それぞれの4
天蓋を下げ、何も言うことなく私達を見守ることにしてくださったお嬢様に感謝しながら寝室の隣にある侍女達の控え室へと入り、見慣れた後ろ姿に声を掛けるも振り向くことのない彼女。
一体いつからこんな距離感になったのだろうなんて考える余地すらなく、あの日が全ての原因であるとわかっている。
寝台を共にして夜通し語り合った日も、たまの休日に街へ下りては日が暮れるまで散策した日々も、あの日を境に全て絶えた。
ここ一月のぎこちなさはあの当時を思い出させる程、彼女は自分を責めている。
いや、私が気が付かなかっただけで責め続けていたのだろう、ずっと。
それでも時が経つに連れて少しずつ少しずつ薄れていた記憶が今回、受領印を偽りお嬢様の手紙を捨て続けていた女性の親戚にあの男がいる事実が、一層に彼女を苦しめている。
そこに何の繋がりがあるのか、そもそも本当に彼はこの件に関与しているのかなんて今の彼女には関係ない程に気負っているのは、かつてのことを清算出来ていないからだとわかっている。
けれど、あのときなんと声を掛ければ良かったのだろう。
ダニエルが拾ったカフスに言葉を失ったあの子に掛ける言葉など用意できるはずもなかった。
だってそう、テオがあんな姿で見つかったとき、あのカフスがファティの昔の婚約者が持っているものに良く似ていると知らされたとき、彼女の婚約破棄の話を思い出したとき。
一瞬でも、ファティのことがなければって頭に過った自分がいたから。
だって、だって、何も罪のない我が子が貴族の政に巻き込まれた。
その動揺は僅かな時間でも誰かのせいにしなければ正気を保てない程に受け止めきれない残酷な事実だった。
貴女のせいなんて、言葉にしたくなかった。思いたくもなかった。実際、ファティが関与している訳ではないとわかっていた。でも、ほんの少しでもそう思ってしまったことが、長く共にいた彼女には伝わっていたのだ。
表面的な繕いなんかでは誤魔化せないくらい、一緒にいたのだから。
そう、本当に。ずっと。
始めて出会った日から、その日までは。
「……貴女と、最後に二人きりで出掛けたのはいつだったでしょうね」
「貴女が、ダニエルと一緒になると報告してくれた日以来です」
時が経っても忘れることはない日々を思い出して、その最後はいつだったかと一人零せば間髪なく答えが返ってくる。
「何処に行きましたっけ」
「いつものところです。貴女の好きだった……ベンチの上」
「ああ、広場の」
「ええ、パンを買い込んで」
「懐かしいですね。昔はダニエルに頼まれて二人で買い出しに行っては帰りが遅いと怒られましたっけ」
「まだ大丈夫だって引き留めるのはいつもヒルマでしたのに、怒られるのは二人だなんて納得行きませんでした」
「あら、そんなこと言ったら買い出しのパンをこっそり二人で半分こしようって悪だくみをしたのはファティだったのに、私が一人で怒られたこと忘れていないですよ」
「その説のことは本当に申し訳なく思っています」
「あら」
「ふふ」
ひとつ、思い出を語る度。ふたつ、懐かしさが蘇る。
そうしていくつもいくつも他愛のない過去を振り返って、とうに過ぎ去ったはずの話をなぞっていけば、必然的に再びその話へ辿り着く。
「いつだって貴女は、私のせいだと……責めることはありませんでした。姉のように慕う貴女に甘えるように悪戯をしたって、しょうがないと思ってくれているその眼にいつも甘えていた。それが許されるのが本当に嬉しくて、貴女が本当の姉だったら良かったのにと何度思ったことか」
静かに紡がれていくのは今まで聞いたことのない言葉達。昔から私を友達のように、というよりはその言葉の通り姉のように慕ってくれているんだなとは感じていた。
当時まだ齢十五で、それなのに婚約者の手落ちによって婚約破棄を経験した女の子。
それを知ったのは随分先のことであったけれど、綺麗過ぎる所作に時折聞いた家族はいないという言葉、その二つだけで何かあったのだろうとは薄々予感してはいた。
