいるのが見えた。


「だって……アリス様を守らなきゃと思って……」


「君が死んだら、何の意味もない!」


殿下の叱責に、私は目を丸くした。

私が死んでも、アリス嬢がいればハッピーエンドのはずなのに。

なぜ、そんなに必死な顔をするのだろう。


「お姉様……ううっ、お姉様ぁ!」


アリス嬢も泣きながら抱きついてきた。

私は二人に挟まれ、サンドイッチの具になった気分で、目の前の光景を見た。


野生の魔獣が、私の召喚獣たちに埋もれて、幸せそうに眠っている。

駆けつけた騎士たちが、剣を抜いたまま「こ、これはどう処理すれば……」と困惑している。


「(……もしかして、押し潰して気絶させたのかしら)」


うちの子たちは、私が思うよりもずっと重いのかもしれない。

魔獣の安らかな寝顔を見ながら、私は自分の魔力の「重さ(物理)」について、少しだけ反省した。


でも、まあいいか。

誰も怪我をしていない。

殿下の腕の中は温かいし、アリス嬢も無事だ。


「……怖かったです」


私が小さく呟くと、殿下はもう一度、私を強く抱きしめ直した。


「二度と離さん。……警備体制を、一から見直させる」


その声には、冷徹な皇太子の威厳と、ただの一人の男性としての切実な響きが混ざっていた。

庭園の風が、バラの香りと共に、私たちの頬を優しく撫でていった。

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