プロローグ
『あぁ、神よ····どうか、どうかこの子だけは!』
足取り軽く···しかし悲痛な叫びを上げながら、男は走る──。胸に抱いた赤ん坊を、取り落とさないように気を付けながら。
『我ら一族の最後の継承者なのだ···。この子だけはなんとか逃がさねば』
男は二度、三度····木の根に躓き転ぶ。だが、必死な形相で涙を流しながら立ち上がり、樹木の鬱蒼と生い茂った森の中を走り続けた。
川に着いた────。
男は左手に赤子を抱き抱えたまま周囲の草を刈る。···やがて充分な数を集めきると、何やら呪文を唱えた。
草の束がひとりでに束になり、ゆりかごの形を創る。
何度か水の上に試し、沈まないことを確認した男は、その上にそっと赤ん坊を乗せた───、
赤ん坊が下流へと流れていくのを確認した男は、目を瞑り感覚を収縮させる。
五感が研ぎ澄まされ、感知できる領域が広がる。
ゆっくりと、しかし確実にこちらへ近づいてくる複数の足音···、鞘に収められた剣が、鎧と擦れる高い音·····荒い息遣い·····。
「まさか·····」
唇を吊り上げて自嘲気味に、男は笑う。
「出来損ないの私が一番最後に残るとは」
そしてこのような大切な·····それこそ、一族の存続に関わる程重大な決断を委ねられるとは。
·····なんとも皮肉なものだ。
「目当てのものを見つけた、だが赤ん坊は確認できない。」
草むらからこちらに近づいてきた男の一人が、小さな丸い水晶の付いた腕時計に報告するのを見ながら、草刈りで汚れた手を払って覚悟を決める。
「さて·····。〝オーリム・デ・レクス〟殿。《炎の剣》を此方に渡してもらおうか。」
口調こそ丁寧だが、その態度には寛大さの欠けらも無い。
もっとも····、人様が代々受け継いできた財産を奪うために雇われた傭兵だ。人を殺すことになんの感慨もないのだろう。躊躇いも····。
なればこそ、私の家族も·····。
「炎の剣は既に持っていない。」
「無駄だ、本官の目は誤魔化せない。今この瞬間にも、《炎の剣》は貴殿の背後にある。」
魔力が見えるようだ。
そもそも騙せるなどとは思っていない。
····周囲の草むらがざわめき、武装した兵たちが武器を構えてオーリムを威圧する。
····囲まれたようだ。
背後は川だ、逃げ場はない。
「此方へ渡してもらおう。貴殿に選択肢はない。」
ハッキリとした口調で言い放ち、男が手を上げる。·····それに合わせて、周囲の兵が弓をこちら目掛けて引き絞る。
「渡さない····と言えば?渡す方法を知らない·····と。」
赤ん坊の方を確認したくなるが、バレては全てが水の泡だ。
今は少しでも生存の確率を上げるために、時間を稼ぐしかない。
「その場合は殺してから聞くことにする。」
その言葉は、ドスが効いているわけでも。凄味があるという訳でも無かった。───ただ、あまりにも事務的だった。
男が腕を上げ、ハンドサインを送る。
それに頷いた周囲の兵が、一斉に距離を詰めてくる。
〝殺してから聞くことにする〟·····これは比喩でもなんでもない。そのまんまの意味だ。
優秀な屍術士は、死体を思いのままに操るだけでなく、死体の生前の記憶を見ることができる。
軽く周囲を見回す。
ジリジリと輪を縮める兵達の中には、明らかに血の気のない者が散見できる。
ビュン、と風を唸らせて、二本の弓矢が両足を射抜く。
待っていたかのように足を襲う痛みに耐えきれず、地面に膝をつく。
「《炎の剣》の発動条件を知っているかね」
歯を食いしばり、口を開く。
まだだ、時間を稼がねば。
体制を直し、覚悟を決める。いつでも抜刀できるように。いつでも·····人生に幕を下ろせるように。
「我々レクス一族の血····そして、膨大な魔力だ───。」
───死霊術には、死体が必要不可欠だ。
跡形もなく消し飛ばせば、真の《炎の剣》の扱い方は、永遠に失われる。
·····私の死体と共に。
「【〝イグニス〟!】」
「!?殺せ!」
炎が渦を巻く───。
「【我が名は〝オーリム・デ・レクス〟!一族の盟約に従い、顕著せよ】」
地から噴き出した焔の柱に、顔を赤く照らされながら、オーリムは叫ぶ。
〝よいのか?〟
地から、声が響く。
〝矮小な子よ〟
「構わない」
業火に炙られて、汗を流しながら──、オーリムは頷いた。
〝なればこそ〟
「声」が、愉悦を隠しきれない様子で叫ぶ。
オーリム目掛けて飛んできた弓矢が、炎の渦に呑み込まれる。
体が、炎に包まれる。
「あぁぁあああぁぁぁああぁ!!!」
全身の皮膚を焼かれる痛みに耐えきれず、オーリムが叫ぶ。だが、慟哭を発する喉は瞬く間に炎に抉られ、焼かれて、焦げた。
オーリムだけではない、兵も、指揮官も、後方で待機していたネクロマンサーも·····。
全ては、荒れ狂う炎の濁流に焼かれて消えた。