2話 高橋の葛藤
プラネルトの演奏が終わり休憩時間になっていた。ステージの上では神経質そうな調律師が叩かれ役の尻をペチペチ叩き、調律を行っている。その他にも多くのスタッフが慌ただしくステージを出入りしていた。
決勝戦。選手だけでなくスタッフの方にもミスは許されないのだ。
そんな舞台袖の端に一人の男がいた。最後の演奏者であり日本代表の高橋賢治である。
彼はスツールに座って頭を抱えていた。
「勝てない」
プラネルトの演奏を聞いてからずっとその四文字に頭を支配されていた。
奴は規格外の化け物だ。尻を叩いてピアノの音を出すなんて反則だろ。どうなってるんだ。
観客はまだプラネルトの見せた宇宙に魅せられている。きっと俺がこれから出て行って普通に尻を叩いてもプラネルトの余韻に飲み込まれるのがオチだ。俺でさえ奴の尻を振り払えていないのだから。
「くそっ」
高橋はやり場のない感情を練習用の尻模型に叩きつけた。彼の感情とは裏腹にポココッ、と陽気な音が響く。
高橋は先ほどからずっと自問自答を繰り返していた。
俺が生死の境を彷徨うまで尻を叩き続けてきたのはこんな惨めな思いをするためじゃなかったはずだ。こんな消化試合みたいな雰囲気の中尻を叩くためじゃない。勝つために。全ては世界一になるためだった。なのに……。
俺は何のために尻叩きを始めた。
俺は何のために全てを尻叩きに捧げて来た。
キャンパスライフも。就職活動も。睡眠時間も。羞恥心も。人間としての何か大切な物も。そして……。
俺は何のために……何のためにミサと別れたっていうんだ。
高橋が大学を休学して尻叩きに打ち込むと言ったら、高校の時から付き合っているミサに猛反対された。そして彼女は高橋の頬をぶち、言った。
「目を覚まして、高橋君! あなたが叩いているのはドラムでもティンパニーでもない! 男の尻なのよ! きったねえ男の尻なのよ!!」
痛む頬をさすりながら高橋は思った。叩くんなら尻にしてくれ、と。
ふと頭を抱えた高橋の手がハチマキに触れた。日本代表コーチの飯原がくれた、「必勝」の文字の間に日の丸が描かれた物だ。
くそっ、何が必勝だ!
自棄になってそれを取ろうとした時だった。
「高橋君、よく聞きなさい」
不意に耳元で誰かの声がした。屈んでいた高橋はパッと顔を上げる。スタッフ達が慌ただしく行き来しているものの、高橋と視線の合う者は誰も居ない。近くにそれらしき人物もいない。
気のせい、だったのだろうか。
それにしてはやけに鮮明に聞こえた。それにどこかで聞き覚えのある声だった。
追い詰められてとうとう幻聴も聞こえるようになったのか。高橋は思わず苦笑した。
パァン、と乾いた音が鳴る。チャイムを務めるスタッフの尻が叩かれた音だ。高橋の出番を知らせている。
無常だな。まるで死刑執行の合図みたいだ。そんな事を思いながら高橋は舞台袖から進み出た。
その後ろ姿は国を代表した者の堂々たる立ち振る舞いではく、観念して出頭した容疑者のようだった。
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観客たちはそれなりの拍手を高橋に送ってくれる。だがそれはあくまで礼儀としてのものであり、別段高橋の演奏を心待ちにしていたという感じではない。
事実観客たちの顔はみな心ここにあらずで、プラネルトの宇宙を彷徨っているようだ。瞳には木星が映っているし、何人かは本当に浮いている。
高橋は目の前の尻に人差し指で触れてみた。
硬い。世界レベルの良い尻だ。
先ほどこの尻の調律を行ってくれていた調律師の腕前は紛れもなく世界一だ。彼にかかれば噛み癖の付いた厄介な尻も、一週間経てば喜んでフリスビーを取ってくるようになるという。
調律師が世界一でも、演奏者が俺じゃプラネルトの演奏は覆せない。
俺は世界一になれない。
俺じゃない。
「อย่ายอมแพ้」
どこからともなく流ちょうなタイ語が聞こえた。また幻聴だろうか。いや、違う。今度はもっとはっきり鮮明に聞こえた。
しかし舞台上には高橋と叩かれ役の男、そして審判しかいない。
審判はイラン人だし、叩かれ役の男は中国人だ。そもそも舞台上で言葉を交わせば減点の対象になってしまう(注4)。
「อย่ายอมแพ้」
もう一度、タイ語が聞こえた時高橋は気づいた。
そうか。尻が喋っているんだ。
この尻はタイ人なんだ。
「ละทิ้งตบมือ」
お前、俺と遊びたいのか?
「มาเล่นกัน!」
高橋は思わず、一叩きしてしまった。
まるで熱せられた鉄の棒を圧しつけられたかのように、熱い、迸る感覚が腕を逆流した。何だ、この感覚は。思わずうっとりしそうになるような、激しくも甘い感触。
「ファウル!」
審判が赤い旗を揚げたのを見てハッとする。
「今の行為はスポーツ尻叩き競技規則B・32874項違反(注5)に該当する。あと一回のファウルでペナルティーが科されるぞ」
「すみません」
頭を下げながらも、高橋は頭から霞が晴れたように澄み切っていくのを感じた。
迷いが消えた。
意識が戻った。
自分が何のために尻叩きをしていたのか。何のために辛い練習に耐えてここまで来たのか。
全てを思い出した。
俺は何より尻叩きが好きだったからだ。
高橋は両手を天高く振り上げた。
熱気が満ちる。
温度が上がる。
周りの空気さえ飲み込むかのような情熱がそこに立っていた。
その姿は紛れもなく、ここまで名だたる強豪を粉砕して勝ち上がってきた尻叩きの新鋭、高橋賢治だった。
プラネルト、お前が宇宙を映すなら、俺が上から塗り替える。
お前が尻を天に奏でるなら、俺は地の果てまでも轟かせる。
俺の尻叩きを見せてやる。
「始め!」
審判の合図とともに高橋の手は同時に振り下ろされた。