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地下通路の絵が赤い涙を流した翌日の朝、朝食のトーストを食べていた夏紀の目はテレビ画面に釘付けになった。
女子大生刺殺犯自首のテロップが、画面の下方にでかでかと載っている。
「これ、もしかして……」
向かいの席でトーストにジャムを塗りたくっていた日和も、呆気にとられている。夏紀はパンの耳を咥えたまま、返事ができない代わりに何度も頷いた。
西香織を殺害した犯人は、深夜に警察署を訪れて自首した。その顔写真に、夏紀は見覚えがあった。
昨日の放課後に、翔真と立ち寄ったコンビニエンスストアで会話をした若い店員だった。
どういうことだと呟くと、口からぽろりとパンの切れ端が床に零れ落ちる。即座に日和から汚いとクレームが飛ぶ。
五十嵐という名の彼は、恐ろしさから自首を決めたという。それは罪の意識から芽生えた、犯人の妄想とも取れた。いや、そう捉える方が正常なのだろうが、もしかしたら実際にあり得たのかもしれない。
五十嵐は、地下通路の絵の中で、少女がこちらを凝視しているのを見た。まるで犯人を探しているが如く、自分を殺した男を見つめていたのだそうだ。
「夏紀の言うようなことも、あるのかもねえ」
玄関先で父を見送った母がいつの間にかそばにいて、感心した風に言う。夏紀は急いでトーストの残りを牛乳で口の中に流し込んだ。
地下通路の絵の前には、ちょっとした人だかりができていた。学生服を着た者が多く、その中で夏紀は翔真を見つけた。
「おまえの言う通りだったな」彼の肩を叩き、おはようより先にそんな言葉が出る。「佐元は犯人じゃなかった」
絵はいつもと変わらぬ姿を見せている。湖の前に立ち、こちらに微笑みかける少女。どう見ても、画面外を凝視しているようには見えない。
「絵の中の顔が変わるなんてことあるかな。犯人の妄想だろうけど……。翔真はどう思う」オカルト好きとしては、絵に乗り移った被害者の霊が真犯人に恨みを訴えたのだと信じたい。だが、絵が涙を流す噂に怯えていた犯人が、恐怖から見間違いを起こしたと考えるのが一般的でもある。
返事がないのを訝しみ、夏紀は翔真の顔を覗き込む。彼は微動だにせず絵を見つめている。
「おい、どうしたんだよ」
「あり得ない」
翔真は夏紀の方を見ず、掠れた声を漏らした。
「絵の中の顔が変わるなんて、そんなのあり得ない」
「まあ、実際に変わっては見えないよなあ」
「犯人の妄想だよ。絶対そうだ。間違いない」
翔真の小さな声が震えているのに気づき、夏紀はぎょっとする。彼は声だけでなく、その身まで細かく震わせていた。
「どうした、翔真」
翔真は消え入りそうな声で「あり得ない」を繰り返している。夏紀は翔真の腕を掴み、絵の前に溜まる野次馬から離れた。腕からも細かな震えが伝わってくる。
こんな時は、無理に話を聞き出そうとするのは悪手だ。それを知っている夏紀がしばらく待っていると、ようやく落ち着きを取り戻した翔真は疲れた目を向けた。怯えることにさえ疲弊した表情だった。
「夏紀……」
縋るような声だったが、彼は確かに言った。
「絵にいたずらをした犯人は、僕なんだ」