3話 アップルパイ
「はぁ〜、やっと終わりましたわ」
学校の授業が全て終わり、気の緩みから私は大きく伸びをした。
固まっていた肩がコキコキと音を立て、ようやく一日の緊張から解き放たれた気がした。
帰り支度を済ませて教室を出ると、窓から差し込む夕焼けの光が、廊下をオレンジ色に染め上げていた。
(婚約紋……)
自然と、ラフミエル先生の授業内容が頭をよぎる。とりわけ印象に残ったのは、婚約紋の話だ。
婚約紋を一度だけ見たことがあった。そのときのことが鮮明に思い出された。あの形。初めて見るはずなのに、どこか既視感があった。
それは下腹部に刻まれた、ハートをかたどった紋様。前世のネット上に出回っていた“アレ”の記憶が蘇る。
……そう、まるで、俗に言う「淫紋」みたいで。私は思わず、自分の頬が熱くなるのを感じた。
「ミシェル!」
思考の海に沈んでいた私を、カーナリアの声が引き戻した。振り返ると、笑みを浮かべた彼女が立っている。
「カフェ、行こっ! 約束してたでしょ?」
「ええ、そうね、いきましょう」
カーナリアに手を引かれ、私たちは貴族街の一角に佇むカフェへと向かった。
店の名は「ロイヤル・パレス・カフェ」。王都50選にも選ばれるほどの由緒あるカフェで、どこか落ち着いた温かさがある。
ドアを開けると、カランコロンと心地よいベルの音が鳴り響いた。店内はアンティーク調の家具で統一され、落ち着いた雰囲気が漂っている。案内された席に着く。
私たちは席に着くと、背もたれに体を預ける間もなく、テーブルの端に置かれていたメニューに手を伸ばした。
「今日はジブリールはいないんですのね」
「うん、今日は別の用事があるみたい」
彼女は学園でも忙しそうで、いつも何かに追われているようだった。
「ミシェルはいつものアップルパイとカモミールティーだよね?」
カーナリアがにこやかに尋ねた。
「ええ、その通りですわ。このお店に来たらアップルパイを食べると決めているんですの」
私は得意げに答えた。ちょうど、その時店員が注文を受けにやってきた。
カーナリアは新作のプラムパフェとダージリンティーを注文した。しばらくして、私たちが注文した品が運ばれてきた。
「いただきます」
私たちは二人声を揃えてそう言うと、それぞれのスプーンを手に取った。
目の前に置かれたアップルパイは、こんがりと焼き上げられたパイ生地に、艶やかなリンゴのフィリングがたっぷりと詰まっている。
甘い香りと、微かにワインの芳醇な香りが混じり合い、食欲をそそる。
一口食べると、サクサクとしたパイ生地の中から、とろけるような甘酸っぱいリンゴが広がり、まさに至福の味だ。
そしてカモミールティーの優しい香りが、それをさらに引き立てる。
カーナリアもまた、美味しそうにパフェを頬張っている。彼女が美味しそうに食べる様子を見ていると、私も新作のパフェが気になってき
た。
「それ、一口ずつ交換しません?」
私が提案すると、カーナリアは「いいよ」
と快諾してくれた。私たちはスプーンを取り、お互いにデザートをと食べさせ合う。
「上品な甘さですわね」
プラムパフェは、甘さ控えめのプラムと生クリームのハーモニーが絶妙で、こちらも素晴らしい味だった。
あっという間にデザートを平らげ、私たちは満足感に浸っていた。
「ふぅ、大っ満足ですわ!」
私は大きく息を吐き出し、満たされた顔で言った。
「うふふ、よかったね!」
カーナリアも満足そうに微笑んだ。
私たちはカフェを出た。まだ日は完全に沈んでおらず、空には淡いオレンジ色が残っている。
「ねぇミシェル、ちょっと服、見たいから付き合ってくれない?」
カーナリアが私に尋ねた。
「ええ、構いませんわ」
私は快く了承し、ブティックへ向かう道を歩いていると、貴族の子供たちが楽しそうに手を繋ぎながら走っているのが見えた。
「私の魔力、1500もあったよ!」
「すごい! 僕なんて1200だよ!」
この時期になると10歳になった貴族の子供は魔力検査を受ける。彼らはその検査が終わったのだろう。お互いに魔力の量を競い合っていた。
その年齢にしては、なかなかの魔力量だ。しかし、彼らの無邪気な報告を聞いて、私は思わず鼻で笑ってしまった。私の魔力量は、彼らの比ではない。
自分の時の魔力検査を思い出す。忘れもしない、人生の勝ち組になったあの日、五年前の魔力検査の時のことだ。
◇◇◇◇◇◇◇
私が十歳になったばかりの頃、
荘厳な礼拝堂の中央に置かれた測定台の上で、私は静かに立っていた。水晶球に手を置いた瞬間、周囲がざわめく。
「ーーま、魔力量、53万……!!」
司祭の声が、震えながら響き渡った。あまりの驚きに、手にした魔力量測定の水晶球がカタカタと震えている。彼の背後に控えていた補佐官たちも、一様に目を見開いて言葉を失っていた。
「嘘だろ……子供で、こんな数値……!?」
「いや、測定器は正常だ……記録に残すんだ、早く!」
目の前で大人たちがざわめく様子を私はぼんやりとながめていた。けれど、次の瞬間には司祭が私の肩に手を置き、感極まったように言った。
「あなたは……神の祝福を受けし子だ!アリリウムの未来を担う者よ!」
あの瞬間から、私の人生は変わった。
その日を境に、私は家族や一族の誇りとなり、街の人々からも一目置かれる存在となった。それは、十歳の子供には過ぎた扱いだったかもしれない。
けれど、すぐに慣れていった。いや、慣れてしまったのだ。
「ミシェルお嬢様、こちらにどうぞ。今日は特製のケーキをご用意いたしました」
「ミシェル様の魔力は古の賢者に匹敵と聞いております。本当に将来が楽しみですな」
そんな言葉を毎日のように浴びせられるうちに、私は徐々に「それが当然」と思うようになっていった。
称賛、賞賛、礼賛の嵐。まるで私がこの世界の中心にでもなったかのような錯覚を覚える日々。
(魔力さえあれば、誰もが私を認めてくれる……)
高貴な家柄に生まれ、そして誰もが羨む桁違いの魔力量。私の存在は、その二つによって「特別なもの」へと仕立て上げられていったのだ。
誰かの視線が私に注がれるたびに、誰かが私を褒め称えるたびに、私の心は満たされていくようだった。
(私は、選ばれし存在なんだ。だから……みんなが私を見てくれる)
そう思い込むことに、何の疑いも抱かなかないまま真実として受け入れていた。それが当然の運命であるかのように。
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