20 雪奈の悪夢
とある日の、幼女の悪夢
「……おにいちゃん……おにいちゃん…………」
ぐすんぐすん、と。涙ぐみながら雪奈がリビングに入ってきたのを見て。
僕はギョッとして、持っていた本を取り落とした。驚くのは無理もないと思う。雪奈が泣くところなど、ほとんど見た事がないからだ。
「……いっしょに、いて……」
プルプルと震える手で、僕の服の裾を掴む雪奈。
こんな気弱そうな雪奈の姿など、今まで見た事がない。雪奈は部屋(春奈との共用の子供部屋)に居たはずだ。買い物に一緒に行こうと春奈に誘われたけれど、眠いから昼寝する、と言ってベッドに向かったはずだった。いったいどうしたというのだろう。
「どうしたの、雪奈」
「……お兄ちゃんは、ここにいますよね……」
「うん」
「……コワイゆめを……みました。さっきまでのが、ゆめだと。ゆめだと思いたいのです。ワタシは今、おきてますよね??ゆめ見てませんよね??お兄ちゃんは、ここにいますよね??」
「……大丈夫だよ。僕はここにいるから。今が現実で、さっきまで見てたのは、間違いなく夢だよ。安心して」
雪奈は僕の隣に座ると、ギュッと抱き着いてきた。こんな甘える雪奈を見るのは、本当に久しぶりだと、ちょっと驚き、少しだけうれしく思った。
雪奈の背中に軽く手を添えて。まるで小さい子をあやしているようだな、と思ってしまう。雪奈はまだ8歳だから、普通にまだ小さい子供だ。ぐずってあやす事もあるだろう。でも、雪奈の精神的な大人ぶりを日ごろから見ている僕としては、何だか不思議な感じがした。そして、『やっぱり僕が守るべき妹なんだな』と、そんな想いを抱いてしまう。
『ただいまー』『ただいま』
『ただいま!!雪ちゃん、アイス買ってきたよ!!』
玄関から、父さん母さん、春奈の声が聞こえた。すぐにバタバタと春奈の足音、リビングのドアを開けて春奈が保冷袋を手に入ってくる。そして、ぐすんぐすんとぐずりながら、僕に抱き着く雪奈を発見する春奈。
「雪ちゃん!!どうしたの?!お腹痛いの?!」
カップアイスをテーブルにぶちまけながら、春奈が雪奈にしゃがみ込む。それに続いて父さん母さんもリビングに入ってきて……事情を説明する事になる、僕だった。
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「安心していいよ、今が現実だからね!!はい、ぎゅーっ」
「はい。さっきのはユメです。あんなのはウソです」
雪奈はもう僕から離れて、春奈に抱き着いている。春奈も雪奈をギューッと抱きしめている。なんだか少し納得いかない気分になっているのは、なぜなんだろうか。
そうして雪奈が落ち着き、カップアイスを食べる事ができるくらいに回復した後、父さんが口を開いた。
「……ところで、どんな夢を見たんだい??……ほら、悪い夢は誰かに話すといい、みたいな事も言うし。話す事で、あれは夢だったんだ、と実感できるだろうから」
しばらくの間、沈黙で返す雪奈。そして、ポツリ、ポツリと話し出す。
「……ポツポツと街灯があるだけの、うすぐらい道でした。自分いがいに何も見当たらない道を進んでいたワタシ。進む道は、前に見えてきた道に、ななめに合流するところへ差し掛かっていたのです」
――雪奈が、何やら怪談めいた語り口調で話しだしていた。家族が何も言わずに雪奈の語りを聞く中、雪奈が話を続ける。少しだけ、何かの怪談ビデオを見ているような気分になってきている僕だった。ほぼ空になったアイスのカップを見つめる雪奈の、うつむく頭がゆらり、ゆらりと揺れながら、淡々とした言葉を漂わせていく。
「……ワタシは道を進みつつも右うしろを、合流する道の左右を見て、だれもいない事をかくにんしました。……そして、ワタシが合流する道へと、入った瞬間――」
雪奈がその瞬間、がばっと頭を上げ、見開いた目を僕に向ける。
「――真っ赤な光が、ワタシを照らしたのです!!」
「ひゃあっ!!」
先ほどよりも少し大きな声を出す雪奈に、思わず驚きの声を上げてしまう僕だった。暗闇に光る赤い光!!それは、いったい――――
「そして暗闇に声が響きます――『 前の車、左に寄って、止まりなさい 』――と!!」
「――えっ」「――えっ」
「「ええっ」」
雪奈は、しょぼん、という擬音が似合いそうな感じでまた視線を空のカップアイスに落とすと、語りを続けた。
「一時停止違反を取り締まる、パトカーが向かいのビルの駐車場に隠れていたのです」
「「……えぇ……」」
「「…………えー」」
怪談では無かったようだった。
