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放課後に訪れた職員室で、翔真はいじめが続いていたことを村井にも打ち明けた。隣りに座り話を聞いていた夏紀は、彼が黙っていた憤りよりも、話してもらえなかった寂しさを感じて居心地が悪かった。
翔真は、クラスが変わってからもいじめグループに万引きを強要されていた。
「でも、一回だけなんです」
焼け石に水としか思えない弁明に、村井はため息をつく。
「その盗んだものはどうしたんだ」
「……怖くなって、お店の外に落としてきました。失敗したって言ったら文句を言われたけど、殴られたりとかはなくって」
「甲斐、おまえなあ」
村井は組んでいた腕を解き、その手で翔真の肩をぽんぽんと二回叩いた。
「よく話してくれたな」
項垂れたまま翔真は何度も頷く。制服の膝に、ぽたぽたと涙が零れ落ちた。
職員室を出てから、二人で帰路に着く。夏紀は何と言えば良いのかわからない。翔真は、あれが彼らとの最後だから大事にはしたくないと訴え、村井も彼の意見を尊重した。ただ自分は無理でも、今後とも夏紀だけは頼って欲しいと言った。二人の視線を受け、夏紀は誇らしいやら恥ずかしいやら、奇妙な気持ちを味わった。
「……ごめん、夏紀」
「だからさあ」そう言って、どう続けるべきか少し悩む。「遠慮するなって」上手な言葉が出てこなかったので、翔真の背負う鞄をゆすって誤魔化す。
「まあ、言って欲しかったのは本心だけど」
「ごめん」
「気付かなかった俺も俺だし。この件は不問ってことで」
俺は翔真の保護者か。そう自分でツッコみたくなるが、翔真が照れくさそうにはにかむのを目にすると、自分の頬をかくことしかできなかった。
「ありがとう」
「それはいいんだけどさ、肝心なこと話せよ。俺、今日ずっとマジで気になってたんだから」
翔真はゆっくりと頷き、自分が地下通路の絵に涙を流させていた理由を語った。
事件発生の時刻、地下通路の店で菓子を万引きした。閉店間際の慌ただしさを狙った犯行で、バレませんようにと祈りながら逃げる足を速めていた。すでにほとんどの店がシャッターを下ろしており、すれ違う人もいない。心細さと罪の意識で泣きそうになりながら、手の中のガムを握りしめた。いじめグループは自分が捕まる展開を期待しているのを知っていたが、期待通りにはなりたくなかった。
「地上に出たすぐ脇にベンチがあるよね。そこに座って迷ってたんだ。やっぱり今すぐにでも返しにいくべきかって」
その時、通路からものすごい勢いで男が走り出てきた。一目散に駆ける男を見て、翔真は声も出せないまま咄嗟に身を竦めた。男の手に握られたナイフが赤く染まっているのが、街灯の灯りの中に見えたからだ。
男は素早く近くの公衆トイレに駆け込んだ。その隙に、翔真は震える足でその場から逃げ去った。盗んだガムはいつの間にか失くしていた。
「向こうが僕に気付かなかったのは、本当にラッキーだったと思う。犯人の顔がはっきり見えたわけじゃないけど、背丈や格好ぐらいは記憶してるから」
「それで、佐元は犯人じゃないってずっと言ってたんだな」
一度頷き、翔真は続ける。
明らかにただ事ではない。そして翌日のニュースで、同時刻に起きた殺人事件を知り、愕然とした。あの男はまさしく犯人だったのだ。昨晩すぐに自分が地下に戻っていれば、刺されたばかりの被害者を助けられたかもしれない。後悔したが、それは出来るはずもなかった。
補導されてもおかしくない時間だったのだ、あの場にいたことが大人に知られたら、当然何をしていたのか問い質される。家族には友達と遊んでいたのだと嘘を吐いている。その友達が誰かと問われて確認されれば、あっという間に嘘がバレる。もしかしたらいじめグループが万引きについて告げ口するかもしれない。
「最低だよ。僕は、最低だ」
悲しい声で呟く翔真は、地下通路に絵が飾られたことを知り、一案を思いついた。
あれだけ大胆な犯行だ、犯人はすぐに捕まるものと思っていた。しかし予想に反し、あの晩に見た男は捕まらない。自分が警察に行けば、万引きをしたことが暴かれてしまう。
考えた翔真は、絵に涙を流させることにした。犯人だって人間だ、自分に向けられた恨みの念を知れば、自首に至るに違いない。翔真は率先してSNSやネットの掲示板を利用し、噂を広めた。早朝に家を抜け出し、絵に涙の跡をつけた。運悪く人がいる日は諦めた。努力が実ったのか、絵が涙を流すという噂は広く知られるところとなった。
「犯人じゃない佐元さんが疑われて苦しんでるのを見て、焦ったんだ。だから涙の色を赤くした。それに効果があったかはわからないけど」
でも、と翔真は続ける。
「絵を描きかえる技術なんて僕にはない。犯人が、絵の女の子が自分を見つめていたって聞いて、本当に怖くなったんだ。妄想だとは思うよ。けど、もしかしたらって」
あの絵には本当に西香織の念が宿っていて、自分を殺した犯人を目の前にして少女の顔を変えさせた。夏紀と翔真には、犯人の妄想という説よりも、その方がしっくりくる。西香織はまだまだ生きたかったに違いない。彼女の強い思念が働いて、今回の犯人逮捕に至ったのだ。
「なるほどなあ」
夏紀は陽の落ちかけた空に顔を上げる。仄かな橙が雲を照らしているのを、二人は黙って見つめていた。