4話 高橋賢治
このままではプラネルトに勝てないという事実には高橋も気づいていた。
高橋はひたすらに大きな音を響かせるダブルから連打へと切り替えていた。
地球の誕生、そして無数に生まれる生命の鼓動を表現した激しいビート。
今や彼は1秒間に100回という超高速連打で叩き続けている。
客席がどよめき始めた。やっと高橋の演奏を「聴き」始めたのだろう。
尻叩きで一番難しいのは尻と呼吸を合わせる事だとされている。和音も音階もない尻叩きの演奏において、表現したい事を観客に伝えるのは非常に困難だ。
だが演奏者の表現力が高ければ高いほど、その鮮明なイメージは奏者の手から叩いている尻へ、叩かれ役の尻から観客の尻を通して脳へと流れ込む。いわゆるテレパ尻(注8)が起こる。
プラネルトの表現力が人間離れしていると言われるのは、このテレパ尻を自在に使いこしてしまう並外れた技術力にある。加えて決勝戦ではケツ・ハウリングなどという離れ業まで披露してきたのだから手に負えない。
俺以外には、な。高橋は心の中で呟いた。
高橋はこの決勝で尻叩きの歴史を表現するつもりだった。
人類の歩んできた歴史は尻叩きの歴史だと言っていい。
人類が始めて手にした楽器は尻だった。
世界各地の古代文明に尻叩きの痕跡が残っており、日本に旧石器時代の遺跡から尻を叩き合っている土偶が発見されたことは有名である(注9)。
平安時代に貴族の遊びとして有名だった蹴鞠と並んで尻鞠も盛んに行われていたことも最近の研究で分かってきた。
著名な考古学者はこう言っている。「人間が尻を叩く行為を行わなければ、現代の文明よりあと1000年遅れていただろう」
しかし良いことばかりではない。尻叩きが世界大戦で兵器として使用され、多くの犠牲者を出した血塗られた歴史もある。尻に殺された人もいる。当然尻を憎む人もたくさんいる。
だがそれでも、それを含めて尻叩きだ。正の面も負の面も、両面合わせないと尻叩きにならない。それはちょうど尻が二つに分かれているように。
高橋は汗まみれだった。額からこぼれた汗が尻に伝っては一瞬で蒸発していく。今なら尻で目玉焼きが作れるのではないのかとさえ思える。
観客の集中力も戻り始めている。しっかり目を開き、高橋の演奏に耳を傾けている。確実に高橋の演奏が心を動かしつつある。
まだだ。
演奏に集中しきっていながらも、高橋は焦っていた。確かに観客を起こすことには成功した。
それでも足りない。今の観客たちはちょうど朝食のパンを齧りながら、もしくは朝の体操として尻を叩きながら高橋の演奏という名のテレビ番組を見流しているに過ぎない。
プラネルトの魅せた宇宙に匹敵する鮮烈なイメージを残さない限り、奴の音楽を塗り替える事は出来ない。客の履歴を俺の尻で更新させるにはまだ足りなすぎる。
だが俺は今かつてないほど調子がいい。今叩いているタイ語話者の尻は今までの人生で叩いてきたどんな尻より高品質だし、何より叩きながら自分が成長しているのを感じる。
それでも。それでも届かないっていうのか。俺は勝てないのか。
くそっ。ここまで来て負けるっていうのかよ。世界一位と二位ってこんなに離れてるものなのか。
「んほお! お尻痛いのおおおおおおお!」
叩かれ役の男がとうとう痛みに耐えきれず叫んだ。だがまだやれる。こいつの尻はまだ俺に叩かれたがっている。
「ฉันยังสามารถทำได้」
ほらな。
「高橋君、よく聞きなさい」
まただ。また誰かの声が聞こえた気がした。叩かれ役の声ではない。尻の声とも違う。さっき、舞台裏でも聞こえた懐かしい声。
この声は。確か。
記憶が逆流する。
高橋は薄暗い山の上に立っている。
鈴虫の声が聞こえる。
小鳥がせわしなくさえずっている。
露をためた草葉が足に冷たい感覚をもたらす。
後ろからごうごうと、生ぬるい風が吹きつけている。
「見て、もうすぐ上るよ」
隣でミサが水平線の先を指さす。俺を見て無邪気に笑っている。
元々童顔のミサだが、それにしても小さくて顔が幼い。まるで高校で出会った頃に似ている、ような。
――思い出した。これは俺の記憶だ。ミサと付き合いたての頃、日の出を見に行こうと二人で山に登ったことがあった。
水平線の先で太陽が雲を赤く染めている。
まるで鮮血のような、生命の源。
この世の終わりのような、世界の始まり。
深く冷たい海の底から、燃える陽が上ろうとしている。
神秘的な光景に俺は目を奪われていた。
どこからともなくチェロを弾く音が聞こえてくる。情熱的で扇情的なメロディー。いったい誰が。
振り返ると中年男性が尻でチェロを弾いていた。もちろん素っ裸である。
思い出した。この人は元尻叩き部顧問の増田先生(生徒に尻を出してクビになった人)だ。
増田先生は腰を小刻みに動かしながら言った。
「高橋君。最後に尻叩きの真髄を教えよう。『右の尻をぶたれたら、左の尻を差し出しなさい』」
その言葉にハッとして正面に振り返る。
尻がある。叩いている。戻って来た。
増田先生の言葉が俺を過去に連れて行き、そしてこっちに戻したんだ。俺の潜在意識がその言葉を探していたからだ。
高橋はグッと唇を噛み締めた。
右の尻を叩かれたら左の尻を差し出しなさい、か……。
先生。あの時は正直何言ってるのか分からなかったけど、この世界大会決勝まで勝ち上がってきた今でも全く意味が分かりません。
あとあの時通報してすみませんでした。
しかし高橋には分かっていた。全く増田先生のお陰ではないけれど自分のやるべきことを完璧に思い出した。
いらないんだ。尻叩きの歴史も、人類の歴史も。
ただ飾らずに、俺の一番伝えたいイメージを伝えるだけでいい。
俺の中にミサがいる。太陽がある。宇宙がある。
つまり尻の中に全てがある。
その手は叩くのを止め、頂点でぴたりと静止する。
瞳はそっと閉じられる。
迷いが消えた。
その心に火が灯る。
高橋の両手が炎を帯びる。
比喩ではない。彼の両手を激しい焔が逆巻いている。
会場の温度が一気に上がる。
この炎を帯びた男が何をしでかすのかと固唾をのんで見守っている。
高橋は大きく目を見開いた。
その瞳は尻を見ていない。尻の先にある、ミサと見たあの美しい日の出を見ている。
俺の全てを表現してやる。
「ねえ! 何でその手燃えてるの!? これから叩くつもりじゃないよね!? もう演奏終わりだよね!?」
叩かれ役の男の怯えた声は最早届いていない。
高橋は勢いよく両手を振り下した。