後悔と
「……すみません、もう大丈夫です」
ぐすりと音を立てる鼻をはしたなくも啜りながら、漸く止まった涙。
湿るハンカチを手に握り恐らく腫れているであろう目を見せないよう俯きながらそう告げれば、ダニエルさんがわたしに頷くのが見える。
「今、桶とタオルの類を用意しますので暫くこちらでお休みいただいてもよろしいでしょうか?」
「はい」
腫れた目、掠れた声。それを落ち着かせるために一度休憩が必要だと判断したダニエルさんはそう声を掛けてから足早に部屋を去って行った。
「……」
「……」
残されたヒルマとわたしは、互いに沈黙が満ちるまま部屋の中央に立ち尽くす。
聞きたいことはあるし、確かめたいこともあるのだけれど色々あって何一つ回らない頭では何も話を始めることが出来なくてただ静かな時間が流れる。
そんな、ヒルマとの間ではあまり感じたことのない居心地の悪い微妙な間を誤魔化すように視線を右往左往させていれば、不意にぱったりヒルマと視線がかち合った。
「……許してください、お嬢様」
「な、なにを?」
何か言わなければと、不自然に空いた間。それが逆に違和感でしかないというのに気が付かないままただヒルマを見つめていたら、彼女がふと視線を落としてそんなことを口にする。
彼女の言葉の理由に、何一つ見当が付かない。それなのにどうしてそんなことを口にしたのかとその続きを待てば、何処か申し訳なさそうなヒルマがそっと口を開く。
「……お嬢様の模様替えを、いつもお傍で見ていました。他のご令嬢方に比べてそれ程頻度は多くなくとも年に一、二回行われるそれを、いつも見ておりました」
「ええ。一応次期王妃として流行の最先端を取り入れたり流行を作ったりしなければならなかったから、そんなこともあったわね」
今となっては懐かしい、もう最後に行ったのも一年くらい前のことだったようなそれは義務と言っても差し支えない行事。
次期王妃としての威厳を保つため、王族の権威を見せつけるために行われる贅は他にいくつも存在したけれど、その中でも模様替えは比較的少ない頻度で行われていた。
しかし回数自体はそれ程多くないにせよ、その度にカーテンや絨毯、ときにはテーブルやタンス、ベッドが変わることもあったから結構大変な行事であった。
シーズン毎に毎回仕立てなければならないドレス達程ではないけれど。
「先程お嬢様が零された通り、お嬢様はいつもこういった落ち着かれた色合いをお好みになっておりましたでしょう。……皆から、どうしてこんな貴族令嬢らしからぬ色を好むのかと、聞かれても」
「……そう、そうね?もっと淡い色を選ぶのが普通の中で、わたしはいつも違うものを選んでいたからそれが理由で対立している派閥からは嫌味を言われたこともあったかしら」
懐かしい、もう関係のない過去。それらを一通り思い出して、漸くヒルマの本心を知る。
「あのとき、私がお嬢様が選ばれるものには理由があるのだとはっきり申していれば、ああいう下らないことだって減っていたでしょう。格式を重んじるだけの彼女達の前で、お嬢様が曖昧に微笑むことなく胸を張ることだって出来ただろうと」
負い目を感じているヒルマは視線を下に向けたまま、訥々と続けていく。
「あの場に居合わせていたのに、お嬢様が本当は昔のことを知りたがっていることをわかっていたのに。何も出来なかった私を、お許しください」
そうして言葉を切ったヒルマと、視線を交わす。
「……そもそも、そんなことわたし、気にしてないわ」
お嬢様、と震える唇を見つめながら、わたしはもう一度首を振った。
「だってヒルマは、悪くないもの。あのときあの場所でみんなはわたしのために昔のことを敢えて黙っていてくれたのでしょう?それが理由で何か煩雑なことがあったって、みんながわたしのことを思ってくれていた結果だもの」
微妙に距離の空いているヒルマの傍に寄り、今度はわたしがその固く閉じられている手を握る。何かに不安を持っているとき、緊張しているとき、こうして手を取ってくれるのはいつもヒルマだから、それに倣って今度はわたしが真似をする。
伝わって欲しい。
ヒルマが、ヒルマ達がいつも傍にいてくれたからわたしはあの場所で過ごすことが出来ていたし、そんな些細なことは本当に気にしていないということを。
「もう、関係のないことよ。あんなことなんかより、ヒルマが傍にいてくれていたことの方がずっと大切だもの」