だからといってそれを知ったところで慕ってくれる彼女と関係が変わる訳でもないし、実際旦那様からそれを聞いたときも何も変わらなかった。
可愛い妹、大切な友人、良き理解者。
今もそれ自体は、変わらないのに。
「だから貴女とダニエルが結ばれたこと。テオが生まれてきてくれたこと、本当に嬉しかった。小さな手が私の指を掴んで命の温もりを与えてくれた日々は本当に幸せなひとときで、ああいつか私も望んだ人と生きて行きたいと、そう思えたくらいに大切な時間だったのに」
いつだって隣に並んで寄せ合っていた肩は一つ揺れて、私はそれを眺めている。
「……貴女は一度も、私を責めなかった。何も悪くないと、何度も何度も言葉をくれた。だけど私、そう言ってくれる貴女の目を一度も見れなかった。いつも穏やかで大好きな目が変わっていたらどうしよう。どんな目で私を見ているのだろう。もう私を、嫌っていたらどうしようって、そんな利己的なことしか考えられなくて」
段々と掠れて上がっていく言葉尻に震える背。
ファティが心から自分を慕ってくれていたからこそ抱いてしまう感情を理解してあげられなかったこと、普段なら何気なく気付くであろう異変に何一つ気付いてあげられなかったこと、あの子を気遣うふりして本当は遠ざけていたこと全てが複雑に折り重なって、また何も言えない。
「ずるいでしょう。いまさら、こんな話」
隣に立つには遠すぎる距離、けれども他人と突き離すにはあまりにも近過ぎる距離を保ったままファティは続ける。
「だって……お嬢様が、お嬢様がこのような目に遭うことがなければ私、一生話すつもりなんてなかった。このままずっと距離を保ったまま、昔のように語り合ったりはしない、けれども決して離れはしない関係でいられるのなら満足だったもの。貴女の家族を壊してしまった私がまた友達のように過ごすなんて許されない。でも、イリーナお嬢様の侍女という仕事仲間として、今はお嬢様の侍女という同士ならば許されたいなんて、都合が良すぎるもの」
淡々と、けれども端々掠れるひた隠しにされていたファティのおもいたち。
「いっそのこと、貴女が、私を責めてくれたら」
そして最後、そんな弱音と共に彼女は言葉を切った。
重い沈黙がただ続く中、私は切り出す言葉を探している。
貴女のせいなんて思ってない、ずるいなんて思ってない、今からだってまた昔のように戻ることは出来る。
そんなきれいな言葉達が咄嗟に出て来なかった理由をわかっているからこそ、最初の言葉をずっと探している。
「ファティ、私ね。貴女を責めたこと、あるわ」
ああでも、そうやっていつも本心を隠して、優しい言葉だけを伝えていたからお嬢様とすれ違ったんだという考えに至った私は、反射的にそう伝えていた。
「テオが殺されたと聞いて、そこに貴女の昔の婚約者が絡んでいるかもしれないと聞いて……初めに感じたのは貴女の心配よりも怒りだったことを覚えてる」
びくりと跳ねた肩に、恐る恐ると、結局は振り返られなかったその背に、もうこれが最後かもしれないと思いながらかつての胸中を吐露する。
「でも、言い訳をするつもりではないけれど、貴女のことが心配だったのも本当よ。そして無造作に貴女に怒りを感じて恥じたのも、貴女のせいではないと言い続けていたのも、本当なのよ」
それについて一切の嘘はない。彼女に嘘を言ったのは、まだ色々な整理が付いていなかったとき最初に吐いた、彼女を気遣う言葉だけ。
でもその一言、いつもとは違うトーンで伝えた言葉、目を見ることさえなく適当に流してしまった行動が彼女をここまで追い詰めた原因だと気付く余裕もなく、本心を伝えることもなく、ただ言い続けた気遣いの言葉が余計に傷付け続けるものだったことを今更知ったから。
「ごめんなさい」
「ちが、貴女は何も悪くない!」
無意識に、しかし確かに追い詰めていたことを謝罪すれば、今までこちらを見なかったファティがすぐに振り返って私の肩を抑えて頭を上げさせようとする。
