嘘つき幼馴染
桜が散り新入生も新しい環境に慣れる頃。私は窓の外の青空をぼーっと眺めていた。そうしていると不意に扉が横に開かれる音がして思わずそっちに目を向ける。
「よう、元気か?」
そこにいたのはこっちに向かって手を挙げる幼馴染。高校生にもなるのにこいつは落ち着きがないやつだ。
「今日は早いね」
「テストなんて余裕だから勉強する理由もないし。ここで無駄話する方が良い時間の使い方だろ」
私の幼馴染は噓つきだ。テストが余裕なんて言ってるけどそんなこと無いのはよく知ってる。高校受験の時に付きっきりで世話をしたのが誰だと思ってるんだ。というかそもそもテストなんてまだまだ先なんだから心配する意味も分からない。
「昼休憩にわざわざ会いに来てやってるんだから感謝しろよ」
「馬鹿じゃないの? そんなの知ったこっちゃないっての」
今日もこの無駄に広い建物を私がいる一室まで訪ねて来たらしい。花の高校生活それでいいのか? 好きな人とかいないのかお前は。……まだ一か月だもんな、ちょっと早いか。
「クラスに友達とかいないの?」
「いるけどさ、みんな勉強勉強ってね。単語帳開いて英単語覚えるのはもう飽きた」
「あんた絶対そんなのやってないでしょ」
こいつが自分から単語帳開く姿なんて想像もつかない。
「そうは言うけどな、英単語覚えたら海外だって行けるだろ? いつか来る未来の為、だよ」
「何それ、アニメの台詞とか?」
「うっせーよ」
高校生になったからか背伸びしたような言葉を使いやがる。この前まで一緒に河川敷を競争したり、二人でサッカーボール追いかけたり、取っ組み合いの喧嘩をしてたのに。大人ぶりやがって。
「俺は優しいから弁当も持って来てやったんだ。感謝しろよ」
「何これ、手作りみたい」
「手作りだよ。感謝しろ」
「どうせおばさんに作ってもらったんでしょ」
こいつのお母さんは弁当を作るのが上手い。小さい頃から何度か見かけたけど色がカラフルで綺麗なのや細やかな細工がしてあったり、そのものにしか見えないキャラ弁だったりでちょっと羨ましかった。まあ今更キャラ弁が嬉しいかと言われれば微妙だけど。
「どうだ、見てみろ」
開かれた弁当箱の中身は。……おかしいな、おばさんにあるまじき出来栄えだ。なんか茶色いものばっかりだし、この辺のほうれん草の和え物とか冷凍食品っぽい。
「えー、まさかまじで手作りなの?」
「そう言ってるだろ」
「どうせならおばさんが作ったのがよかった」
何も考えず思ったことを口に出したけどいつものように返事がない。もしかしてショックだったんだろうか。ちらりと覗き見た表情は確かに少し悲し気に見える。もしかしたら自信作だったのかもしれない。悪いことをしたかも。ただバレンタインにあげたチョコを形が悪いだの中から変な味がするだの言ったやつだ。気にする必要も無いか。
「ふうん、味はまあ悪くないね。いつの間に練習したの?」
「あー、まあ、最近。ちょっとやってる感じだ」
「最近ねえ。おばさん忙しいとか? お仕事大変らしいし」
「……まあ、夜いないんだよ、今。だから代わり、みたいな」
何か今日は歯切れ悪いな。わざわざこんなところまで来たんだしもっとはきはき喋れないんだろうか。
「そういや部活はどうしたの? ゴールデンウィークまでには決めなきゃでしょ?」
「ああ、文芸部にした。あそこ実質帰宅部らしいから丁度いいかなって」
「折角だからスポーツでも始めればよかったのに」
こいつはどうも無趣味でいけない。高校は部活に所属しないといけないという今の時代に存在するのか、と驚きすらした制度だったのに。もったいないなあ。
「運動神経は悪くないでしょ? テニスとかバスケとかどう?」
「いやもう入ってるから遅いよ」
「あ、もう紙出したんだ。ちぇー、一緒の部活にして無理矢理連れてこうと思ってたのに」
「スポーツ系は大体男女別だろ」
