1話 宇宙
随時更新します。
その男が舞台袖から姿を現した瞬間、会場の空気が一変した。
流れる金色の髪をツーブロックで固め、スラリと伸びる長身にタキシードを着込んだ男。
予選からこの決勝戦に至るまで、大会最高得点を出し続けてきたオーストリア代表のプラネルトだ。
その堂々とした立ち振る舞いは遠めに見てもスターのオーラで溢れている。
一体決勝でどんな素晴らしい演奏を聞かせてくれるというんだ。期待と興奮を隠しきれない観客たちは固唾をのんで見守っている。
そんな観客たちの様子などお構いなしにプラネルトは颯爽と歩いていき、椅子に腰かけた。彼の前にはふんどし一丁の男たちが三人並んでおり、プラネルトに尻を突き出す形で四つん這いになっている。
その時、静かに張り詰めていたホールの空気が困惑のどよめきへと変わった。
観客たちが動揺したのは決してプラネルトの前に男の尻が三つ並んでいたからではない。
尻叩き初心者の中にはこれを奇妙な光景だと捉える人もいるだろう。
確かに尻叩き(いわゆるケツリズム)の基本は一人の尻を叩くことだが、世界大会ともなると3つの尻を叩きこなす手練れはザラに存在する。それはつい先ほどの演奏で南アフリカ代表のモンゴメリが10人の尻を叩きこなしていた事でも明らかだ。
そう。もうお分かりのように、観客たちの困惑の原因はプラネルトが「椅子に座ったこと」にある。
「座椅子形式……!?」
客席後方に座っていた日本代表コーチの飯原も眉をひそめた一人だった。
周知の事実であるが、尻叩きの基本はスタンディング(注1)だ。
音の大きさ、張りが審査の上でかなりの比重を持つ尻叩きにおいて、力の入りにくいクラウチングは敗退行為に等しい(注2)。今回の世界大会においてもクラウチングを採用した奏者は一人も居なかった。そもそもプラネルトだって、準決勝まで立ったまま尻をしばいて勝ち上がってきていたのである。
何故座った? 勝負を捨てたとでもいうのか……?
いや、そんなはずはない。飯原は言い知れぬ不気味さを感じていた。
椅子に腰かけたプラネルトの動きが止まった。
同時にざわついていたホール全体が一気に静かになる。
尻に目を落とすプラネルトは一瞬、顔を上げて虚空を遠い目で仰いだ後、まるで赤子に触れるかのように、柔らかく尻に触れた。
瞬間、会場から声にならないどよめきが起こった。全員がプラネルトに心臓を鷲掴みにされたかのような衝撃だった。
まさか、これは。
飯原は心臓の鼓動を忘れるほど演奏に釘付けにされた。息が出来ない。彼の繰り出す音が何であるのか理解できない。いや、違う。認めたくないのだ。
プラネルトの奏でる甘い音色。天に届くかの如く透き通った旋律。
「モーツァ〇トだ」
隣から練習用尻男の岸島が呻くように声を出した。
モーツァ〇ト……?
モーツ●ルト。
モーツァ〇ト!
張りのある尻から流れるように繰り出される純度100%の和音。天才と称される洗練され切った旋律。どう聞いてもあの尻から紡がれる音色はピアノの音だった。
それは紛れもなくモーツァ〇トのピアノ■ナタ。尻を叩いてこんな綺麗な和音が出せるわけが……! いや待て、確かプラネルトは尻叩きの選手であると同時に世界的なピアニストでもある。
そういう事か。つまりプラネルトのピアニストとしての指先に尻が共鳴した――いわゆるケツ・ハウリング(注3)が起きているという事か。
だがケツ・ハウリングは極めて限定的な条件でしか発動しない。トップ中のトッププロ尻叩き奏者であっても、意図的に起こすのは困難だと聞いた。じゃあ、この男は……プラネルトは一体何者なんだ!
飯原は全身から鳥肌が立つのを感じた。奴は決勝戦までこの絶技を封印して、いわばメインウエポンを封印したまま余裕で勝ち上がってきた。まさに尻恐ろしい男である。
曲調が変わる。暗闇の階段を急いで登るような、激しい突き上げを予感させる新鮮なメロディー。ホル〇トのジュ★ターだ。
これは何だ。まるで尻が歌っているようだ。叩かれる喜びに身を任せて美しい歌声を響かせているようだ。
どこまでも果てしない闇夜に誘われるかのように、音楽のもたらす恍惚とした感覚が飯原を襲う。飯原だけではない。
プラネルトの神秘的な旋律は先ほどまで拒否反応を起こしていた観客さえも飲み込んでしまっている。
これは、まるで、宇宙。
その時、尻を弾いているプラネルトの口元が一瞬歪んだ。
笑っている。
まだだ。隠している。この男はまだ何かケツに隠している。飯原は熱くもないのに汗が額を覆うのを感じた。
駄目だ、ここでプラネルトの世界に飲まれてはいけない。飯原は隣に座っているブルペンヒッパーの岸島の尻をがむしゃらに叩いた。それは正気を保とうとする試みであったが、正気を求めて尻を叩く思考に至る時点で彼はもう手遅れであった。
一叩きして飯原は唖然とした。通らない。尻を叩く音が通らない。自分にさえ聞こえてこないのだ。馬鹿な。あの「優しい」とさえ形容出来そうなプラネルトの旋律に、尻を叩く音がかき消されているとでもいうのか。
飯原は固く目を閉じた。それは最後の抵抗というより諦めに近かった。
認めたくなかった。彼の教え子であり、プラネルトの後に演奏を控えている高橋賢治の優勝を信じてやまなかった飯原の心は激しく動揺していた。大会を三連覇しているプラネルトは確かに強い。しかしこの一年で才能を開花させた高橋の勢いがあればプラネルトを倒せると信じていた。だが……。
「落ち着け……。あれは尻。ピアノじゃない。あれは尻。きったねえ男の尻……!」
飯原はそう自分に言い聞かせ、息を整えた。
少し気分が落ち着いて来たのを感じて目を開ける。
天の川があった。
漆黒の闇夜に無数の星々が浮かんでいた。
何者の言葉も届かない沈黙と静寂の空間に、星々が白く、赤く、青く輝いている。
振り返ると、そこには巨大な木星が、間近に迫っていた。
いや、尻だ。尻に輪が掛かっているのだ。
よく見ると周りの天体も、煌煌と輝く小さな尻だ。白く、赤く、青く輝く尻だ。
そして圧倒されるのと同時に突き上げるようなジュピターのメロディーが飯原の身体を貫いた。抵抗も、価値観も、偏見も、全てを覆すかのような圧倒的な「音楽」が身体を満たす。
頬を涙が伝う。拒絶によって強張っていた全身から力が抜けていく。
勝てない……。高橋はプラネルトに勝てない……。