港街、故の
遅ればせながら明けましておめでとうございます。
『にげてるの?』
『にげてなんかないよ』
随分、幼い声が聞こえた。
中庭の隅、アーチを描く木々の最奥に隠された朽ちたベンチ。
わたしと彼が初めて会った場所。
彼が、彼女と抱き合っていた場所。
『さがしてるよ?』
『しってる』
夢と記憶の狭間の朧で、わたしは確かにこの夢を見ている。
『おとうさまもおかあさまも、わたしのことなんてどうでもいいんだって』
わたしではないわたしは、彼が誰かも知らぬまま心情を吐露して涙を流す。
『そんなことないよ』
『どうしてそう言えるの?』
齢十の彼にわたしを慰める術は持たなくて、彼が言葉を重ねれば重ねる程に、わたしは深く沈んでいく。
『じゃあ、僕が君を必要としてあげる』
彼が苦し紛れに放ったその言葉は生涯楔となってわたしの身を錆びさせることを、彼もわたしも知らない。
『…………ほんと?』
けれど、何も知らない飢えた少女は、そんなことを知る由もないから。
彼の言葉を、真っ直ぐに呑み込んでしまうのだ。
『約束』
しゅるり、と自分の襟元を飾っていた深紅のリボンを解いて、少女の小指と自分の小指を結ぶ。
拙く、歪に結ばれた蝶々に少女は嬉しそうに笑って、後には、己の指に結ばれただけの蝶々を寂しげに見つめる姿がそこにある。
ああ、夢だ。これは夢で、これは記憶だ。
遠い昔、幼かった自分が見た景色。
彼が忘れてしまった、遠き日の約束。
『もしも…………』
でも、わたしも、彼がこの後何て言っていたのかを覚えていない。
______覚えていたって、何も変わりはしないのだろうけれど。
「お嬢様?」
目を覚ませば、そこには心配そうにわたしを覗き込むヒルマがいる。
「大分魘されていましたけれど、嫌な夢でも見ましたか?」
サイドテーブルにある水差しからコップに水を注ぎ、わたしの背を起こしてからコップを渡してくれるヒルマ。
「ううん……覚えてない」
本当は全部覚えている癖に、そうやって誤魔化すわたし。彼女に、あの庭園の場所を告げたことはない。あそこは彼とわたしの思い出の場所で、わたしが唯一一人で泣けた場所だったから。
「そうですか」
ヒルマはいつだって、わたしが話そうとしないことを無理に聞き出そうとはしない。それは今も昔もずっと変わらない、彼女の優しさ。
「もうすぐ日が昇るわね」
朝焼け前の暗がり。空の端が白み初めて、紺碧が明ける前の僅かな時間。
以前はこの空が明ける度に憂鬱な気分になっていたけれど、今となってはそれも苦い思い出となりつつある。
「今日はどうしましょうか」
窓の外を眺めるわたしに掛けるヒルマの声で意識を遠くから引き戻した。
滞在して二週間が過ぎようというこの港街でやり残したことはほぼないと言える。
朝市にも行ったし、結局新しい羽織も買いに行ったし、観光地と呼ばれている所はヒルマの解説付きで見て回った。
そろそろ、この街を出ても良いと言えるのだが。
「ディルクとカール、ベルホルトにファティが来ていないのよね」
この港街で合流するはずであった元国王補佐二人、ディルクとカール。筆頭執事長と筆頭メイド長を勤めていたベルホルトにファティ。
わたし達がこの港街に着いた際に受け取った手紙にて、彼等は追っ手を誤魔化しながら進むからこの手紙を受け取った頃から二週間程は掛かるという報せを受けていた。
しかし王国から最初に滞在した街、リライスまでは一週間。リライスからこの港町、ハシュートまでは四日。
それを速馬とはいえ撹乱作業までしなければならないのだから、多少押したとしてもおかしくはない。
「皆が揃えば行きたい場所を幾つか出し合って順繰り回って行くのも楽しいでしょうね」
ヒルマの案に頷く。