「何個か一緒のがあったよ。人数少ないからって。弓道だったかな?」
「弓道ねえ。一回やってみたいけど一回でいいや」
それは同感。頼んだら一回やらせてもらえないだろうか。確かさっきの弓道が人数少ないって言うのは夕ちゃんに聞いたから、きっと本人か友達が弓道やってるはず。うん、今度聞いておこう。
さて、そんなことを考えているといつの間にか弁当を食べ終えた我が幼馴染がじっとこっちを見ている。
「何?」
「ああ、うん。いや……、ほら、元気そうだなって」
「まあね」
「……そろそろ行くわ」
「そう? まあそろそろ休憩時間も終わっちゃうか」
「また明日来るわ」
そうは言ってるけどこいつは嘘つきだからな、明日来ないかもしれない。
桜の木が見えるのはこの場所の数少ない良いところだ。まあもう花は散ってしまったけれど。でもしばらくしたら青々とした葉が木を覆って生命力に溢れた姿を見せてくれると思う。
ぼーっと外を見ていると不意に扉が開いた。
「よう、何見てんだ?」
そこにいたのは我が幼馴染。昨日見た時も思ったけどこいつこんなに背高かったっけ? 高校受験の勉強会の時は私より低いんじゃん、なんて揶揄ってたはずなのに。この短期間でここまで伸ばしてくるとは。
「桜見てたんだよね。見てよ、もう全部散っちゃったけど」
「あー、この前の雨のせいだろ。結構降ったし」
雨? そんなの降ってないはず。まあこいつは嘘つきだからなあ。たぶんこれも何も考えずに適当に言ったに違いない。
「まあそれより飯食おうぜ。今日も弁当作って来たから」
「へえ、毎日作ってんの?」
「まあな。こっちお前のな」
受け取った弁当を開けると彩り豊かなおかずとのりを切ってキャラクターが象られたご飯。うーむ、すごいクオリティだ。
「相変わらずおばさんはすごいね。仕事行きながらこんなの作っちゃうんだ」
「あー、まあ、そうな」
「でもこのキャラは私知らないや」
輪郭とかもはっきりしてるし知ってればすぐにわかるんだろうけど、有名な漫画やアニメぐらいは知ってるつもりだったんだけどな。
「最近流行ってるやつ。まあお前はこういうの疎いからな」
「えー、ほんと? 全然見た記憶無いけど」
「まあそうかもな」
知らなくて当然みたいな態度が腹立つな。スマホがあれば今すぐ調べるところだけど、残念ながらここはスマホ持ち込み禁止なんだよね。もうちょっと融通利かせてくれてもいいのに。
「うーん、気になるけど。まあいいか、食べれば一緒だし」
「そういうことだな」
いただきまーす、と弁当を食べ始める。お、美味しい。おばさんまた腕上げたのかな。受験の勉強会の時におばさんの料理は結構食べたけどその時より美味しい気がする。……いや、どっちかって言うと今日の味付けが私の好みに近いだけかも。
「おばさんってこんな濃い味付けだったっけ?」
「あ、気付いたか。実はちょっと俺のと味付け変えてある」
「そうなの? わー、わざわざそんなことまで。後でお礼言っとかなきゃ」
「……そうだな。きっと喜ぶと思う」
ん? なんか返事までに一瞬間があったけど何だろ。んー、あ。実はおばさんの完成品にこっそり追加で味付けしたとか? だとしたら私がお礼言う時にそれをばらすと困る、とか。いや、無理あるか。
弁当を食べ終えると話題は別のところ、と言っても今話すことなんて学校のこと以外無いか。
「高校生活どう? 昨日は友達ができたとか言ってたけどどうせ嘘なんでしょ?」
「いるよ、数は少ないけど。今度一緒に遊びに行く予定だし」
「ほんと? 嘘じゃないなら喜ばしいことだけどね」
「ほんとだよ。授業同じ奴で気の合うやつがいてさ」
「授業同じって、要はクラスメイトってことじゃん。何言ってんの?」
「……ああ、そうそう。そんな感じ」
