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地下道の絵に関する噂話は、インターネットの掲示板やSNSで確実に広まっていった。絵が涙を流すのは毎朝のことではないらしい。実際に、確認したけど何もなかったという落胆の投稿も見られたし、反対に涙の線をつけた少女の絵の写真を投稿している人もいた。
間違いない、被害者の霊が涙を流させているのだ。勉強に飽きた夏紀はベッドの上に腹ばいになり、スマートフォンの画面をいじりながら確信する。他にどんな原因があるというのだ。
「おーい、夏紀ー」
声と共に部屋のドアが無作法に開かれた。ノックもせず堂々と自室に侵入してくる相手は一人しかいない。
「漫画貸して、漫画」
「おまえさ、ノックぐらいしろよ」
「なんで。知られてまずいものでもあんの」
一つ年下の妹の日和は傍若無人にずかずかと部屋に入り、枕元の本棚の前に陣取る。
「うるせーな、さっさと出てけよ」
「うるさいな、漫画借りたらさっさと出てくよ」
口の減らない妹だ。翔真に男らしさを分けてやってほしい。挙句にその場に胡坐をかいて漫画を読み始める始末。
「おい、さっさと出てくんじゃないのかよ」
「気にしなくていーから。吟味してるの」
「邪魔なんだよ、ばか」
「邪魔ってなに、そっちだってごろごろしてるだけじゃん」
「俺は情報収集してんだよ」
「は? なんの」
そういえば、こいつはあの噂を知ってるんだろうか。ほんのり興味が湧き、夏紀はスマートフォンの画面を彼女の方に向けた。
「地下道の絵。これ、涙流してるように見えるだろ」
誰かが撮影した、絵の少女が涙を流している写真のアップ。SNSの画面を見て、日和は露骨に顔をしかめた。
「なにこれ」
やっぱりな。夏紀はスマートフォンを手元に戻す。こいつには夢がない。噂を知っていたとしても、馬鹿にしてくるに決まっている。
「はいはい。どーせ光の加減だとかなんとか……」
「これ、本物の写真?」
彼女は夏紀の手からスマートフォンを奪い取った。指で写真の拡大と縮小を繰り返し、画面を食い入るように見つめている。その目がきっとこちらを睨んだので、呆気にとられる夏紀は、腹ばいのまま返事をする。
「本物じゃね? そうとしか見えないし」
「あの噂、本当だったの?」
嫌な顔をする日和は、絵が涙を流す噂を知っていた。だが信じてはいなかった。夏紀はようやく半身を起こし、スマートフォンを取り返す。
「俺もさ、この前の朝に見に行ったんだ。翔真と」
「翔真くんと朝勉するって言ってた日?」
「まあな」
呆れたと表情いっぱいで語る日和は、明らかに何かを思案している風だ。
「なんだよ。日和もあの噂知ってたのか」
「知ってるよ。趣味悪い」
彼女は口をへの字に曲げる。
「人が死んだんだよ? 絵が涙を流してるーなんて面白がるとこじゃないじゃん。犯人も捕まってないんだし」
「……いや、えっと」
「こんなの誰かのいたずらに決まってる。そいつもほんっとに性格悪い」
日和の嫌悪感は最もだ。居心地が悪くなり、夏紀はもぞもぞと身体を揺すった。
「もう朝に抜けだしたりしたら駄目だから。次はお母さんにチクる」
地下道を使うことに難色を示す母に告げ口されれば、間違いなく面倒なことになる。夏紀は卑怯だぞと口の中で呟き、疑問を抱いた。日和はこれほど正義感の強い人間だっただろうか。夏紀がツチノコを探そうが心霊スポットを巡ろうが、これまで全く興味を示さなかったのに。話が違うと言われればそれまでだが。
「日和は、これがいたずらだと思ってるのか?」
妹は黙ったままじろりと夏紀を睨む。
「そんなら、誰がいたずらしてるんだろうな」
「知らないよ。面白がってるだけでしょ。誰かが」
「地味ないたずらだよな。何度拭き取られても、同じことを繰り返してるんだぜ」
「……じゃあなに、理由があるってこと?」
幽霊でなく誰かの仕業だとすれば、きっとそこに何らかの意味がある。夏紀は一つの推論を述べる。
「被害者の霊の仕業だと思わせたいのかもしれない」
「そんなことして、なんになるの。周りは面白がるだけじゃん」
「面白がらない人間がいるとしたら」
日和は膝を抱えて座り直し、しばし考えてから囁いた。
「……犯人」
「恐ろしいぜ、きっと。自首したくなるかもしれない」
「自首を促すためってこと? じゃあ、いたずらしてるのは、遺族の誰か?」
「わからん。遺族ならもっと方法がある気もする。他に犯人の自首を促したい誰かがいるのかもしれない。その誰かが、今も逃げ続けてる犯人に恐怖を与えようとしているんだ」
あくまで原因が幽霊でなければの話だが、一案としてリアリティがあると自負している考えだ。
まさかと日和の唇が小さく動いたのが目に入る。彼女は両手でその口元を覆い、明らかに動揺している。
「おい、日和」
間違いない、彼女は何かを知っている。
「いたずらの犯人、知ってたりしないよな」
「ちがう!」
咄嗟に上げた大声が、彼女の葛藤を表していた。そのまま見下ろしていると、頼りなく左右に彷徨わせる視線を夏紀に戻し、日和はふーっと大きく息を吐いた。
「趣味悪。ほんっと悪趣味」
「気になるんだから、仕方ないだろ。考えれば考えるほど気になる」
「私の友達が、殺された大学生の友達なんだって」
口を半開きにしたままの兄を見て、日和は言い辛そうに眉根を寄せる。
「その子、あの絵が噂になってるの知って、すごく嫌がってるんだ」
「友達だったなら、もしかして、その子が」
「違うってば。そんなことする子じゃない」
「絵にいたずらする犯人が、きっと何かを知ってる。そいつを見つければ、事件の犯人にも繋がるかもしれない」
意気込む夏紀の前で立ち上がる日和は、不意に兄の頭を手に持っていた漫画本で叩いた。
「警察でもないくせに」
苦笑しながらぺろりと舌を出した。