確かに、未だ次の目的地が決まらない中、行きたい場所の多数決を取ってそれに合わせるのもきっと楽しい。
「みんなが来てからの楽しみね」
「はい」
コップの中身を飲み干して再度窓の外に視線をやれば、紺碧の空は薄くなっていた。
「早く来ないかしら」
皆幼少からの知り合いであり、気心知れる間柄。ヒルマとの二人も楽しいけれど、どうせなら冒険譚みたく皆で仲良く旅をしたい。
明ける空に期待を馳せてベッドから抜け出せば、こつりと窓が鳴った。
「で、ミーナ。これ知り合い?」
「ええと……ね、カール。とりあえず、その首を離してあげて?」
窓に当たった石を何事かと遠目から観察した時、下には見覚えのある五人がいた。だから至急部屋から路地へと下りてきた訳なのだが。
何故、わたしの幼馴染みであるカールは、わたしが前に羽織を貸した少年の襟首を掴んでいるのだろうか。
「俺が最初にこの街に着いてな。直ぐにミーナと合流するには警戒が足りないかと思って暫く身を潜めてたんだよ。幸い、ミーナの銀髪は良く目立つし、加えて従者らしき女性を連れてるなんて分かりやすい条件もある。街の人間に聞けば泊まってる宿を見付けるのなんか苦でもない」
「うん、それは分かったから、とりあえず少年の首を……」
しかし彼はわたしが要求していることとは全く関係ない話をし出す。もう一度同じことを要求してみるものの、わたしの意見は効果ないようだ。
「まあ、そんな訳で、お前が奴隷商に狙われてないかとか、変な貴族に欲目で見られてないかとか、無いとは思うが王国の人間がお前を見張ったりしてないかと俺は探ってた訳よ」
「うん、それで?」
三度目の要求もどうせ無視されるだろうと諦めたわたしは彼に話の続きを促す。
「一週間、俺は宿を見張ってた」
「それ寧ろカールが不審者じゃね?」
「うるさいぞディルク」
共に少年を拘束するディルクが光の速さでカールに茶々を入れてからかう。カールはわたしの身の安全を確保する為だと言い切っているけれど、個人的にはディルクに同意したい。
「まあ、そんな訳で、俺は宿を見張っていた。その間、この少年を見掛けたのは五回だ。最初はミーナに気があるのかと思って眺めてたんだが、どうもそうではないらしい。ミーナに害を加える気は無さそうだから今までは放って置いて、皆が合流した時に捕まえて聞き出せばいいと思った。それで今に至る」
事務職であったカールの何処にそんな筋力があるのかと問いたいくらいには軽々と少年を持ち上げわたしの前へと持ってくるカール。
一方、わたしとは一切目を合わせようとしない少年。
「で、これ知り合いなの?」
「ええ、まあ、そうね……」
まるで野良猫を見せるかのようにぷらーんと少年を吊るして見せるカール。わたしは知り合いと言っていいのか疑問に思いながらも、一応肯定する。
「ふーん」
「いたっ」
自分から聞いた癖に興味無さげに相槌を打ち、しれっと少年の首から手を離す。
突然のことで着地姿勢を取れなかった少年は尻から大胆に着地することとなり、その日久々に少年の声を聞くこととなった。
「ああ、話せるんだな」
幾分か前よりも良くなった身体の傷にわたしが安堵する一方で、他の四人は彼が誰かを見定めるように見下ろす。
「で、お前はなんだ?」
「ねえ、その、カール?」
早朝とはいえ、この街の人々の朝は早い。段々と多くなる人通りと好奇の目線。
流石に宿の迷惑にもなると考えたわたしが少年を問い詰めようとするカールへ声を掛ければ、彼もわたしの言いたいことが分かるのか一度溜め息を吐いた。
「ああ、場所が悪いな……と」
カールが辺りを見回した途端、素早く身を起こして逃走を図ろうとした少年。しかしそれはカール自らに阻止され、カールの翡翠の目は更に警戒の色を強める。
「しれっと人目の付かない所に拐って…………」