んー? そんな感じって何が言いたいんだ? あ、そういや体育は男女別の代わりに隣のクラスと合同だったか。じゃあ隣のクラスの男子と仲良くなったんだな。中学の時はちょっと浮いてたし私は嬉しいよ。
「なら早く戻ってその友達と話してきな。どうせ私とはいつだって話せるんだし」
「……まあ、そうな。……明日また来るわ」
「おー、また弁当よろしくね」
明日、本当に来るんだろうか。なんか返事に変な間があったし来ないかも。あいつ嘘つきだからね。
昨日の朝から降り続いた雨が地面に残っていた桜の花びらまでどっかへやってしまった。あんなに降られたら危うく浸水でもするんじゃないかとちょっと怖いぐらいだった。まあその雨雲は今日はもうどこかへ行ってしまったみたいだけど。
そんなことを考えながら空を見ていると扉の開く音がした。
「……あー、調子どうだ?」
なんだかくたびれたような声で入って来たのは我が幼馴染。しかしこいつはこんなに大人びた顔だったか? 高校生にはとても見えない。
「昨日の雨どうだった?」
「凄かったな。俺は家で引き籠りたかったけどな、そうもいかなかった」
「え、学校やってたの? あの雨の中で?」
「あー、まあ、そんな感じ」
最近の学校は恐ろしいな。それとも高校ってそんな感じなのかな。小学校や中学校は警報が出てたら休校だったのに。それとも昨日は警報出てなかったんだろうか。この部屋テレビもスマホも無いから調べられなかったんだよね。
「ほら、弁当。昨日は来れなくて悪かったな」
「そうだよ。一昨日来るって言ってたのに」
ぷんぷん、と拳を頭に乗せて怒りアピールは欠かさない。まあ実際あんな雨の中を来られても困る所だけどね。
「今日の弁当はどうかなー」
蓋を開けると冷凍食品とか使ってある感じの一般的な普通なお弁当って感じだ。ただ卵焼きとかアスパラの肉巻きとか手作りっぽい所にはなんとなくこだわりを感じる。
「最近の冷食っておいしいけどやっぱりおばさんの手作りのやつの方が美味しいね」
「それ俺が作ったやつだぞ」
「うっそだー。こんなの作れないでしょ。家庭科の授業ひどくなかったっけ」
「随分長いこと練習したからな」
「毎日卵焼き焼いてたとか? そんなのするの?」
「するんだよ」
なんか意外だ。そんなことしていたなんて。……でもまあ、こいつなりに考えがあってのことだろう。おばさん、シングルマザーで大変そうだし料理ぐらいは自分でってことなのかも。まあ嘘じゃなければだけど。
「あ、そうだ。高校はどう? 友達できた?」
「まあそれなりかな。それなりに良い関係は築いてるつもり」
「何それ、なんか父さんみたいなこと言ってる」
うちの父さんはお酒を飲むと会社の同僚の愚痴をよく言ってるけど、次の日に仲悪いの? って聞くと必ず言うのだ。良い関係を築いている。つまりこれは嘘つきの常套句に違いない。
「あ、そうだ。宿題、宿題とかどうなってるか知らない? クラス違うからわかんないかな」
「あー、もう流石に覚えてない」
「何それ。まあいっかあ。どうせまだそこまで難しい授業やってないしね。三日ぐらいの遅れなんてすぐだよ」
「……ああ」
何今の返事。なんか調子狂うな。
「あんたさ、最近変じゃない? 何て言うか、心ここにあらずって言うか、悩みがあるなら相談してよ?」
「何でもないよ」
……やっぱりこいつは嘘つきだ。
それからしばらく話をして、そろそろ時間だからと我が幼馴染は立ち上がる。
「そろそろ仕事に戻らないとな」
「一昨日も言ったけど学校のこと仕事って言うのやめたら? 絶対変だよ」
子供は学ぶのが仕事とか言ったりするけどそれを本気で言い出したらおしまいだ。呆れちゃうね、と溜息をついていたらなぜかじっとこっちを見ている彼と目が合う。
「……なあ」
なんだか私が思っているよりもずっと大人びた顔と声、いつの間にこんなに成長したのか、本当に記憶がない。
「明日も今言った言葉、覚えていてくれよ」
「は?」
