第6話 ヒロイン・アリスの登場
皇太子殿下の執務室での「お茶会(という名の猫セラピー)」が日課になりつつあったある日。
私は城の廊下で、運命の天敵と遭遇した。
「……っ」
回廊の向こうから、光り輝くような集団が歩いてくる。
中心にいるのは、桃色のふわふわした髪に、新緑のような瞳を持つ小柄な少女。
アリス・スプリング男爵令嬢。
この乙女ゲームの正ヒロインにして、最強の光魔法を持つ「聖女」だ。
彼女の周りには、取り巻きの令嬢や護衛たちが群がっている。
「アリス様、お荷物を」「アリス様、今日の髪型も素敵ですわ」「聖女様、どうか私に祝福を」
黄色い声援の中心で、アリス嬢はどこか引きつった曖昧な笑みを浮かべていた。
「(来たわ……)」
私は柱の陰で息を潜めた。
本来のシナリオ通りなら、彼女は殿下と恋に落ち、悪役の私は彼女をいじめ抜いた末に断罪される。
今は殿下に気に入られて(?)しまっているが、彼女が現れた以上、世界は修正力を発揮するはずだ。
「(今がチャンスかもしれない)」
私の心臓が早鐘を打つ。
ここで私が悪役らしく振る舞い、彼女に嫌がらせをすればどうなるか。
殿下は「やはりリリアナは性格が悪い」と幻滅し、アリス嬢を守るために私を追放するだろう。
そうすれば、私は田舎で平穏無事な「もふもふライフ」を送れる!
「やるわよ、リリアナ。心を鬼にするの」
私は震える手で、ドレスのポケットを探った。
そこには、今朝召喚したばかりの「使い魔」が眠っている。
『キー?』
ポケットから顔を出したのは、黒いコウモリだ。
ただし、吸血鬼が使うようなリアルなものではない。
テニスボールのような真ん丸い体に、小さな翼と大きな耳がついているだけの、空飛ぶ毛玉だ。名前は「マリモ」とつけた。
「ごめんね、マリモ。あの子をちょっとだけ驚かせてきて」
私は小声で謝りながら、マリモを放った。
マリモはパタパタと不器用に飛び立ち、アリス嬢の頭上へ向かう。
黒い物体がいきなり飛んできたら、深窓の令嬢なら悲鳴を上げるはずだ。
私はタイミングを見計らって、悪役令嬢らしく高笑いしながら登場する手筈を整えた。
「おーっほっほ! 聖女気取りなんて目障りよ!」と言う練習を喉の中で繰り返す。
マリモがアリス嬢の目の前に降下した。
「きゃっ!?」
アリス嬢が足を止める。
周囲の取り巻きたちが色めき立った。
「なんだあれは!」「黒い……魔物か!?」
「リリアナ様の使い魔だわ! なんて野蛮な!」
よし、反応は上々だ。
さあ、アリス嬢よ、泣き叫んで私を軽蔑しなさい。
私は柱の陰から飛び出そうとした。
しかし、その足は止まった。
アリス嬢が、逃げなかったからだ。
それどころか、彼女は空中に浮かぶマリモを、両手でそっと包み込んだのだ。
「……え?」
アリス嬢の動きが止まる。
彼女は手の中の黒い毛玉を凝視し、それから信じられないものを見るような目で、ゆっくりと瞬きをした。
「……静かだわ」
彼女の唇が動いた。
か細い、今にも泣き出しそうな声だった。
「アリス様! 汚らわしい! すぐに離して!」
取り巻きの一人がマリモを叩き落とそうと手を伸ばす。
「駄目っ!」
アリス嬢が叫んだ。
普段の大人しい彼女からは想像もつかない鋭い声に、周囲が静まり返る。
彼女はマリモを胸に抱きしめ、うずくまるようにして守った。
「……お願い、静かにして。……この子からは、何も聞こえないの」
アリス嬢の肩が震えている。
私はその様子を見て、ゲームの設定資料集の記述を思い出した。
『聖女の力』の副作用。
強力すぎる光の魔力は、周囲の人間の感情――特に「期待」や「欲望」を、不快なノイズとして受信してしまう聴覚過敏を引き起こす。
彼女はずっと、周囲の「聖女様、何かしてくれ」という大合唱に晒され続けていたのだ。
そこに現れたのが、私のマリモ。
私の召喚獣は、複雑な思考を持たない。あるのは「ふわふわしたい」「ご飯ほしい」という単純で無害な本能だけ。
それは彼女にとって、砂嵐の中に現れた唯一の「無音地帯」だったのかもしれない。
「(……私、なんてことを)」
いじめるつもりが、追い詰めてしまったのか。
私は罪悪感に耐えきれず、柱の陰から駆け寄った。
「も、申し訳ありません! 私の使い魔が粗相を……すぐに回収しますから!」
私はアリス嬢の前に膝をつき、マリモを取り返そうとした。
アリス嬢が顔を上げる。
その新緑の瞳には、涙がいっぱいに溜まっていた。
「……貴女の、ですか?」
「は、はい。リリアナ・ベルローズと申します。どうかお許しを……」
嫌われた。間違いなく嫌われた。
こんな得体の知れないものを投げつけられて、泣かせてしまったのだ。
しかし、アリス嬢は私の手をガシッと掴んだ。
華奢な見た目に反して、ものすごい握力だ。
「お姉様……!」
「へ?」
「この子、凄いです! 触っていると、頭の中のガンガンするのが消えるんです! お姉様が作ったんですか!?」
アリス嬢の顔が、至近距離まで迫ってくる。
涙で濡れた瞳が、キラキラと輝いている。
嫌悪感ではない。これは……崇拝?
「あ、あの、それは闇魔法で召喚したもので……」
「闇! 素晴らしいです! 光って眩しくてうるさくて嫌いだったんですけど、闇ってこんなに静かで落ち着くんですね!」
アリス嬢はマリモに頬擦りをした。
マリモも満更ではない様子で『キュウ』と鳴き、彼女の頬を甘噛みしている。
周囲の取り巻きたちは、ポカンと口を開けてその光景を見守っていた。
「アリス様……?」
「お姉様、お願いです!」
アリス嬢が私の手を両手で包み込み、懇願するように見上げてきた。
「私、お友達がいなくて……いえ、周りの人はみんな『何か』を求めてくる人ばかりで……。でも、貴女からは、何も嫌な音がしません。貴女と、この子たちと一緒にいさせてください!」
「え、ええと……」
私は困惑した。
断罪されるはずのヒロインに、友達になってくれと頼まれている。
しかも理由は「私の召喚獣が静かだから(=中身がないから)」。
喜んでいいのか分からないが、彼女の切迫した表情を見ていると、無下に振り払うことはできなかった。
「……時々でよければ、お貸ししますけど」
「本当ですか! ありがとうございます、お姉様!」
アリス嬢は花が咲いたような笑顔を見せた。
その笑顔があまりに可愛らしくて、私は思わず「うっ」と胸を押さえた。
これは、モテる。殿下が落ちるのも納得だ。
……あれ?
でも、彼女が私と仲良くなったら、断罪イベントはどうなるの?
むしろ「悪役令嬢とヒロインが結託」という、もっと恐ろしいバグが発生していないだろうか。
マリモを抱いて幸せそうに笑うアリス嬢と、遠巻きにヒソヒソと話す周囲の人々。
私はその中心で、またしても自分の計画が斜め上の方向へ爆走し始めたことを悟り、天を仰いだ。




