港街と島国
「海、海、海…………」
見渡す限りの、海。
乗船二日目にして、わたしは既に退屈という言葉を覚えていた。
しかし、それも致し方ないことだと今ならわかる。
海の上というのは、当然の船内以外の移動場所がない訳で。
娯楽道具を持ってきているならまだしも、荷物が嵩張るからとほぼ全ての娯楽は城に置いてきている。
話し相手のカールとディルクは二日目の今でも船酔いが辛そうで客室に籠っているし、ヒルマを含む大人三人はなんだか昨日から少しそわそわしていて、話し掛けにくい。
初日にヒルマが言っていた練習とは、どうやっても付き纏うこの暇を如何にして過ごすかということも課題なのだろう。
船酔いが全くないのが幸いだけれども、船内を散策し尽くし、美しい海も眺め尽くし、今日は昼頃まで眠るという怠惰もしてみた。
それでも行動の多くを制限されるこの海上では、まだまだ暇が多く残っている。
「ふう……」
本日何度目になるかわからない溜め息を吐き出す。
明日の朝方にはモードディッシュへ着くそう。つまり後半日以上は、この暇と付き合わなければならない。
どうやって過ごそうかと思えば、自然と溜め息も多くなってしまうものだ。
それに。
「ヴェラクレイス帝国へは、この道程なんか比較にならないくらいだものね……」
ヒルマ曰く、大きめの民間船で順調に行っても二月。貴族御用達の大型船舶で行くのなら一月~一月半。それに比べ、既に飽きたと言っても良いハシュートからモードディッシュへの移動はおおよそ二日~三日。
この程度の移動で飽きたなんて言っていてはヴェラクレイス帝国まで耐えられるのかが心配になってしまう。溜め息も増える。
「娯楽を……貯め込みましょう」
唯一暇を潰せる手段。溜め息を吐かないで済む時間。
今日は急ぎであったから準備も余り出来なかったけれど、もしヴェラクレイス帝国へ行くのであれば事前準備をしっかりしてから行こう。
とは言え船内へ持ち込める物など限られているから、持ち込みたい物が全て持ち込める訳ではないけども。
「あ、お嬢様。そんなに日に当たられてはお肌が焼けてしまいますよ」
ぼうっとこれからのことを考えながら海を眺めていれば、帽子を片手にデッキに上がってきたヒルマがそんなことを言う。
「もう、焼けたって怒られたりしないわ」
帽子を被せ、髪を軽く整えてくれたヒルマへ苦笑いを浮かべながら彼女の言葉に答えた。
色が白いことが尊いとされる美意識の中、日中に羽織も帽子も身に付けず出歩くなど言語道断だったあの頃とは違う。
例え日に焼けて肌が赤くなったりしたとしても、自分が痛いだけで周りに怒られることなんてないのだ。
「…………それでも、帽子だけは被ってくださいな」
何気なく放ったその一言にヒルマは一瞬だけ顔を歪めて、困ったように笑う。
「ええ、気を付けるわ」
最近、そんな彼女の表情を良く見掛ける気がするのは、彼女に対する負い目をわたしが感じているからだろうか。
だからわたしは素直に頷いて、潮風に靡く帽子の鍔を押さえた。
「長く日に当たり過ぎないように気を付けてくださいね」
その様子からわたしが暫く戻ることはないと判断したのか、ヒルマは侍女らしい忠告を残してデッキから下りていく。
そしてわたしもそれからは海を眺めて時間を潰していたものの、どうも落ち着かなくて日が傾く前にデッキを下りた。
一週間くらい前は何もしない時間が幸せだと思えていたのに、何故か今は何もしていない時間が怖く感じてしまう。
詰め込み教育の賜物かしら、なんて考えながら、わたしは客室へと戻った。
「…………やっと着いた」
ふらふら、と、地面へ降りたカール。
「…………もう、船はいいよ」
そしてカールへ覆い被さるようにしてよろよろと、地面に立つディルク。
すっかり夜も更けて、朝日が顔を覗かそうという時間に、わたし達はモードディッシュへとやって来た。
「お嬢様はなんともないのですか?」
「ええ、全く」
変わらず船酔いが尾を引く二人を尻目に、二人とは対照的なわたしをファティが気遣ってくれる。
無理していないのか、そう言いたげな眼差しに本当に大丈夫なのだという意味を込めて笑い掛け、未だ青白い顔をする二人の傍に立つ。
「宿が近くにあるそうだから、そこでゆったり休みましょう」
「揺れないベッドで寝たい」
「いっそ揺れていないなら地面でもいい」
今にも地面に寝そべりそうな二人を何とか移動させて、先に宿へ向かって手続きをしてくれていたベルホルトと場所を変わる。
「カール、ディルク、大丈夫ですか?」
ベルホルトにほぼ担がれるようにして移動する二人の歩調に合わせていたら意外と時間が経っていたようで、先に宿を取ってくれていたヒルマが宿先でわたし達を待っていた。
「ああ、なんとか……」
「大分落ち着いてきた気はするよ……」
ベルホルトから離れ、一人で立てるようになったらしい二人がよたよたしながら宿に寄る。
「お二人は二階の、一番手前の部屋です。201、ですからね」
