拳闘士ガイ
物心がついたときには、拳闘士の養成機関にいた。
そこにいたのは、親の顔を知らないもの、捨てられたもの、あるいは戦争の孤児。
徹底的に鍛え上げられ、15歳の成人を迎えるとコロシアムで戦士としてデビューするが、その日を心待ちにする者などいやしない。
そりゃあそうだろう。地獄のようなこの場所で、家族同然に支え合ってきた奴らと本気で闘わなければならないんだぜ?
負ければそこで終わり。それが拳闘士の掟だ。
負けた奴はどうなるのかって?
そんなことわからねえよ。わかっているのは、二度と会うことはないということだけ。
デビュー戦は酷いもんだった。
よりにもよって、唯一仲の良かったミュエルが対戦相手だったんだからな。
なかなか覚悟が決まらない俺に、あいつは問答無用で襲いかかってきた。
考える暇なんてなかった。数えるのも億劫なほど反復して鍛え上げた筋肉が勝手に反応する。
気付いた時には、ミュエルは闘技場に倒れていた。
運び出されるミュエルの、最後に向けられた嬉しそうな表情を見たとき、俺は……わかっちまったんだ。
あいつははなから負けるつもりだったんだって。
それから俺は勝ち続けた。
あいつが負けたのは最強の拳闘士だったんだと証明したかった。
俺が負けるとすれば、それはミュエル、お前だけだって。
勝利の雄叫びが虚空に消えてゆく。
聞こえているか? 届いているか、ミュエル。
俺は……負けない。必ず生き残ってみせる。
「ガイ、おめでとう、卒業だ」
ある日そう告げられた。
卒業。
噂では聞いたことがある。
まれに貴族からの引き抜きがあるらしい。運が良ければ、過去には騎士として出世した者もいるとかいないとか。眉唾だと思っていたが、本当だったのか……?
俺を引き抜いてくれたのは、武勇の誉れ高いある公爵家だという。
そんな天上人がなぜ?
大方兵士として買われたのだろう。闘う場所が闘技場から戦場に変わるだけのことだ。やることは変わらない。
「なあ、どこへ連れて行かれるんだ?」
「…………」
メイドらしき女は何も答えない。
無視か……まあいい、到着すればわかることだ。
それにしてもこのメイド、何者だ? ただものではないと俺の直感が告げている。
「奥さま、例の拳闘士を連れてまいりました」
「ご苦労さま。クロエ、貴女は下がっていいわ」
重厚な扉の向こうから少し甲高い女の声が聞こえる。
「早く入りなさい、奥さまをお待たせしてはなりませんよ」
「ぐっ!?」
背中に鈍痛が走る。
いつの間にか俺の背後に移動していたメイドに小突かれたのだ。
まさか、このメイド、俺の筋肉の隙間、古傷を狙ったのか? それとも偶然? だが、そもそもどうやって背後に……?
「……早くしなさい」
まるでぜんまい仕掛けの人形のように台詞を再生するメイド。
気になることだらけだが、たしかに主人を待たせるわけにはいかない。
「……失礼します」
最低限の礼儀やマナーは学んでいるが、高位貴族相手には正直心許ない。なるようにしかなるまいが。
部屋に入るとむせ返るような甘く怪しい香が焚かれていて、奥のソファーにひとりの女性が腰かけているのが目に入る。
護衛も無しで大丈夫なのか? いや……部屋の周りに……20……いや25人。なるほど。
「ようこそ私の屋敷へ。ふん……なるほどね」
こいつはヤバい……目が合った瞬間、全身が震えた。生まれて初めての感覚だ。
日々修羅場を生き抜いてきた百戦錬磨のこの俺が……恐怖……しているのか?
「脱ぎなさい」
奥さまと呼ばれた女性に命じられた。もちろん立場的にも逆らえないが、その声色には本能的に逆らえない何かがある。
身体チェックは、毎日されているのでいつものことだが、闘技場には男しかいないからな。すげえ気まずい。
「なるほど、さすがは歴戦の拳闘士ね。貴族連中の見せ筋とは全然違うわ……」
奥さまの細く白い指先が、筋繊維1本1本をなぞるように這い回る。
「ふふっ、やっぱり貴方ほどの拳闘士でも、ここは鍛えられないのね……」
興味深そうに急所である耳を観察されると妙な感情が湧きあがってくる。
「はぁぁ……素敵。いつまでもこうしていたい気分だわ」
顔を紅潮させ息を荒くする奥さま。具合が悪いのだろうか?
全身の筋肉を余すところなく丁寧にチェックするのは構わないのだが、すりすりするのは止めて欲しい。
「あ、あの、これは一体なんだ……いや、何をされているんですか?」
「ああ、これは衣装のサイズを測っているのよ」
「……衣装……ですか?」
拳闘士は基本的に上半身裸に腰布程度。
衣装といわれてもピンとこない。
翌日、再び奥さまに呼び出される。
「これは……一体?」
「ねこ耳よ。きっと似合うと思うわ」
ねこ……耳?
もちろん、ねこは知っているが……サイズを測った意味がわからない。
どうやって使うのかも想像できない。
「きゃあ~!! 思った通りとっても似合うわ。貴方もそう思うでしょ、ミュエル?」
「ぷ、ぷぷっ、くくっ……、よく似合っているよガイ」
ねこ耳を装着した俺の前で、奥さまと垂れ耳を装着したミュエルがプルプル震えている。
我慢しないで早くトイレに行ったほうがいいんじゃないかと心配になるが、それよりミュエルお前死んだんじゃなかったのか?
「ああ、あの試合の後、奥さまに引き取られて、ここで働かせてもらっているんだ」
そうだったのか。
聞けば、ここで働いている者の多くは拳闘士出身だという。
グゥ~と腹が鳴る。安心したせいか腹が減った。
「皆さま、お食事の用意が整っております……ぷ、ぷぷっ、くくっ……、よく似合ってますよガイ」
メイドのクロエまでプルプル震えている。なぜだ? やはりねこ耳のサイズが合っていなかったのではないかと心配になる。
「ところで、俺はここで何をすればいいのですか?」
「筋肉枕」
……意味がわからない。
「奥さまが寝る時に枕代わりになるだけの簡単なお仕事です」
脇からメイドのクロエが補足してくれるが、貴族の常識に疎い俺にはよく理解できない。
「まあまあ、何事も経験だよ、ガイ」
満面の笑みで肩に手を置くミュエル。お前、そんなキャラだったか?
その晩から、奥さまの筋肉枕生活が始まった。
まあ闘う場所が闘技場から枕元に変わるだけのことだ。やることは変わらない。
前任の筋肉枕であるミュエルには感謝しないとな。
拳闘士も引退出来たし、思っていたほどここの生活も悪くない。
どうやら性にあっているらしい。
イラスト/茂木 多弥さま