意味の分からない言葉を投げて奴は去って行った。私はまた一人に戻る。この病室に一人きりだ。まだ三日とは言えあまりに退屈で正直飽き飽きしているところではある。窓の外を眺めてみても桜も散ってしまった今では大した面白みはない。
扉をノックする音。
「入りますよー」
私の世話をしてくれる看護師さんだ。多分、昨日話していた件だろう。
「これからあなたの頭の中にある血栓を取り除く手術をします。最新の技術でほとんど危険も無いしすぐに終わりますから、次に起きた時にはきっとすっきりした感じになりますよ」
どうやら私の頭の中には血栓があるらしい。この前の事故の時にできたとか。すぐに取り出すつもりだったけど中々上手くいかなくて今日まで伸ばし伸ばしになったって言っていた。まあたった三日だけど。しかしすっきりした感じとは言うけど別に何も違和感とか無いんだけどなあ。
「では行きましょうか」
「はーい」
手術室。ベッドで横になり口になんか被せられる。そのまましばらくして私の意識は消えて行った。
目が覚めると頭がすっきりした感じ、になったとは思えない。気付いた時には病室のベッド、この三日間ですっかり慣れ親しんだ場所にいる。外の桜はもう散ってしまったし一昨日の雨の名残ももう残っていない。備え付けの洗面所で顔を洗うと鏡が無いことを不便に思いながら顔を拭く。
「……そう言えばお母さんもお父さんも来てくれなかったな。お仕事忙しいのかな」
そう、口にして、何か変だな、と思う。
「私は三日前に事故にあって、それから、病院に入院している?」
言いながらこれは正しいのだろうかと疑問に思った。手術で日を跨いでないかとか、そういう問題ですらない。おかしい、事故の詳細を思い出せない。
「歩いていた時に車が突っ込んで来たんだっけ?」
なぜほんの数日前のことが思い出せないんだろう。事故のショックで記憶が曖昧になっているんだろうか。それとも手術の後遺症?
わからないことが恐ろしい。私は自分の手を前に突き出す。
「これ、誰の手?」
記憶よりも幅が広くてやせ細った手がそこにある。そんな私の病室の扉が開く。
「元気か?」
そこにいたのは私の嘘つきな幼馴染だ。
「だいたい十年ぶりだな。こんな話するの」
幼馴染の嘘のような言葉だ。でもそれは本当に嘘なのだろうか。だって彼は私の記憶よりも背が高く、大人びた顔をしているのだから。
「事故のことは覚えてるか?」
「……あんまり」
確か、近所を歩いてる時に車が突っ込んで来た、はず。
「どうせその内わかることだから今から全部話す」
そう言った癖にこいつは何を躊躇っているのか中々話し始めようとはしなかった。どう話すのか決めてなかったのなら準備不足だぞ。そんな風に茶化そうかと思ったけど、そうでないことは表情を見ればわかる。随分顔が変わったように見えるけどそこにいるのは幼馴染なのだから。
「……事故はさ、車が突っ込んだんだ」
「それはなんとなく覚えてる」
「お前と、お前を庇おうとした二人が牽かれて……。うん、二人はその、亡くなった」
私は思い出す。そうだ、一人で歩いてたんじゃない。私はあの時、お父さんとお母さんと一緒に買い物に向かっていたんだ。それで二人は私を庇おうとして。
「それで、その車を運転してたのが俺の母さん」
「えっ」
「夜勤続きで疲れが溜まってたって、眠気で一瞬気を失って、気付いたら避けれなかったって、言ってた」
私は言葉を失くした。おばさんが苦労していたのは知っている。朝から晩まで働いて、必死になって目の前の幼馴染を育てていたのを私は知ってる。
「お、おばさんは?」
「……ずっと塞ぎ込んで、まあ、その。……事故から一年ぐらい経った時に首を」
罪の意識に耐え兼ねて、そういうことなのだろう。
「俺は親戚に引き取られてさ。そこの人がいい人で大学も行かせてもらって今は大手の企業で働いてる。結構給料も良くて、今は色々な所にお金を返したりしてるんだ」
