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 地下通路の絵が涙を流す。

 オカルト好きな宮原(みやはら)夏紀(なつき)は、その話を疑わなかった。スマートフォンの先にいる友人は、通っている塾の友人から聞いたのだと言った。

 夏紀たちの暮らす町の最寄り駅前には地下通路がある。見どころのない地方都市の寂れた地下道で、全長二百メートルほどの通りにちょろちょろと横道が生えている薄暗い道だ。それでも一端が駅に直結しているおかげで、雨の降る日などはそれなりに人が通る。学校や塾帰りの中高生が、地下道の店舗をうろつく姿も珍しくない。ただそれだけの、地方に密着した道だった。

 そこで一つの大事件が起きてから、まだひと月も経っていない。ある夜、一人の女子大学生が地下道で刺殺された。刃物で胸を一突き。刃は肺を貫いて彼女を死に至らしめた。即死だったと推測されている。

 目撃者はいなかったが、明らかな殺人事件は小さな街を震撼させた。大騒ぎがひと段落ついた頃、殺された女性の遺族が、一枚の絵を地下道に飾るよう願い出た。今は溢れかえっている供え物が絶えようと、彼女の死を風化させないための願いだった。

 地下道に店を持つ地域民は、気味の悪いものを飾るなとは口にできなかった。幸い彼らの危惧は取り越し苦労に終わり、住民たちは地下道を以前と同じように使い始め、絵も風景の中に溶け込んでいくようになった。まさか自分が第二の被害者になるわけがない。誰もが心の底に「自分だけは」という気持ちを基盤として築いているためだった。

 その絵が涙を流す。宮原夏紀は友人の言葉にその様を想像した。

 地下通路は通学路の途中にあり、夏紀自身も雨が降る帰りには、通路の本屋や文房具屋でよく寄り道をする。絵に関しても幾度も目にしていた。

 一人の少女が湖畔に佇む絵だった。木々に囲まれた水面は傾きかけた夕陽に橙色を呈し、画面の右寄りには、岸辺でこちらを振り向こうとする少女の胸から上が描かれている。水色の服を身に着けた彼女は、見る者に柔らかく微笑んでいる。それは亡くなった女性の姿ではなく、彼女が趣味で描いた作品だそうだ。

 あの絵の少女が涙を流している。想像だけでなく、実際にこの目で見なければと夏紀は強く意思を固めた。


 友人の友人のそのまた知り合いが、明け方の地下道で絵の涙を目撃したらしい。張り切り興奮したおかげで寝つきは悪く、五時に目覚ましをかけた夏紀は五時半にようやく布団から這い出した。

 家族は夏紀の奇行については慣れっこで、妙なことに首を突っ込むなよと釘を刺すだけだ。事件直後は流石に外出を控えるよう言われていたが、ようやく干渉も収まってきた。

 家族には学校で友人と小テストの勉強をするのだと言っておいた。六時を過ぎた頃に、夏紀はマンションの部屋を出た。顔を出したばかりの朝陽が、廊下にまっすぐ差し込んでいる。心地よく爽やかな気候と相まって、呼吸をするたびに身体が清められていく気分だ。

 高い空に浮かぶ白い月を見上げながら、まだ人通りの少ない道を行く。地下通路の出入口に到着した頃には、腕時計の針はまもなく六時半を指すところだった。

 もっと早く来るつもりだったのにな。そう思いながら足早に階段を下り、薄暗い地下に踏み入れる足を思わず止めた。ぽつぽつと照明が灯っているが、照度は低く、歩くのに支障のない程度だ。壁伝いに暗がりがうずくまり、人通りはない。オカルトは好きだが勇敢なわけではない夏紀は、ごくりと唾を呑んだ。だが、ここまで来て引き下がれるわけがない。なんでもない風を誰かに装いながら、奥へと歩き出した。

 出入り口からの日差しが届かなくなった頃、照明が明るさを増した。時計を見ると六時半。この時刻には電灯が日中と同じ明るさを保持するよう設定されているらしい。

 ほっとすると共に恐怖が和らぎ、ずんずんと通路を進み、ドラッグストアの角を右に折れた。太い通路には左右にちょこちょこと細道が伸びている。ちょうど真ん中付近の細道へ曲がったすぐそこに、件の絵は飾られていた。

 壁にかかる絵を見上げ、夏紀は息を呑んだ。

 両手で抱え上げるのがせいぜいなサイズの額縁。その中で微笑む少女の目元から、透明な雫が流れていた。


 学校に到着し、夏紀は同級生たちが登校するのをうずうずしながら待っていた。そして仲の良いクラスメイトに片っ端から声を掛け、今朝見たものを語った。

「涙? なんだよそれ」

 友人の大半の反応がそれだった。地下通路の絵が涙を流す。前提となる噂話を知らない者には逐一説明し、実際にその涙を目にしたのだと熱く語る。

「写真とかあるわけ?」

 だがその質問に答えられなかった。迂闊だった。不思議な現象をこの目で見た喜びに浮かれ、写真を撮ることをすっかり忘れていた。

「いやだって、ほんとに見たんだし」

 多少の興味は示せども、夏紀の記憶の話だけでは信憑性が薄すぎる。友人たちは「はいはい」と軽くいなし、「次は写真撮っとけよー」なんてからかってくる始末だ。

 無情にもチャイムが鳴り、ぐぐぐと歯噛みしながら自席につく。朝のホームルームから授業に至るまで、油断すれば意識はすぐにその場を去る。行方はもちろん、地下通路の絵だ。休み時間にも幾人かに同じ話を持ち掛けたが、噂を知っている者もその内容を信じてはいなかった。

「おまえなら、信じるよな」

「まあ……」

 休み時間、クラスメイトの甲斐(かい)翔真(しょうま)まで煮え切らない態度を取るのに、夏紀はなんだよと不満を口にした。自分が唯一オカルト話を楽しめる翔真なら、目を輝かせるだろうと睨んでいたのに。

「ほら、雨漏りとかしてたかもしれないし」

 取り繕うような翔真の返事に、彼の向かいの席を勝手に借りる夏紀は「雨漏り?」と眉間に皺を寄せる。

「そんなん見たことないぞ」

 地下道は確かに老朽化が進んでいるが、数年前に一度工事が成され、清潔感を保っている。天井から水が漏れている様子は目にしたことがない。

「翔真なら信じてくれると思ったんだけどなあ」

「いや、疑ってるとかじゃないよ」

 翔真は慌てて付け加えながらも、猫背気味の身体を小さくして口をもぐもぐさせる。このおどおどした態度がいじめられっ子の所以であることは、流石に夏紀も口にはできない。

「そっか、おまえUFOとか都市伝説は好きなのに、幽霊話は苦手だったよな。怖がりめ」

 夏紀が指摘すると、彼は不満そうに唇を突き出しながらも、言い返さなかった。図星だからだ。

「よし、じゃあ明日の朝、一緒に見に行こうぜ」

「み、見に行くって、その絵を?」

「当たり前だろ。他に何があるんだよ」

「朝早くに出たら、親に何か言われるかもしれないし」

「なんだよそれ」中学二年にもなってという台詞を飲み込む。「じゃあさ、俺と学校で自習するってことにすればいいじゃん。約束してるっていえば反対されないだろ」

 春休みに、翔真に誘われてツチノコを探しに行ったばかりだ。今度はこちらが誘う番だ。

 夏紀の思惑を悟った翔真は小さなため息を漏らし、わかったよと呟いた。

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