たいせつなもの2
「ヒルマとファティがさ。謝りに来たんだよね」
暗い廊下を歩んでいた最中、前を進むディルクが切り出す。
「当人がいないところで話してしまったこと、ごめんなさいって。でも僕としてはさ、いずれ絶対に知られることだし傍でそれをずっと見続けて来たし、何ならこの機会を逃したら一生伝わることないだろうなって考えてた最中だったから、良い口実が出来たなとも思っちゃった」
少し歩みの速度を落とし、隣に並んだディルクが口元を緩めてわたしを見る。
「ね、ミーナ様が気にすることじゃないよ。口を滑らしたのはファティだし、肯定したのはファティなんでしょ?それにカールも別に怒っている訳じゃないから」
「……うん」
曖昧な返事を聞くディルクはそのまま笑みを深めて、何かを思うように窓の外を一瞥してからまた口を開いた。
「ミーナ様。カールと話したあと、ミーナ様がどう思ったか教えてよ」
「どう?」
「うん。話せばわかると思うからさ」
そして何を示すかわからない言葉を残し、辿り着いたホール。
「もうカールが来る思うから行っておいで。僕はここで待ってるから」
階段を共に下り、蝋燭の霞む薄暗いホールの中に立ち止まったディルクの言葉に頷けば、それを聞いていたのかと思う程にタイミング良く玄関の扉が開く。
「カール……」
「少しなら良いって、ミーナのお爺様の執事から許可をもらってる」
遠慮がちに名前を呼んで、それをどう捉えたのか斜め上の答えを返してくれた彼に手を取られながら外へ出た。
「カール、その」
扉を潜り、玄関先の階段を通っても尚繋がれたままの手を追いながら歩幅の広い背に呼び止める。
「えっと……」
昔、こうやって手を引いていたのはわたしだった。身長は同じくらいで、だけどいつだって振り返ってカールの名前を呼んで手を引き、屋敷の中を連れ回していた。
そんな関係のないことが何故か不意に浮かんで、どう話をしたら良いのかがわからなくなる。
同じくらいだった背は、こうして見上げる程の身長差。繋がれる手は、わたしの手がすっぽりと収まるくらいにずっと大きいのだ。
「ミーナ」
「はい……!」
見慣れたはずの背。聞き慣れているはずの声。けれど知らない手のひらの大きさ。それが現すかつての距離感、縮まる今の距離感に思い耽っていれば、突然名前を呼ばれて裏返った声で返事をすることになった。
そんなわたしの声が面白かったのか、ふっと息交じりの笑い声を零したカールに段々と違う気恥ずかしさが沸き上がって来て、視線を逸らしては無言の文句を伝える。
「悪かったって。ほら、こっち」
喉を鳴らしながら全く悪いとは思っていないであろうカールにそのまま手を引かれて人気のない路を二人で進む。
緩やかに繋がれた手は解かれることはなくて、同じ体温を共有する心地よさを感じながら月明りの下をただ歩き続けていれば、先程見掛けた庭園に足を踏み入れていた。
「……あ」
庭園に辿り着いたと同時に離れて行った手。柔く握り込んでいた手を抜けて行く夜風に小さな声がを漏らしてもそれはカールには届いていなかったようで、視線がかち合うことはない。
安堵するような、寂しいような、相反する不思議な感情に首を傾げつつただその背を見つめる。
静かな夜。静かな庭園。
月明りだけが頼りになるような仄暗いこの場所に導いたカールは何も言わず、こちらを振り向くこともない。
「ミーナはさ」
かと言って自分から切り出すことも出来ずにいれば、振り返り向けれられた眼に息を呑む。
「……光なんだ、ずっと」
何処かで一度見聞きしたことのある見慣れない眼、声、言葉。
「昔、俺をあの場所から救い出してくれた頃から。ずっと大切な、光」
切なさとも、愛おしさとも受け取れるその眼で、普段よりもずっと優しい声音で、なのに何よりも壁を感じる言葉でカールは続ける。
「だから、守りたかっただけだよ。ミーナが安全な場所を見つけるまで」
それ以外に何もないのだと逸らされた瞳の先を追い掛ける。
真っ白い黄金の月、まんまるとわたし達を照らす月を見上げる横顔はただ優しい。
いつもの意地悪を言ってからかうカールでもなく、ディルクと気安く話をするカールでもなく、かといって見慣れた仕事に励むような横顔でもなくて。
本当にわたしの知らない、カール・シュゼットという人間の一面。
「……それなら、どうしてそんなに寂しそうなの?」
さらさらと夜風に揺れる茶色の髪が彼の目元を覆って、その問い掛けに対する答えを窺い知れない。
だけど何かを堪えるように握り締められたその手が、翡翠の眼に同じ感情を隠していることを表している気がした。
「寂しいさ、それは勿論。ずっと大切に想ってきた自分の……自分達のお姫様がいなくなるんだから」
緩やかに解かれた指先をわたしに向け、頬に触れるぎりぎりまで伸ばしたカールは呟いた。
互いに触れることはない距離を保ちながら、どれくらい経ったかわからない後に腕は行き先を彷徨うように地に垂れる。
「幸せになって欲しい。ミーナを蔑ろにするような人間の傍じゃなくて、困らせるようなこともなくて、ちゃんと支えてくれるような奴の傍に立って欲しい。悲しませることなんかない、毎日馬鹿みたいに笑ってた頃のお姫様でいさせてくれるような奴と添い遂げて欲しいと思ってるよ」