「宿!とりあえず宿に入りましょう!?」
なんだかとんでもないことをカールが言い出す前に提案する。結果としてそれは飲まれ、わたし達は寝起きであろう宿の関係者にチップを何枚か渡し、皆で部屋に戻ることに。
「で、結局こいつはなんなの?」
二人では広い部屋も、七人いれば流石に狭い。部屋の中央に少年、カール、わたしを置き、他の四人を壁際に寄せたとしても狭い。
「ええと………」
「なに?」
カールの琥珀色の髪を照らす朝日へ目を逸らしつつ、わたしは少年との関係を考える。
ここで正直に少年と出会った日のことを話せば、わたしがヒルマに嘘を吐いていたことがバレてしまう。それは再びのお説教は免れないだろう。
それに関しては良くないけれど良しとする。わたしが叱られるだけだから。
けれど、少年がわたしから逃げたこと、その前にも何かがあったようなことを考えると、わたしが勝手にそれを言ってしまって良いのかを悩む。
それを鑑みると、少年とわたしの関係は何で言い表せば良いのかがわからない。
「羽織を拾ったんだ」
傍でわたしがずっと頭を抱えそうなくらい悩んでいるからか、少年が代わりに口を開いた。
「そこのお嬢さんが落とした羽織をオレが拾った。その前に、腹を空かしているオレにお嬢さんが果物を買ってくれた。それだけだよ」
と。ありもしない口裏を、少年は語った。
「………お嬢様、それならそうと言ってくれれば良かったのに。困った者に手を差し伸べたことを、私は叱ったりしませんよ」
「ええ……ごめんなさい」
良い感じにヒルマに嘘を吐いたことも誤魔化されている。重ね重ねの罪悪感が重たい。
事実自体は嘘ではないかもしれない。しかし、細かな内容はとても違う。
実の所、わたしは少年に手を差し伸べてなどいないのだから。
「ならなんで宿の側を彷徨いてた?」
「一言、お礼が言いたかった。落とした羽織は届けたけど、言葉での感謝が一番大切だって兄貴が言ってたから」
少年に庇われる間、わたしはずっと居心地が悪かった。しかし少年の非になることをしないと決めた以上はこの言い訳を黙って呑むしかないのです。
「成る程ね、筋は通っちゃいるが」
一応、なんだか納得したような顔で頷くカール。
「なら戻ってもいいか?仕事の時間なんだ」
「ああ、そうだな」
最後まで疑いは晴れないようではあるけれど、確とした事実は見つけられないからか、カールが少年を引き留めることはなかった。
「お嬢さん、ありがとな」
部屋の入口まで移動した少年を目で追えば、彼は出ていく前にきちんと辻褄を合わせる為に礼を述べた。
「……いいえ」
礼を言われることなど何一つしていない。だから、少年の言葉に一拍遅れて声が出た。
「じゃあな」
にっこり笑った少年が出ていって、部屋の中の重たい沈黙は少しだけ緩む。
「………………いつまで生きいられるかね」
「カール?」
ぼうっと扉を見ていたわたしは、カールが何かを呟いたことは気付けても、彼が何を言ったかを聞き取れなかった。
「なんだ?」
「………何か言わなかった?」
「何も?」
しかし彼はその呟きを口にするはずでは無かったのか、その言葉の真意をわたしが知ることは無かった。
「そう?」
「ああ」
だからわたしは深く考えずに、彼の言葉を追うことをしなかった。
「…………」
そしてわたしの後ろにいる三人が静かに目を伏せたことにも、気付けなかった。
それらを見たヒルマが何か言いたげに口を開き掛けたことさえも黙り込ませる程に、冷たい沈黙があったこと。
それらに、この時のわたしが気付くことはなかったのだ。
もしかしたらこれは恋愛ジャンルから変えた方が良いのかと悩む作者です。
でも恋愛もする予定だし……って考えると多少のシリアスは許容範囲なんでしょうか。
どうなんでしょう。