「……交差点直前の、ごうりゅう地点でした。一時停止のラインも、もちろんありましたよ。しかしですね、辺りはもう真っ暗。車しか入って来ないスロープとのごうりゅう地点だったのです。ライト1個でも点灯していれば、それだけで危険には気づけたのです。……わかっています。一時停止しなかった、ワタシが悪いのです。でも……でも!!あと1カ月だったのです!!ワタシのぜつぼうかんが、理解できますか、お兄ちゃん!!」
「……えーと」
がばり、と頭を上げた雪奈が、少し涙ぐんだような表情で僕を見ていた。……いや、そんな表情で僕を見ても。なんて言えばいいのか、わからないよ僕は。
「――あと1カ月で、前の青キップが無かった事になっていたのに!!!!」
「……えええ」
全然意味の解っていない僕は、父さんと母さんに視線を向ける。と、父さんも母さんも、何か頭痛を覚えたような表情と仕草で、少しうなりながら目を閉じていた。
「ワタシのゴールドが消え!!違反者こうしゅうが決定したのです!!数々のゴールドとっけんが無くなり、また毎年の更新と、違反者こうしゅうのオマケつき!!もちろん保険のグレードも下がります!!うぞだぁぁぁぁぁ!!そう叫びたくなるのも無理はないでしょう?!おかね払います!!だからゆるして!!と叫びたくなる気もちが!!!!」
「……あ、はい」
とりあえず、僕はそう言うしかなかった。父さんと母さんは、少しだけうなずいていた。
「しかもその捕まった場所ですが、以前に青キップを切られた場所と、まったく同じ場所だったのです。同じく一時停止違反でした」
「それはどうなの」
話だけ聞くと、もう完全に雪奈が悪いとしか言いようが無いと思うんだけど。
「――お兄ちゃんは、ワタシを責めるのですか……??」
「お兄ちゃんひどいよ!!雪ちゃんはこんなにキズついてるのに!!」
悲しそうな顔の雪奈と、怒りをあらわにする春奈。突如として僕が責められる流れになっているその理由がよく分からないまま、僕が父さんに視線を向けると、父さんは目を閉じて、小さく頭を振っていた。え、どういう意味なの父さん。対応を間違えたって事なのかな。
「聞いているんですか、お兄ちゃん」
「お兄ちゃん!!」
「はい。聞いてます」
どうやら余計な事を言ってはいけないらしい。妹二人からの責める声に、僕は大人しく黙って話を聞く事にした。
「そして事は、それだけでは終わらなかったのです」
まだ続くのかあ。と思ったけれど、その気持ちは顔に出さないように努力する。
「その事件があった日から、1カ月もたっていない、とある日の事……ワタシのいしきが少しだけとぎれた、次のしゅんかん――目の前に、車が!!」
「ひゃあっ!!」
雪奈の不意を突くようなリアクションに、僕はまたしても声を上げてしまう。どうして僕をピンポイントで驚かせるような流れになっているのだろうか。
「――前を走っているはずの車が、ブレーキを踏んで停車していたのです!!」
「えー」
それって、もしかして、よそ見運転というやつじゃ……。
「ワタシはブレーキを踏みました!!祈りました!!止まって!!お願い止まってと!!お願い助けて!!助けてください!!今だけはかんべんしてぇ!!しゅっきん中なのです!!許してくださぁぁあい!!!!」
言っている事はとてもツッコミどころがあるのだけれど、あまりに真に迫って、そして悲痛な思いのこもった声に、思わずリアクション的な言葉も口に出せない僕。そして視線を父さん達に向けると、父さんも母さんも、また頭痛がするような表情を浮かべて、頭に手を当てていた。
「――しかし祈りが天に通じる事もなく、ワタシの車は、イヤな音を立てて……前の車に追突しました」
「…………」
父さん達は『いたたたた』とでも言いたげな、とても嫌そうな表情で首を振っていた。まったくワケの分からない僕とは違って、雪奈の気持ちが理解できたという事なんだろうか。これは運転免許を持ってる人にしか分からないような話なんじゃないだろうか。そう考えると、雪奈は僕に何を分かれと言うのだろう。何やら理不尽を感じる。
「やめて!!お願い許してぇ!!もういねむり運転も、よそ見運転もしません!!だから!!だから許して!!時間を戻して!!このままでは間違いなく免停です!!ヘタをすれば60日です!!罰金を倍払えば許してくれるというのなら払います!!だから法的処分はカンベンしてください!!」
うぐっうぐっ。と、雪奈の小さな嗚咽が聞こえてきた。どうやら、哀しみの感情が限界を超えて、泣けてきてしまったらしい。――そこまでの、いつも自分の事だろうと冷静に、悟りを開いたような視点で物事をとらえる雪奈でさえも、泣いてしまうほどの――そんな哀しみなのだろうか。誘拐事件の時にも泣きはらした様子などまるでなく、ケロっとして帰って来た、あの雪奈でさえも絶望感で涙を流すほどの哀しみ。運転免許証とまだまだ縁遠い僕は、全然分からないのだけれど。
「……そして、ぜつぼうの叫びとともに、ワタシは目を覚ましたのです」
