直轄地のお茶会2
景色は崩れ落ちるように移り変わる。
『……おとうさま、いかないで』
風が鳴る。
見渡す限り赤く白煙に囲まれ、喉が焼けそうなくらいの熱気の中で、わたしは母にしがみついていた。
『大丈夫だよ、ミーナ。ちゃんとイリーナの言うことを聞いて、一緒に外で待っていて?』
『いや!お父様が行かないならわたしも行かない!』
『まったく……』
火の手がもう、傍まで来ている。
執務室の奥。
隠し通路へと繋がる本棚の前。
駄々を捏ねるわたしと、逃げるよう促すお父様。
『フィー。ミーナは……』
『お母様!なんでお父様を置いていかなくちゃいけないの!?』
やだやだとわんわん喚き、泣きじゃくりも、お母様はわたしを抱き上げてお父様との抱擁を交わす。
『フィー。巻き込んでごめんなさい』
『全て、覚悟の上だよ。ミーナが生きていてさえくれれば、私はそれでいい』
もう会えないのだと理解していた。
この惨状に、二人の雰囲気に、今ここで父の手を離したらもう次はないのだと。
『ミーナ』
『いや、いや!!』
だから駄々を捏ね続ける。
『ミーナ、聞いて』
『聞かない!』
抱き締めようとしてくれる父の手を払い除け、母の拘束から逃げようとばたついて。
『お父様はいつでもミーナの傍にいるよ。おまえが忘れてしまっても、何一つ思い出せなくても。それが私の願いであることをどうか……』
『壊せ!』
家具で塞いでいた執務室の扉が少しずつ開いていき、喧騒が大きくなる。
『愛しているよミーナ。……おやすみ』
どんっと強く押され、お母様と共に転倒した束の間に入口は閉じ切られた。
父の顔が消えない。慈愛に満ちた、それでいてとても悲しそうで泣きそうなその顔が。
本棚の背を叩き、泣きじゃくっても何一つ物音しない。
『いや……』
『ミーナ。走りなさい』
『いや……!』
『走りなさい!!』
そんな私を見かねた母は今までで見たことも聞いたこともない顔と声でわたしを引き摺り走る。
走る、というよりも引き摺られているといった方が正しい状況の中で、薄暗い道を迷いなく進んでいく母。
『……フィデリオ』
不意に開けた地下通路。そこは行き止まりであり母とわたしは立ち止まる。
背後から聞こえる足音と怒声。
何かを秘める、母の面差し。
『ミーナ、こっち向いて?』
『お母様っ……お父様が……』
どんどん近付いてくるの気配が楽しいものではないことは理解している。そして父がきっともう、いないことも。
だから母に縋り付く。
抱き締め返してくれるぬくもりが恐怖を消してくれないから、目を瞑る。
しかし母はそんなわたしの頬に手を当て上を向かせ微笑みかけては、何もない壁を指差した。
『ミーナ。いち、にの、さん、でここに飛び込んで?』
『え……?』
『大丈夫。お母様を信じて?』
喧騒がもう近い。
何も聞けないまま、だけど促されるがままに壁の前に立ち、繋がれた手を握り締める。
『……』
何かを、母は呟いている。知らない言語、聞き取れない言葉達。
『ミーナ、おまじないをかけてあげる』
『おまじない?』
『そう。怖いこと全部、忘れられるおまじない』
怖いこと。
待って、と口を挟む前に、母は続ける。
『でももし、貴女がこのことを思い出すときが来たのなら……ヴェラクライス帝国の、城内より外れた庭園。そこにある小さな東屋を訪ねなさい』
『あずまや……?』
『約束よ、ミーナ。愛してる』
何が何だかわからないままに頷けば、そっと解かれる手。
『お母様も、来てくれるんだよね?お父様も……』
間もなく、先程母が言っていた出来事が近いと察する。
『ええ、すぐに行くわよ。だからミーナは私達より少しだけ早く、お外で待っていてね』
『……うん』
ほら、とくるり身体を回転させられ、壁に向き直る。
いち、にの、さん。
数えてくれたその言葉の通り、わたしは足を踏み出す。
ずるりと壁に引き摺り込まれるような、呑み込まれるような感覚。
『……お母様?』
完全に壁へと身体を沈める前、やっぱり名残惜しくてわたしは振り返る。
だけれどそこには誰もいなくて、わたしはいつの間にか一人、呆然と焼ける屋敷を眺めていた。
何もわからない。思い出せない?ちがう、知らない。
いないの、とでも呟く。
『ねえ、お父様と、お母様はどこ?』
訳も分からないまま、でも思うがままに出てくる言葉達が、わからない。
『いない、いないの。おかしいの。さっきまで、一緒にいたのよ?』
そうだっけ、本当に?
でも違うならどうして、こんなにも胸が痛いのだろう。
でもわからない。本当に、どうして、なんでなんだろう。
『……みー、な』
『ねえ、カール、ディルク。お父様とお母様は、何処にいるんだろうね?かくれんぼかしら?』
言葉と思考が定まらない。
感情がぐちゃぐちゃで、ままに言葉は流れ落ちていくのに思考はずっと浅く鮮明に何かを忘れていく。
『何処かしら?何処に行ってしまったの?』
一歩歩く度に。言葉一つ、作る度に。
何かを忘れているようで、炎が誘う。
『おかしいなあ』
みんなに抱き留められて、ただ空虚が滲んでいって。
あそこにいきたい。
会いたい。忘れたくない。
おとうさま、おかあさま。
『……おかしいよ』
何が、おかしいんだっけ。
「……ゆ、め」
じっとりとした不快な汗と速い鼓動。
泣きじゃくりたくなる衝動に、理解が追い付かない夢たち。
だけど今見たもの全てがただ忘れていただけではないこと。
「……っ」
ずきずき痛む頭。
鮮烈に思い起こされていく記憶。
顔も、声も、ぬくもりも。
ぜんぶぜんぶわすれしまっていたふたりのこと。
「お嬢様、お目覚めで……」
席を外していたヒルマが戻ってくる。
ベッドに駆け寄り、泣いているわたしを抱き締めてくれる母のような彼女に抱かれながら、ただ譫言のように繰り返す。
「お父様が、お母様が、」
もういないの、と。
わたしは今までずっと、それを受け止めないでいた。
正確には、受け止められなかった。
だってわたしからしたらそのひとたちは知らない人で、両親だって言われても顔も何もわからない。
何も覚えていない。何もない。だから、悲しむ理由すらない。
時折少しだけ思い起こされた記憶達では本当にあったのかもわからない、夢の続きのような日々だと何処かで思っていた。
でも今は、全てを思い出してしまった今は。
楽しかったこと、楽しいこと、笑い声だけで包まれていたあの日常はつい昨日のことのようで。
「もう……ほんとうに、いないのね」
わかる。
ふたりはいない。
記憶と共になくしたふたりは、もう、本当に何処にもいないのだと。
悪夢が怖くて夜、寝室を抜け出しては両親のベッドへ潜り込んだときのぬくもりも。
風邪を引いてたら、傍でずっと手を握ってくれていた優しさも。
笑い掛けてくれるその顔が、柔らかい声たちが、あたたかいてのひらは。
もう、ないのだ。
「……」
ヒルマは何も言わずに抱き締めてくれている。
あの頃よりもずっと小さくなったように感じてしまうその背中に、より力が込もった。