ヒルマの言葉を聞いているのかいないのか、返事はないまま宿の中へ入っていった二人。
「聞いていたのかしら?」
「恐らく……」
一応確認してくる、と二人を追うベルホルトと共にわたしたちも宿へと入る。
「お嬢様は私と同室で。ファティはベルホルトと一緒で構いませんよね?」
「ええ、まあ、夫ですからね」
ファティに202と書かれた部屋の鍵を渡し、ヒルマが203と書かれた部屋の鍵を持つ。
「あ、ベルホルト。二人はどうだった?」
「ベッドで眠ることにしたようです。昼頃まで眠る予定だからそれまで起こさないでくれと」
「あら、じゃあこの鍵だけ渡して来ましょうか」
「私が」
先程カール達の部屋の鍵を渡しそびれたヒルマが二階へ上がろうとした時、ベルホルトがさりげなくヒルマの手から鍵を抜く。
「いいの?」
「はい、行ってきます」
「ありがとう」
唐突なベルホルトの行動に驚くヒルマだけど、すぐに笑顔を繕って彼を送り出した。
「お嬢様、お食事は?」
「…………いえ、船で夕食を食べたから、大丈夫」
その一連の行動に違和感を覚え、ヒルマの言葉に少し遅れて返す。
「そうですか。では湯を貰って、軽く身体を拭いましょうね」
「ええ」
潮風を浴びたこの身体は、流石に拭いたい。
それはヒルマも同じだったのか、ベルホルトが戻ってきた頃に従業員へ湯の支度を申し付け、わたし達は二階へ上がった。
「では、また明日」
「ええ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
部屋の前でファティとベルホルトに挨拶を済ませ、203と書かれた部屋の扉を開ける。
ハシュートの宿と同程度か、少し良いくらいである室内。
以前宿で行ったことと大体同じことを済ませ、二つ並ぶベッドに潜り込んだ。
「おやすみなさい、お嬢様」
「おやすみなさい、ヒルマ」
うつらうつらとする意識でなんとか反応して、わたしはそのまま眠りに落ちる。
島国で、何をしようか。
眠りに落ちる束の間の微睡みの中、明日を考えた。
「…………本当に、これで良かったと思ってる?」
ほぼ三日、見事な演技でファティとベルホルトの目すら騙したディルクがベッドに腰掛けて俺を見据える。
「他に何の手があったと?」
テーブルに一枚の紙を開き、愛用の筆記用具で文字を書く。
「ミーナが知ったら……」
国王への定期的な報告文書。
ミーナは見つかりません、もう少し捜索範囲を広げます。
そんな嘘を最初から最後まで並べ立てて封を閉じる。そして、そのままテーブルの上に放った。
「ねえ、カール」
「うるせえな」
未だにごちゃごちゃと文句垂れるディルクの言葉の先を強制的に塞ぎ、席を立つ。
「今更だろ?」
見下ろすようにディルクの正面に立って、俺はただそう告げた。
「…………カール」
そんな俺を何処か哀れむような目で見るディルク。そんな目で見られる覚えは一切ないのに、何処か確信を持って自分を見るその目から逃げるように、俺はベッドへ移動した。
「ミーナ様は、悲しむよ」
「知られなきゃいいだけだろ」
「勘の鋭いひとだよ?」
「他人のことだけな」
寝そべって眠ろうとする俺にディルクは何度もしつこく言葉を重ねる。もう全ては今更だというのに、何がしたいと言うのか。
「今なら、まだ……」
「うるせえ」
ついには反応すらしなくなった俺に痺れを切らしたディルク。ベッドから立ち上がり、今度はアイツが俺を見下ろす位置に変わった。
「今ならまだ、間に合うよ」
ポツリと、ディルクは言った。
全ては、ミーナの為に行ったこと。
けれどそれは彼女が絶対に喜ばない手段だと知っているディルクは、こうやって二人になる度に何度も何度も俺を説得しようとする。
「カール」
わかっている、そんなことは。
他人に言われなくとも、誰一人喜びなどしない、単に俺のエゴだということなんて。
____それでも。
「同意の上だろ。何の問題がある?」
ミーナが助けたというあの少年も、俺も。ましてや、ディルクだって。
あのときは、全員がこの話に納得したはずだ。
「…………ごめん」
こうやってこの話は、毎回ディルクが謝って終わる。
俺があの少年を見つけて、少年が俺にひとつの頼み事をした時から、ずっと。
「この世に不幸なんてありふれてる。それを知っているか知らないか。ただ、それだけだろ?」
布団の中から吐いたその台詞に、そうだね、と、ディルクが寂しそうに言った。
良くある話。良くある犠牲。良くある、こと。
「おやすみ、カール」
「ああ」
今日も何を言っても無駄だと理解したディルクはベッドに戻って行く。
知られなければ良い話。ただそれだけなのに、ディルクはやけにこの話に拘る。知られる可能性の方がずっと、低いというのに。
「………………」
もし仮に、知ったのなら。
彼女は、幻滅するだろうか。
そんな人間だとは思わなかったと、その聞き慣れた声で、聞き慣れない言葉を紡ぐのだろうか。
「いやだ、ね」
何に対してなのかわからない感情が、ただ空気に溶けた。