お金を返すというのが具体的に何を指しているのかはわからないけど、きっと色んな人に世話になって今があるのだろう。状況はだいぶわかって来た。わかってきたが故におかしなことばかりが耳につく。一年? 大学? 働いてる? 何より、言及がない人物が一人いるじゃないか。
「……私は?」
「……今、お前何歳かわかるか?」
「十五歳、高校生活が始まって一か月、だと、思ってたけど」
「あれから大体十年経ったよ」
十年、それはとても長い年月だ。突然言われても想像ができないぐらい長いのに、私はその間のことを何一つ覚えていない。まるで胸に穴でも空いたような気分だ。
「詳しいことは俺もよくわからないけど、事故でお前の頭に血栓ができたらしい。それが原因で記憶が大体三日しか持たなくなってんだと。血栓を取り除こうにも場所が悪くてどうにもできなかった。ただ最近技術の進歩ってやつで安全に除去できるようになったんだよ。記憶が持つようになるかはやってみないとわからないって話だったけど、どうも大丈夫らしい」
そんな説明をしてくれたのはありがたいが、私はその言葉を半分も理解できなかった。いや、理解を拒んでいたのか。十年という月日が経った現実を受け入れるのが怖かった。幼馴染は私をじっと見つめていて、でもその顔は私の記憶より大人びている。私の手は十年を病室で過ごした所為か記憶よりも痩せて衰えている。
私は怖かった。話が本当なら私は今や二十五歳。しかしその半分近くを病室で過ごし、そしてその記憶は失われてしまった。健康体となった私は今から病室を出て外の世界に行くのだろう。外に出て、それからどうすればいいの?
気が付けば私は震えている。季節は春の暖かさが心地よい頃なのに凍えるように寒い。私はほんの数日前まで希望に満ちた高校生活を送っていたはずなのに。新しい友達もできて、授業は面白かったり退屈だったりして、部活をどうしようか見て回って、その日々はどこへ消えたの?
「……いっそ、治らなければこんな風に悩むことも無かったのに」
思わず口をついて出たのはそんな言葉。頭の僅かに残った冷静な部分はそんなことを言ってはいけないと警鐘を鳴らしていたけれど、もはやそれに従うだけの理性は残っていない。だってそうでしょ? 今の私に何が残っているの?
「お父さんもお母さんも死んで、おばさんも自殺して、十年も経って、私はどうすればいいの? これからどう生きて行けばいいのか……、教えてよ」
私は縋るように幼馴染を見た。彼は悲痛な面持ちで顔を伏せる。わかってる、こんな八つ当たりだ。でもどうすればいいのか本当にわからないんだ。
「……退院出来たらとりあえず俺が住んでる所に行こう。親戚の人には許可は取ってるから大丈夫。だから住むところには困らない」
「私の家は?」
「色々あって、今は無い」
「私には思い出の場所すら残ってないんだ」
「それからゆっくりこの十年で何があったかを知っていこう。お前は頭良いからすぐに慣れるさ」
「……そんなのわかんないよ」
「大丈夫だよ」
「私の幼馴染は嘘つきだもん。大丈夫じゃないよ」
「俺ってそんなに嘘ついてたか?」
そうだったかなあと頬を掻く幼馴染。その姿は幼い頃からずっと変わらない。見た目は随分変わったけど、中身はそう簡単には変わらないのかもしれない。
「……ねえ」
「何だよ」
「この先きっと上手くいかないって言ってみて」
「は?」
「いいから」
「意味わからん。あー、うん、この先きっと上手くいかない。これでいいか?」
「そうだね」
そうだとも、私の幼馴染は嘘つきだ。だから今のも嘘だ。きっとこれからは上手くいく。
「まだ俺たち五十年以上生きるんだからさ、この先色々と良くなっていくよ」
「……余計なこと言わないで」
えー、と文句を言う声が病室に響いた。