第8話 皇太子の不機嫌
王城の廊下が、寒かった。
比喩ではない。物理的に、白い息が出るほど寒いのだ。
「……冷房、効きすぎじゃないかしら」
私はショールをきつく巻き直しながら、ガタガタと震えていた。
季節は春のはずだ。なのに、窓ガラスには霜が降り、廊下の植木鉢はカチカチに凍りついている。
「お姉様、寒いですぅ……」
隣を歩くアリス嬢が、涙目で私の腕にしがみついてきた。
彼女の体温だけが頼みの綱だ。
私たちは身を寄せ合い、ペンギンのようにヨチヨチと廊下を進んでいた。
「異常気象かしら。……それとも」
私の脳裏に、ある可能性がよぎる。
ゲームの設定。
皇太子アレクシス殿下は、強大な氷の魔力を持つ。
彼の感情が荒ぶると、周囲の気温が下がるという記述があったはずだ。
「(殿下、怒ってるんだわ)」
私は確信した。
原因は明白だ。
ここ数日、アリス嬢が私の部屋に入り浸っているせいで、殿下とアリス嬢が顔を合わせる機会が減っている。
本来なら運命の恋に落ちるはずの二人が、私のせいで引き裂かれているのだ。
そりゃあ、城の一つや二つ、凍らせたくもなるだろう。
「アリス様。今日は私は遠慮します」
執務室の前で、私は足を止めた。
扉の隙間からは、冷蔵庫を開けた時のような冷気が漏れ出している。
「えっ? どうしてですか、お姉様?」
「殿下がお怒りなのは、アリス様とお二人になれないからですよ。私がいたらお邪魔虫……いえ、冷却材にもなりませんわ」
私はアリス嬢の背中をポンと押した。
悪役令嬢として、ここは潔く身を引くのが作法だ。
二人が愛を育めば、殿下の機嫌も直り、この寒波も収まるはず。
「い、嫌です! 私一人じゃ、凍死します!」
「大丈夫、愛の力で溶かしてください。行ってらっしゃい!」
私は抵抗するアリス嬢を強引に執務室へ押し込み、逃げるようにその場を去った。
「(これでいいのよ)」
胸の奥がチクリと痛むのを無視して、私は早足で歩いた。
ここ数日、殿下の執務室で猫を撫でてもらう時間は、私にとっても……その、悪くなかった。
殿下の指先が猫を梳かす音や、たまに見せる穏やかな表情を見るのが、好きになりかけていたのだ。
でも、それは間違いだ。
彼の隣に座るのは「光の聖女」であるべきで、「闇の悪役」ではない。
「……寒いなぁ」
私は自分の腕を抱いた。
召喚獣たちが恋しい。
早く部屋に戻って、ベルちゃんの真ん中の頭に顔を埋めよう。
そう思った時だった。
『ピキキキ……』
背後から、何かが凍りつく音がした。
廊下の空気が、急速に重くなる。
本能的な恐怖に、足がすくんだ。
「……リリアナ」
地獄の底から響くような、絶対零度の声。
振り返ると、そこには「冬将軍」が立っていた。
アレクシス殿下だ。
プラチナブロンドの髪には薄っすらと霜が降り、アイスブルーの瞳は吹雪のように荒れ狂っている。
その背後には、涙目で解放されたアリス嬢が「無理ですぅ」と首を振っていた。
「で、殿下? どうしてこちらへ……アリス様との歓談は……」
「なぜ、逃げる」
殿下が一步近づく。
床のカーペットが、彼の足元からパリパリと音を立てて白く染まっていく。
「ひっ! い、いえ、逃げてなど! お二人の時間を邪魔してはいけないと、配慮をですね!」
「配慮?」
殿下の眉間に、深いクレバスのような皺が刻まれた。
さらに気温が下がる。私のまつ毛に氷の粒がついた気がした。
「(駄目だ、怒りが頂点に達してる! 『余計な気を回すな』ってこと!?)」
私はパニックになり、後ずさった。
殿下が迫る。
逃げ場はない。
その時。
私のドレスのポケットが、もぞもぞと動いた。
「きゅう!」
飛び出したのは、細長い体をしたフェレットの「モカ」だった。
今朝召喚したばかりの新入りだ。
空気の読めないモカは、殿下の殺人的な冷気を「涼しくて気持ちいい!」と勘違いしたらしい。
私の肩を駆け上がり、ぴょーんと跳躍した。
着地点は、殿下の肩。
「あっ! 駄目よモカ! 凍らされるわ!」
私は悲鳴を上げた。
しかし、モカは殿下の首元にマフラーのように巻き付くと、その冷たい頬に鼻先を押し付けた。
「……っ」
殿下の動きが止まった。
モカの温かい腹毛が、殿下の首筋を温める。
すると、どうだろう。
殿下の纏っていたブリザードのような冷気が、見る見るうちに霧散していくではないか。
霜が溶け、床の氷が消え、春の日差しのような温かさが戻ってくる。
「……温かい」
殿下が呟いた。
その表情から、険しい鬼の面影が消え、いつもの(猫を撫でている時の)蕩けるような顔に戻っていた。
***
俺は限界だった。
三日間だ。三日間も、リリアナが来ない。
アリス嬢が来るのはいい。だが、俺が求めているのは彼女の「光」ではない。
リリアナの連れてくる「闇」と、それを召喚する彼女自身の存在だ。
不足した精神安定剤のせいで、俺の魔力制御は崩壊寸前だった。
城中を凍らせてしまっている自覚はある。
だが、イライラして止められない。
「なぜ来ない」
「俺は嫌われたのか」
「あの猫は、今は誰の膝に乗っているんだ」
負の思考スパイラルが、さらに室温を下げる。
そこへ、リリアナ本人がアリス嬢を押し付けて逃げようとしたのだ。
理性が弾け飛ぶ音がした。
追いかけて、問い詰めようとした。
だが、俺の肩に飛び乗ってきた、この細長い毛玉。
フェレット、か?
温かい。
生き物の体温と、リリアナの魔力特有の「安心感」が、首筋から直接脳髄に染み渡る。
強張っていた神経が、一本ずつ解されていくようだ。
「……はぁ」
俺は深い息を吐き出した。
怒りが嘘のように消えていく。
目の前には、恐怖で固まっているリリアナがいる。
彼女は俺が怒っていると勘違いしているらしい。
違う。俺はただ、寂しかっただけだ。
……なんてこと、口が裂けても言えないが。
俺は首に巻き付いたフェレットを片手で押さえ、もう片方の手でリリアナの手首を掴んだ。
「……執務室へ戻るぞ」
「は、はい? でも、アリス様が……」
「アリス嬢も来ればいい。だが」
俺はリリアナをぐいと引き寄せ、その耳元で低く告げた。
これは命令ではない。懇願だ。
「二度と、俺への供給を絶やすな。……国が氷河期になるぞ」
リリアナは顔を真っ赤にして、コクコクと頷いた。
その様子が、首元のフェレットと同じくらい愛らしくて、俺はようやく今日初めての満足感を得たのだった。




