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 翌日、夏紀は朝の六時に翔真と地下通路の出入り口で落ち合った。昨日よりも早い時間のおかげで、更に地上の人通りは少なく、薄暗い地下に至っては人っ子一人いない。薄闇に吸い込まれそうな心持ちで階段を下りつつ、隣で翔真が緊張に身を強張らせているのを感じた。オカルト好きなくせにお化け屋敷にすら入れない彼らしい。却って強気になり、夏紀はずんずんと地下道を歩く。

 ドラッグストアの角に来た時には、流石に緊張で心臓が高鳴った。それは絵が涙を流すという恐ろしさだけでなく、人が死に至った現場を訪れているという恐怖も相まっていた。今立っているこの場所で、一人の女性が何者かに刺し殺された。見つかった時にはすでに事切れており、犯人は未だに捕まっていない。

 だが、不謹慎という言葉より、溢れる興味に突き動かされ、夏紀は角を右手に折れた。

 足元にはジュースの缶や小さな花束がいくつか並んでいる。視線を上げ、壁にかけられた絵を見て、ごくりと唾を呑み込んだ。

 額の中の少女は、昨日と同じように目から透明な雫を零している。ほんのり凹凸した油絵の彼女は、頬に涙の跡を拵えていた。昨日の下校時に水が拭き取られているのを、夏紀は確認している。翔真がか細い悲鳴を上げて腕を握ってきたが、これが女の子だったらなどと考える余裕はなかった。


 明らかに雨漏りではない。通路の天井に漏水の痕跡はなく、ここ数日雨も降っていない。

「誰かのいたずらかもしれん」

 放課後の教室で問いかけると、翔真は首を傾げた。

「そんなことして、誰が得をするんだろう」

「まあ、それもそうだな」

 吹奏楽部が吹く楽器の音や、運動部の掛け声が窓から流れ込んでくる。うららかな午後は夕刻に差し掛かっていた。

 翔真の机を挟んで向かい合い、二日続けて早起きをした夏紀が欠伸をすると、釣られて翔真も欠伸をした。明日の朝はきっちり七時まで寝てやろうと、夏紀は目を擦る。

「油絵ってよくわからないんだけど、絵具が溶けてるとか……」

「目元の一部だけが? 朝だけ?」

 夏紀の反論に、翔真は頭をかいておし黙った。

 窓の向こうのグラウンドで走り込む野球部員たちを眺めながら呟く。

「絵の持ち主が恨んでるのかも」

 びくりと翔真が肩を震わせる。「冗談言わないでよ」そう言う彼の表情は、無理に笑おうとしつつも確かに強張っていた。それは二人の心に初めから浮かんでいながら言葉にできない説だったからだ。

「でも他に原因なんか思いつかないだろ」

「だからって、その……幽霊のせいにするのも」

「幽霊でも、水の一滴垂らすことぐらいできるだろ」

「いや、でも……」

 幽霊に怯える翔真は頭を抱える。オカルト好きな彼は怖がりなだけで、幽霊に懐疑的なわけではないのだ。この世には人間だけでなく、人智の及ばない幽霊というものも存在している。心霊話は世界中で枚挙にいとまがない。百パーセントが作り話、もしくは見間違いや妄想であるとは思えない。

 しかし、存在を信じることと恐れることは話が違う。恐怖から幽霊説を否定する友人の姿に、夏紀は大仰にため息をついた。

「翔真って、そんな怖がりだったっけ」

「幽霊ってだけじゃないよ。人が殺されたってことが怖いんだよ」

「そりゃまあ、そうだけど。……その殺された被害者からのメッセージって、十分あり得ると思うんだけどなあ」

「犯人を恨んで、絵の持ち主が涙を流してるってこと?」

「他の感情かもしれないけど。成仏できない霊がさ、絵に涙を流させてるんじゃないか」

 翔真は、まさかと一蹴しなかった。ツチノコを信じる友人は、眉間に皺を寄せて難しい顔をする。夏紀も背もたれに背を押し付け、教室の天井を見上げた。眩しいオレンジの夕陽が窓から差し込んでいる。

 大きな音がガラリと響き、二人は同時に飛び上がるほど驚いた。振り返った夏紀は、ほっと胸をなでおろす。

「おまえら、まだ残ってたのか」

 呆れた声を掛けるのは、担任教師の村井(むらい)だった。四十を過ぎた頃の男性教師で、後退しかけた前髪を気にしていることに、実はクラスの全員が気付いている。

「村井先生、幽霊って信じる?」

 夏紀の言葉に、声の大きな国語教師は呆れ顔を見せた。

「なんだ、悪いこと企んでんじゃないだろうな」

「駅の前にある地下通路で、絵が涙を流すって噂があって。俺たち、今朝実際に見てきたんだ。そしたらほんとに目から水が……」

「馬鹿なこと言うな、見間違いだろう。いいから、窓の鍵かけてこい。もう閉めるぞ」

「見間違いじゃないし」口を尖らせながら夏紀は腰を上げ、しぶしぶグラウンド側の窓を閉める。背側では翔真が廊下側の窓に鍵をかけている。

「事件があったばかりだ。用もないのに地下道なんかうろつくなよ」

「用があるから行ったのに」

「まだ犯人は捕まってないんだろ。甲斐を連れ回してやるなよ、宮原」

「連れ回してなんかないし」なあと翔真の顔を見ると、彼は慌てて頷いた。二人で鞄を手に取る。

「妙な噂を探る暇があるなら、俺の手伝いでもするか?」

「絶対やだよ」

 逃げるようにさっさと廊下に出る。夏紀の背を追いかける翔真に村井が声を掛けた。

「甲斐、もし文句があるなら俺に告げ口しろよ」

 自分を見据える担任の視線に、小柄な体を更に縮め、翔真は微かに頷いた。

「そんじゃ、村井先生、さよならー」

 夏紀が手を振り、翔真もさよならと口にして軽く頭を下げた。村井は教室の鍵を閉めながら、ひらひらと片手を振った。

 教師の最後の台詞に込められた意味は、翔真も夏紀も理解していた。甲斐翔真は昨年度のクラスで、いじめっ子のグループに目をつけられていた。そんな翔真の話に耳を傾け、新年度は約束通り彼らとクラスを離し、同じクラスに仲の良い夏紀を入れたのが村井だった。もし村井が翔真の話を無碍にしていれば、彼は不登校になっていただろう。そして新しいクラスでも、翔真のことを気にかけている。

 今は俺という存在がいるのに、心配性な担任だ。夏紀が見る限り、現在の翔真はいじめに遭っていない。全く、お姫様じゃあるまいし。そう思う一方で、村井も翔真も、夏紀のお気に入りの存在だった。

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