1話 登校
アリリウム王国――それは、メガラニカ大陸のほぼ半分を占める、圧倒的な領土を誇る大国である。
その首都アルテミシアは、三重に築かれた堅牢な城壁に護られた、まさに王国の心臓部だ。
城壁ごとに明確な階層区分がなされており、最も外側の第一層には、庶民たちの生活が息づいている。
石畳の道には活気あふれる露天商が並び、揚げ菓子の香ばしい匂い、果物の鮮やかな彩り、道ゆく人々の弾む声が交錯する。
第二の壁に守られた区域は、官僚や高官たちの居住区。整然と区画された石造りの建物、各家に続く手入れの行き届いた庭園、定刻通りに鳴る鐘の音。
それらすべてが、厳格に統制された王国の秩序と格式を象徴している。
そして、最奥にして最も神聖なる第三層――王宮区域。漆黒の御影石に金細工を施した王城が中央にそびえ、その周囲には高貴なる血筋を引く貴族たちの邸宅が円環を成している。
そこに私、ミシェル・スタリウムの生家――スタリウム家の屋敷もあった。
「行ってらっしゃいませ、お嬢様」
透き通る朝の光が差し込む、大理石の玄関ホールに静かな声が響いた。硬質ながらも、どこか落ち着いた調子のその声に、私は思わず足を止める。
振り返れば、そこには専属メイドのアスキー・フォンが、背筋を伸ばして立っていた。
灰色がかった鋭い瞳と、赤茶色のマッシュショート。
整った顔立ちは感情を抑えたような表情を浮かべる。私が生まれる昔からこのスタリウム家に仕えてきた優秀なメイドだ。
「……ありがとう、アスキー」
微笑みながら一歩を踏み出そうとしたそのとき。
「行ってらっしゃいませ、お姉様〜」
ふわふわとした声とともに、廊下の奥からぺたぺたと足音が聞こえてきた。
振り返ると、銀の髪を揺らしながら眠たげな瞳を擦って近づいてくる小さな姿――私の妹、エレナ・スタリウムだった。
陶器のように白く滑らかな肌。大きく澄んだガラス玉のような瞳。頬にかかる柔らかな髪と、わずかに開いた唇。
その姿は、まるで精巧なビスクドールのようで、思わず抱きしめたくなるような愛らしさに満ちていた。
「お姉様、行ってきますのハグ……してくれませんの……?」
半ば眠りながらも両手を広げてきた妹に、私は迷わず腕を伸ばした。
その小さな体をそっと抱き寄せると、日向の香りがふわりと鼻をくすぐり、心の奥がじんわりと温かくなる。
(……やはり私の妹は、天使ですわ)
その柔らかさも、温もりも、存在そのものが奇跡のようだった。
「ええ、行ってきますわ、エレナ」
頭を優しく撫でてやり、満足げに微笑むエレナを残して、私は屋敷を出た。
重厚な鉄製の門をくぐり、学園へと向かう石畳の道を歩き出す。空は澄みわたり、空気は清らかで、どこまでも爽やかな朝だった。
鳥たちのさえずりが風に乗って耳に届き、それだけで気分が少し高揚する。
私の歩みにあわせて、風がローブをはためかせる。肩まで伸びた薄桃色の髪が、朝の柔らかな風に揺れた。
あどけなさを残しつつも艶やかな色気のある顔立ちで、口元にはわずかに余裕の笑みが浮かんでいた。
触れれば消えてしまいそうなほど、どこか現実離れした美しさをまとっている。
――それが、ミシェル・スタリウム。かつて日本の女子高校生、神崎ゆうこ、として生きていた私の今の姿だ。
――そう、私はある日、突然この世界に転生していた。
理由も前触れもない。ただ、目を開けたら知らない天井があって、気づけばこの〈アリリウム王国〉という魔術国家の貴族令嬢になっていたのだ。
前世の記憶は残っている。だが、この世界の存在や、転生した理由については、何ひとつ分かっていない。
このアリリウム王国では、魔力至上主義の世界だ。
この国では魔力が何よりも尊ばれている。魔力こそが個人の価値を決定する絶対的な基準であり、社会において、その有無や量が人の優劣を決定する。
幸いにも、私はこの国を支える四大貴族のひとつ〈スタリウム家〉の娘として生まれていた。そして、その中でも歴代屈指とされる魔力量を備えていた。
つまり、私はこの世界で最上位に位置する「生まれながらの勝者」だったのだ。
「………」
街の通りに出ると、道の両側には、朝市のために準備を進める露天商たちが活気ある声を上げ始め、焼きたてのパンの香りがふわりと漂ってきた。
道行く人々は皆、楽しげに談笑している。しかし、その賑わいの中に、時折聞こえてくるひそひそと話す声がが私の耳に届いた。
「おい、見ろよ、あそこミシェル・スタリウム様だ」
「あの子って、あのエイデス元帥の娘だろ?」
「エイデス元帥といえば、数年前のエレウシア王国との戦争の時に、伝説的な活躍をした英雄だよな」
「伝説って?」
ひそひそ話が聞こえてくる。噂されるその内容は、私に向けられたものだとすぐに理解できた。しかし、不快感よりも、むしろ心地よさを感じていた。
「やはり、高貴なものにはそれ相応のオーラが滲み出てしまうのですわね」
まったく困ったものだ、と内心で頬を緩める。
抑えようとしても、どうしても隠しきれないのだから。
「おはよう!ミシェル!」
快活な声が背後から響く。
朝の太陽の光を帯びて金色に輝く長い髪が揺れていた、瞳は透き通るような淡い蒼。
冷たさよりも、いたずらっぽい光が強く、その唇はほんのり艶があって、動くたびに視線を奪っていく。
カーナリア・レベリウス、私と同じく四大貴族の一角、レベリウス家の令嬢にして、彼女の家は超がつくほどのお金持ちで、幼少期からの親友だった。
「ごきげんよう、カーナリア」
私は優雅に挨拶を返す。すると、彼女はにこにこと笑いながら私の腕に絡みついた。
「ねぇねぇ、今日放課後、カフェに寄っていかない? この前言ってた新作のパフェ、ついに出たんだって!」
「またですの? この前、行ったばかりじゃありませんの」
実際、つい3日前に行ったばかりだ、私がため息混じりに言うと、カーナリアは唇を尖らせた。
「お願い、お願い! ミシェルとじゃないと、つまらないんだもん!」
まったく、甘え上手にも程がある。
私は彼女のお願いにはどうにも弱い。
「……はぁ、仕方ありませんわね。今日だけですわよ?」
私が折れると、彼女は満面の笑みを浮かべて小さくガッツポーズをした。
そんなやりとりを交わしながら歩くうちに、私たちは自然と学園の門前へと辿り着いていた。朝の陽光に包まれたアルトメギア学園は、今日も活気と期待にみちていた。
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