「……そっか。ツラかったんだね。でももう大丈夫だよ。ぜんぶ夢だからね」
ギュッと雪奈を抱きしめる春奈。泣きながらも抱き着く雪奈。妹たちの、姉妹の、ある意味で心温まるような光景なのかもしれなかったのだけれど。その時の僕はただ『女子の共感力ってすごいなぁ』などと考える事しかできなかったのだった。
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「お兄ちゃん、車には気をつけないと、いけませんよ」
「はい」
しばらくして気持ちを落ち着けて復活した雪奈は、どういう流れか僕に交通安全的な、お説教みたいなものをしていた。
「車は走る凶器なのです。運動エネルギーは速度のじじょうに比例して、質量が大きければそれだけ大きくなるのです。いちばん軽い軽自動車だって700キログラムくらいはあるのです。時速30キロも出ていれば人をひき殺す事なんて、お茶の子さいさいなんですよ。助走10メートルでよゆうなのです」
「はい」
自宅で交通安全の講習を受ける事になるとは思わなかった。
雪奈が言うには『アオリ走行の自転車もバイクも、車のドライバーが轢き殺そうと思えば余裕』であり、『本当にやろうと思った人の手記を読んだ事がある』という事だった。その話を聞いた僕は、どこかで迷惑走行をしている連中を見かけたとしても、すぐに逃げようと思った。何かの間違いで見たくも無いような、ショッキングなシーンを見る事になるかもしれないから。
「ところでさ、雪奈」
「なんでしょうか、お兄ちゃん」
ちょっと聞いてみたくなったのだ。
「雪奈は……自分を、キレちゃうタイプだと思う??」
「ちがうと思いたいですが……しょうどう的な行動、というのはありますからね。手だしできないと思って調子に乗ってる悪ガキを、ひっかけて転ばしてやろうか……と、1回も考えた事のないドライバーなんて、居ないと思いますよ??車のドライバーの方は『体当たりしても自分はケガをしない』という事を知ってますし、相手を転倒させれば逃げるのも楽なものです。相手がめいわく走行をしていたなら、裁判だって一方的に負ける事はありません。まあ、『気づかなかった』と言えるかどうかが争点になるとは思いますが……体当たりで確実に勝てる相手に対してちょうはつされたら、どうなる事やら。車道を走ってる自転車や原付に、車が幅よせでイヤがらせするくらいの事なら、わりとよくある事です。ていぼう道路みたいに、当てるのと同時に始末できる場所だったら、ちょっとどうなるか、わかりませんね」
オーケーわかった。車には気をつけよう。うっかり運転もあるし、機嫌の悪いドライバーが当てに来る事もある、という事がよく分かった。自分が死んでしまった後では、いくら裁判で勝ったとしても、自分の得になる事は何もないし。事故も事件も、未然に防ぐのが一番だと思う。あと雪奈にも交通安全講習は受けて欲しいと、そう思った。
交通ルールは、皆のため。自分が守るという事は、相手に守ってもらうという事。自分が気配りをする事で、相手にも気配りをしてもらえるという事なのだ、と実感した。
真面目にルールを守っていても、うっかりで事故をもらう事もあるのに。相手だけが真面目にルールを守る事を前提にしてルールを破れば、キレて後先考えなくなった相手に轢き殺されてしまう可能性までオマケについてくる。わざわざ自分の命を危険にさらす可能性を高める必要などないのだから。そして雪奈は、こうも言っていた。
「いわゆる『交通弱者』とは、『車とケンカしたら間違いなく負ける』からこそ、言われる言葉なのです。べつだんエラいとかいう訳じゃありません。単に弱いだけです。ダンプカーを素手で倒せるくらいの実力がない限り、強気に出てはいけません」
以後、僕は歩道を歩いていても、接近する自転車や自動車に気を付けるようになった。重くて速い相手には勝てない。そしてコンクリートに頭をぶつけたら、そこら辺でも簡単に死ぬ。もっと危険に対して用心するべきなのだ、と。
そして思った。雪奈のあの夢は、リアルすぎる悪夢なんじゃないかなあ、と。
――転生者は、実体験を人に伝えるため、安全を皆にうながすために存在する、交通安全の教材のようなものかもしれない、と。ちょっと思ってしまった僕だった。
ああ……夢で良かった…………
でも気分的にすごく落ち込むような感じの悪夢ってありますよね。ね。ね。しばらく尾を引く感じのやつ。
野球の方、特に特別な演出とかは考えてませんがまだ出来上がってないので、こっちの方のストック分をちょっと上げておきます。
同じ文章を読んでも受け取り手によって受け止め具合が違うのは、それぞれの人の経験によるものだろうなあ、と思う今日この頃
今後もゆるい話でやっていくつもりですので、気長にゆるーくお付き合いください。




