第1話 悪役令嬢は闇を呼ぶ
高熱に浮かされた三日間の闇から抜け出したとき、私の頭に残っていたのは、ここが「乙女ゲームの中」であるという残酷な事実だけだった。
豪奢な天蓋付きのベッド。
窓から差し込む朝日は、処刑台の輝きのように白々しい。
私は震える手で、枕元の冷たい水をあおった。
コップを持つ指先が、カチカチとふちを叩く。
公爵令嬢、リリアナ・ベルローズ。
それが私の名前。
そして、一年後の卒業パーティーで皇太子殿下に婚約破棄され、国外追放のち非業の死を遂げる「悪役令嬢」の名前だ。
「……死にたく、ない」
声に出すと、喉の奥が引きつった。
シナリオ通りなら、私は嫉妬に狂ってヒロインをいじめ抜き、最後は禁忌の「闇魔法」に手を染めて自滅する。
なら、先手を打てばいい。
ヒロインが現れる前に、皇太子殿下に嫌われて婚約破棄されれば、処刑まではされないはずだ。
そのためには――
私はベッドから這い出し、等身大の鏡の前に立った。
フラフラする足に力を込め、顎を上げる。
「私は、稀代の悪女よ」
鏡の中の少女は、色素の薄い銀髪を乱し、青白い顔で睨み返してきた。
必死に口角を釣り上げる。
頬の筋肉がピクピクと痙攣した。
違う。これじゃない。
もっと冷酷に。もっと傲慢に。
誰が見ても「関わりたくない」と思わせるような、禍々しいオーラが必要なのだ。
そうだ、闇魔法だ。
ゲームの設定資料集には、リリアナは生まれつき闇の魔力を持っていたと書かれていた。
この国で闇魔法は忌避される。
もし私が、とてつもなく恐ろしい魔物を召喚して使役していれば、殿下だって気味悪がって逃げ出すに違いない。
「……やってやる」
私は部屋のカーテンを閉め切った。
薄暗くなった部屋の空気が、重く沈殿する。
心臓が早鐘を打っていた。
魔力を練るのは初めての経験だ。
けれど、体の中にある「黒い澱」のような感覚には覚えがあった。血管の中を、冷たい何かが這いずり回る感覚。
イメージしろ。
地獄の底から這い出る、血に飢えた魔獣を。
鋭い牙。赤い目。見る者すべてを戦慄させる、絶望の具現化を。
「深淵より来れ、汝は災厄、汝は恐怖……」
中二病じみた詠唱が、静寂な部屋に響く。
恥ずかしさで顔から火が出そうだが、それどころではない。
命がかかっているのだ。
指先に全神経を集中させる。
体中の血液が指先から噴き出すような、強烈な脱力感が襲った。
バチッ、と黒い火花が散る。
床の絨毯が焦げ、空間が歪んだ。
成功だ。
黒い霧が渦を巻き、私の目の前で凝縮していく。
「出でよ! 我が眷属!」
私は叫び、最後の魔力を振り絞った。
霧が晴れる。
そこには、私の想像した通りの「漆黒の闇」が鎮座していた。
「……きゅ?」
思わず、呼吸が止まった。
床にちょこんと座っていたのは、私の拳ふたつ分ほどの黒い塊だった。
長く垂れた耳。
つぶらな瞳。
鼻先がヒクヒクと動き、辺りの匂いを嗅いでいる。
「……う、さぎ?」
しかも、ただのウサギではない。
光を一切反射しない、吸い込まれるような漆黒の毛並み。
禍々しい魔力のかけらも感じさせない、圧倒的な「丸み」。
その黒い塊は、私の足元までトテトテと歩み寄ると、素足の親指に頬をすり寄せた。
ふわ、とした温かい感触が、足先から脳天まで駆け上がる。
「ひっ」
私は後ずさった。
違う。こんなはずじゃない。
私が呼びたかったのは、ケルベロスとか、ドラゴンとか、そういう凶悪なものだ。
こんな、守ってあげたくなるような可愛い生き物ではない。
「なんで……私は悪役なのに」
そのとき、扉の外で足音が止まった。
「お嬢様? 何か叫び声が聞こえましたが……」
専属メイドのアンナだ。
まずい。見られたら終わりだ。いや、逆か?
これを見せて「どうだ怖いだろう!」と脅すべきなのか?
迷っている間に、扉が開いた。
「失礼します!」
アンナが飛び込んでくる。
私は反射的に、足元の「黒ウサギ」を背中に隠そうとした。
しかし間に合わない。
ウサギは私の足の間から顔を出し、アンナの方へ向かって二本足で立ち上がった。
アンナの視線が、私の足元に釘付けになる。
沈黙。
張り詰めた空気が、私の肌を刺す。
恐怖してくれるだろうか。
悲鳴を上げて逃げ出してくれれば、私の「悪役計画」は第一歩を踏み出せる。
「……お嬢様」
アンナの声は震えていた。
私はごくりと喉を鳴らす。
「そちらの……真っ黒な、埃の塊のようなものは、何でしょうか?」
「えっ」
埃。
確かに黒いが、埃はないだろう。
「あ、あら、よく見たら耳がありますね。……まあ」
アンナは困惑したように眉を下げ、それからふっと肩の力を抜いた。
「また、変わったぬいぐるみを出して。熱でおかしくなられたのかと思いましたよ」
「ぬ、ぬいぐるみじゃないわ! これは魔獣よ! 闇の眷属なのよ!」
私は必死に主張した。
証明するために、ウサギを持ち上げる。
ずしりと重い。確かな生命の重みがある。
ほら、このつぶらな瞳を見なさい。この世のものとは思えないほど……可愛いだろう?
「はいはい。お片付けしておきますから、もう休んでください」
アンナは全く取り合ってくれなかった。
むしろ、哀れむような目で私を見て、テキパキとベッドを整え始めた。
私は立ち尽くした。
手の中の黒ウサギが、私の指をぺろりと舐める。
ざらりとした舌の感触。
それは間違いなく本物の生き物だったが、凶暴性のかけらも感じられない。
「……失敗、だわ」
アンナが出て行ったあと、私はその場にへたり込んだ。
魔力を使い果たした倦怠感が、鉛のように体にのしかかる。
こんなことで、本当に断罪を回避できるのだろうか。
人を怖がらせる才能すらないなんて。
視界が滲む。
涙をこぼすまいと下を向くと、膝の上に温かい重みが乗ってきた。
黒ウサギが、よじ登ってきたのだ。
「きゅう」
慰めるように、小さな頭を私の腹部に押し付けてくる。
私は諦めて、その背中を撫でた。
指が埋まるほど柔らかい。
恐ろしいはずの闇魔法は、日向干しした毛布のような匂いがした。
「……今日だけよ」
私は誰に言うでもなく呟き、その温かい塊を抱きしめた。
孤独な悪役令嬢の部屋に、ひとつだけ増えた小さな命。
その心拍数だけが、私の震えを止めてくれていた。




