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第2話 特訓の成果は「ふわふわ」

私の足元には、世界の破滅を招く(はずの)闇の眷属が転がっていた。

三日前、決死の覚悟で召喚した「黒ウサギ」だ。


「……ぷぅ」


寝息を立てている。

しかも、完全に野生を捨てた、仰向けの大の字で。


私はその無防備な腹の毛に、つい指を埋めそうになるのを堪え、勢いよく魔物図鑑を閉じた。

バタン、という音にウサギが片耳だけピクリと動かすが、起きる気配はない。


「これじゃ駄目……」


焦りが胃の腑を焼くようだった。

鏡を見る。

そこには、ただウサギの世話に追われ、少し顔色の良くなった健康的な少女が映っている。

「稀代の悪女」の面影など、どこにもない。


この三日間、私はこの子に「ウーちゃん」などというふざけた名前をつけそうになる自分と戦いながら、ひたすらキャベツを与えていた。

恐怖を与えるどころか、私の部屋は平和な飼育小屋になりつつある。


殿下の視察は一週間後だ。

それまでに、部屋に入った瞬間に腰を抜かすような、地獄絵図を作り上げなくてはならない。

ウサギ一匹ではインパクトに欠けるのだ。もっと、こう、凶暴性と数が必要だ。


私は図鑑のページを乱暴にめくった。

指先が震えるのは、武者震いということにしておく。


「ケルベロス……地獄の番犬。三つの頭を持ち、侵入者を喰らい尽くす」


これだ。

イラストには、筋肉質で獰猛な三頭の狼が描かれている。

口からは毒の涎を垂らし、眼光は鋭い。

これなら、さすがの殿下も「リリアナは危険な魔女だ」と青ざめるに違いない。


「……やるわよ」


私はカーペットの中央に立ち、深呼吸をした。

一度成功(?)した感覚は残っている。

体の中の魔力を練り上げる。前回よりも多く、もっと深く、ドロドロとした恐怖をイメージして。


「冥府の門番よ、血の契約に従い、我が前に姿を現せ!」


詠唱と共に、全身の力がごっそりと持っていかれる。

視界が暗転しかけるほどの脱力感。

指先が冷たく痺れ、膝ががくりと折れた。


それだけの代償を払ったのだ。今度こそ、間違いないはずだ。


部屋の空気が歪み、黒い稲妻が走る。

床から噴き出した漆黒の霧が、獣の形を成していく。

一つ、二つ、三つ。

間違いなく、頭は三つある。


霧が晴れた。

私は勝利を確信して、口元を歪め――そして固まった。


「わんっ! わんわんっ!」


鼓膜を揺らす咆哮、ではなく、鈴を転がすような甲高い鳴き声。


そこにいたのは、確かに頭が三つある犬だった。

ただし、サイズはクッションほど。

ふわふわの毛並みは、まるで高級な毛皮のコートのようだ。

つぶらな瞳が六つ、期待に満ちた輝きで私を見上げている。


「……ポメラニアン?」


呆然と呟いた私の声に反応し、真ん中の頭が「キャン!」と嬉しそうに吠えた。

尻尾がちぎれんばかりに振られている。いや、振られすぎて残像が見える。


「うそ、でしょ……」


私は崩れ落ちた。

ケルベロスたちは、待ってましたとばかりに私に殺到した。

右の頭が私の手を舐め、左の頭が袖を引っ張り、真ん中の頭が私の膝に乗り上げてくる。


「や、やめ……離れなさい! 貴方たちは地獄の番犬でしょう!?」


抵抗しようと腕を上げたが、それは「お手」の合図と解釈されたらしい。

三つの前足が、私の掌にペシペシと乗せられる。

柔らかい肉球の感触。

温かくて、少し湿っていて、どうしようもなく愛らしい。


「きゅう」


騒ぎを聞きつけたのか、寝ていたウサギも起きてきた。

新入りを警戒するかと思いきや、ウサギはケルベロスの背中にぴょんと飛び乗った。

ケルベロスたちは嬉しそうに部屋を駆け回り始める。

黒い毛玉と黒い毛玉が合体して、高速移動する巨大な毛玉になっただけだ。


「お嬢様、また何か……」


ノックもなしに扉が開いた。

アンナだ。彼女の手には、洗濯したてのシーツが抱えられている。


「入らないで! 今、恐ろしい儀式の最中なの!」


私はケルベロスたちを背中に隠そうとした。

けれど、三つの頭とウサギ一匹を隠せるほど、私の背中は広くない。

六つの瞳と、二つの長い耳が、私の脇からひょっこりと顔を出してアンナを見た。


アンナは立ち止まり、シーツを抱え直した。


「……増えましたね」


「ち、違うの! これはケルベロスよ! 噛みつかれたら死ぬのよ!」


「はいはい。噛まれる前に、その子たち、ブラッシングしてあげた方がいいですよ。毛が絡まってます」


アンナの指摘に、私は思わずケルベロスの背中を見た。

確かに、召喚されたばかりの毛並みは少しボサボサで、三つの首のあたりが絡まりそうになっている。


「……っ、分かったわよ!」


私は引き出しからブラシを取り出した。

悪役たるもの、手下の管理は完璧でなくてはならない。

身だしなみの整っていない魔獣など、主人の恥だ。


私は床に座り込み、ケルベロスを膝に乗せた。

ブラシを通すと、三つの頭が同時に「くぅ〜」と気持ちよさそうな声を漏らす。

その振動が、私の太腿に直接伝わってくる。


「なんで……なんでこうなるの」


ブラシを持つ手が、悔しさで震える。

でも、止まらない。

右の頭を梳かせば左の頭が割り込み、真ん中の頭が拗ねて鼻を鳴らす。

私は必死になだめながら、平等にブラシをかけ続けた。


気付けば、部屋の中には穏やかな日差しと、動物特有の温かい匂いが充満していた。

ウサギは私の肩に乗り、ケルベロスは私の膝で腹を見せて眠っている。


これが、私が求めた「恐怖の空間」?

どう見ても、ただのアニマルカフェだ。


「……私の魔力、どうなってるのよ」


誰も答えてくれない。

ただ、ケルベロスの寝息に合わせて、私の強張っていた心臓が、ゆっくりとリズムを整えさせられていることだけが悔しかった。


こんな状態で、本当に殿下を追い返せるのだろうか。

不安と、それを上回る「守らなくては」という謎の使命感に包まれながら、私は動けずにいた。

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