聞き慣れないトーンで紡がれる、わたしを思うだけの言葉。
自分が想像していたよりも遥かに深いカールの感情が痛い程に伝わるから、明確にすべき一線をあえて踏ん付けるために口を開く。
「幼馴染みと、して?」
変わらずに肌を滑る風、ひんやりしているはずなのに妙に汗ばむ手のひらを背に隠し、今度は隠されない眼を見つめ続けた。
「ああ。幼馴染みとして」
語る関係性には相応しくない、ずっと横から見ることしか出来なかった熱を帯びる瞳でカールはそう答える。
「好きだよ、ミーナ。子供の頃からずっと。でもそれは、恋心じゃない」
向けられて嬉しい、言葉にされれば嬉しいはずの好意。
だけど何一つとして嚙み合わない声と言葉がやけに冷たく伝わるのは、彼が堰を切ったように一つ一つの感情を吐露する訳には、この先でさようならが訪れるからだろうか。
「もう戻れよ。そんな薄着じゃ風邪引くぞ」
漠然と考える頭の片隅、強引に話を区切るカールが歩き出して部屋へ戻るよう誘導する。
「カール」
先程ディルクから言われた言葉を反芻しながら、ああこういうことかと納得したわたしは呼び掛けて、その背を引き留めた。
「なんだよ?」
呼び留めたくせに一向に話し始めないわたしを見下ろし、ただ待っていてくれるカールを見上げ翡翠の眼を覗き込む。
「……いつも、ありがとう。わたしの傍に、いてくれて」
本当はもっと、違うことが言いたかった。わたしも好きだよと、同じ言葉を返したかった。
だけど、同じ言葉であるはずなのに異なる意味を持ってしまうそれを簡単に口に出すことは出来なくて、そんな感謝を伝えることしか出来なかった。
「ああ。ほら、戻るぞ」
「うん」
なんだそんなことかと頬を緩めたカールに続き、放たれた言葉達の分離れた距離を保ちながらわたしも庭園を後にする。
「おかえりなさいませお嬢様、カール。ああもう、お嬢様ったらこんなに冷え切って……すぐに温かいものをお持ちしますから、ファティと一緒にお戻りくださいませ。カール、貴方もよ」
「ありがとうヒルマ」
「じゃあな」
「ええ、また明日」
屋敷の玄関へと戻ったわたし達を出迎えてくれたヒルマとファティ。
待っていると言ってくれていた、話の続きをしたいディルクの姿は見えないけれど、羽織を更に肩へと掛けてくれたヒルマには逆らえずに大人しく部屋へと戻ることにする。
「ファティ。ディルクを見なかった?」
「いえ、私達がホールへ行った際には既におりませんでしたよ」
最中、何処かへ行ってしまったディルクのことを尋ねてみたけれど居場所はわからず、ならば明日でも良いかと後回しにする。
それに現状、この纏まっていない頭で話をするよりは少し時間が欲しいのも事実で。
部屋に戻ってソファへ座り、ヒルマの淹れてくれたハーブティーで身体を温めつつ思い出すのは当然カールとのこと。
二人は何も聞かないし触れては来なかったけれど、わたしがそのことを考えているのは察してくれたようで早々に部屋を出て行ってくれたから、一人ソファの上で膝を抱えた。
「……幼馴染みとして、か」
何処よりも引っ掛かる言葉をなぞりそのときの顔を思い起こしその前後の知らない姿、そしてディルクの発言を併せればそれが嘘だなんてことわかる。わかってしまう。
いくらこれまで気付かなかった鈍感なわたしでも、ああも明らかな好意を向けられれば気付く。
だけどカールは、それを否定した。
「……わたしを、支えてくれるひと。困らせないひと。そんなひとと、幸せになって欲しい」
それはきっと、彼が定義したこの条件に自身が入らないから。自意識過剰だと笑われるだろうか。でもそう捉えても仕方ないくらいにカールは、わたしへの好意を隠さなかった。
「最後、だから?」
零して、何よりも確率が高そうな仮定に口を閉ざす。
これから先、帝国の侯爵家息女ミーナ・プリシュティーとして生きるわたしと、王国の国王補佐として生きるであろう彼等と道が交わることはきっとない。
答え合わせもないまま、カールはわたしの前からいなくなるのだろうか。
不意にそんなことを考えて頭を振る。
そうと決まった訳ではない。そもそもこの仮定が正しいのかさえもわからないのだから、考えても仕方がない。
「カールの話って、これのことだったのかしら」
でも、どんどんと深みに嵌っていく思考から抜け出すことは出来なくて、最期には昼に部屋を訪れたカールの話がこれに関係することなのではないかとさえ思う始末。
明日、一言聞けば良いだけである。
カールとディルクはどうするのかと、ただ一言そう尋ねれば良いだけなのに。
「想像してた、はずなのに」
二人とはいつか離れる。それはヒルマ達に話した通り想定してたことで、そうなると思って過ごしてきた。
だけどこうしてきちんと向き合って考えたら、ずっと見ないようにしていた感情が浮かび上がって来てしまう。
「寂しい、行かないで欲しいなんて……言えるはずもないのにね」
これが何であるのかすら、わからないのだから。
暫く、手に握るカップがぬるく体温と溶け合う。もうすっかり冷めてしまった中身を飲み干しベッドへと移動すれば、朝を迎えた。