「貴女は何も悪くない。何も悪くなんてないわ」
もう泣き出している眼が更に潤んでぽたぽたと溢れる。
昔より増えた目尻の皺、少し低くなった声、けれど何も変わらないあの子の性格。
責任感が強くて、甘えることを知らなかった出会ったばかりの頃と何も変わらない。
「そうよ、私は悪くない。だから貴女だって、何一つ悪くないのよ」
「ちがう」
「違わないわ」
こうして頑ななところだって。
「じゃあ何処が悪いっていうの?」
駄々を捏ねる子供をあやすように、いつか出会った頃のように、私は尋ねる。
「私がいなかったら、私が婚約破棄なんてされなければ、私がイリーナお嬢様の慈悲を受けなければ」
「それは全てテオの死に直結するものではないわ。そうでしょう、強いて挙げるのなら」
私とダニエルが出会ってしまったこと。
テオを望んでしまったこと。
そしてあの日、あの子から目を離してしまったこと。
それ以外に、出来事を繋ぐものはない。
彼女の身の回りのことは全て何かしらを起こす可能性を孕んだ事であるにしても、私がダニエルと家族を作らなければ何も起こらなかった。
「ちがう、それは」
「だから、そういうことでしょう?」
何が何でも自分のせいにしたがる妹分を抱き締めて、全てはたらればでしかないのだと伝える。
これがなければあれがなければ、ああしていたらこうしていたらなんて、もう価値のない話であると。
事実としてあるのはテオが殺されたということだけ。ただ、それだけなのだ。
そこに誰かのせいがあるのなら、テオを殺した犯人だけにしか向けられないとも。
「わかっているわ。許されることは難しい、そこに自身の行動が絡んでいるのなら尚更」
例え明らかな責がなかったとしても責められる方がずっと楽なのだ、彼女達のように責任感が強ければ強い程殊更。
「けれどいつまでも自分のせいになんて、していられないのよ」
心が擦り切れて限界を迎える前に気付けないから。
「もう、やめましょう。終わりにしましょう。あの子は死んでしまった、それだけが事実で……決して覆ることのない現実だわ」
あの子が安らかに眠っていられていると信じることしか出来ない。
自分のせい、誰かのせいだなんて考えても何も、変わりはしない。
なのにあの頃の私は、自分の行動を棚に上げて第一にファティを責めてしまった。
「貴女が私は何一つ悪くないと思うのなら、私の貴女は何一つ悪くないという言葉を呑み込んで」
背に回された手に力が込められて、暗に出来ないと返ってくる。そうね、それが出来たのならここまでお互いに拗らせてなんていない。
「じゃあ、こうしましょう」
前にお嬢様が頑なに首を振らなかったとき、私はお互い様という結論を出した。それは互いに少しずつ過失が認められたからであって、今回のものとは違う。
私には、テオから目を離したという明らかな責がある。
一方でファティのは結果論であり、かつ可能性の話でしかない。
「必ず、テオを殺した犯人を見つけましょう。そうしたら私も自分を責めることなく、貴女を責めることなく……貴女は、自分のせいかどうかを明らかに出来る。それまで、この話は保留にしましょう。全ての結果が出たそのときに、結論を出しましょう」
自分にとってはあまりにも都合の良い言葉なのは、自分を責め続けるファティを今この場で頷かせるには私を引き合いに出すしかないと考えたからである。
例え犯人が見つかったとしても私があの子から目を離したことに違いはないけれど、ファティは違う。
カフスの持ち主が本当の犯人なのか、ただのでっち上げでしかないのかか明白となった暁、それが吉と出るか凶と出るかは不透明だけれど。
「……それまで貴女は、自分を責めないで。いい?そして明日からちゃんと、お嬢様にお仕えして」
結果として今を先へと送っただけでしかないけれど、首肯したファティに一旦安堵の息を吐くのだった。