そう告げれば彼女はぎゅっと目を瞑り、俯いて黙り込んでしまう。
「……ありがとうございます、お嬢様」
まだ、言葉が足りないだろうかと思い言葉を重ねるために口を開き掛けると同時に、ヒルマが顔を上げる。
「これからもずっと、お傍におります。……そして今度こそ、お嬢様にあんな眼を向けさせませんから」
何かを決意したような目と揺るぎない声。何が彼女をそうさせたのかはわからないけれど、これからも可能な限り傍にいてくれるというのはとても嬉しいから、わたしも頷いて応えた。
「お待たせ致しましたミーナお嬢様」
会話に区切りが付いたタイミングで、閉まり掛けの扉が開いて桶を抱えたダニエルさんが戻ってくる。
「あ、ダニエルさん。場所を移した方が良いのではないですか?」
桶をソファの近いテーブルに置き、そちらへ来るようにと手招きをされてはとと気付く。ここはお爺様にとって大切なお部屋だろうから、わたしがずっといるのは良くないのではないかと。
「問題ありませんよミーナお嬢様。貴女様がよろしければ、ではありますが、旦那様からこちらのお部屋を使っていただきたいと言付けを受けておりますから」
「……よろしいの、ですか?」
「はい」
わたしが問い掛けた疑問に、ダニエルさんは嫌な顔一つせずにそう教えてくれる。頭の中で今告げられた言葉を充分に噛み砕いて、思考し、呑み込んだ結果、もう一度尋ねるという行動を起こしても尚、答えは変わらない。
「旦那様だけではなく、こちらのお部屋を使用していた奥様も、お嬢様も、ミーナお嬢様に使っていただけるのは本望でしょうから」
「……はい」
何処までも優しく肯定してくれるダニエルさんの言葉に辛うじて言葉を絞り出してから、ソファに座る。
部屋主がいなくなっても綺麗に保たれている調度は、ダニエルさん達がどれ程この部屋を大切にしているかが窺えて、わたしはそれらを汚さないようにそっとダニエルさんの絞ってくれたタオルを目元へ乗せた。
「そんなにお気を遣わなくて大丈夫ですよ。家具は使い続ければ当然傷みますし、そうなれば補修をしてまた使えば良いだけなのですから。ほら、背凭れに頭を預けてくださいな……駄目ですね。ヒルマ、頼みます」
「はい」
首を上に向けてタオルがずり落ちないようにしているわたしを恐らく苦笑しつつ見ているであろうダニエルさんは、もっと気楽にして良いと仰る。
けれどそんな簡単に切り替えなんて出来ないわたしがそのまま上を向き続けていると、慣れた手付きに強制的に背凭れの方へと頭を移動された。
「大丈夫ですよ、お嬢様。そのままにされてください」
頭を支えてくれる適度な弾力と二人の声に甘え、わたしはそのまま背凭れに寄り掛かる。
政務で忙しくて、纏まった休憩を取ることさえも出来なかった頃はこうしてヒルマに湯とタオルを用意してもらっては数分休んでいたこともあったけ、と過去を振り返る。
振り返ったところで別に何がどうということでもないけれど、本当にわたしはあの場所から離れて違う国にいるのだと、今改めて実感した。
「腫れには温めてから冷やすのが良いと聞きましたので、冷水も用意させました。交換して……」
「うん……」
ぼうっと考え事をしながら、あたたかい温もりに目を瞑っているのは眠くなる。ダニエルさんとヒルマが何か言っているのはわかるから返事だけしてみれば、二人はそのまま何かを言うでもない。
何だろう、と浅くなる思考と重たくなる身体は次第に意識を手放して行って、わたしは二人の声を聞きながら眠りへと落ちた。
「……眠ってしまわれましたね」
「ミーナお嬢様にとって、色々なことがあったでしょうから。リネンの用意が終わったら寝台の方へ移動をお願いしますね、ヒルマ」
「ええ」
すう、と静かな寝息の聞こえるソファからゆったりと立ち上がり、リネンの手配をしに行ったダニエルを見送ってからすぐにお嬢様を休められるよう、天蓋の付いたベッドに近付き手早くメイキングが出来るように準備を進める。
程なくしてダニエルからシーツの類を受け取り、久々のベッドメイキングをダニエルに監視されながら行い、お小言を一つ二つ言われたところで支度が整った。
「少し腕が落ちているのではないですか?もう一度ミーナお嬢様の侍女として仕えるのならば、再教育が必要ですね」
眠るお嬢様を軽々と抱え、ベッドへと横たえたダニエルのお小言に否定出来ない自分を恨めしく思いながら二人で部屋から出る。
「さて、私は一度執務へと戻りますが貴女はミーナお嬢様のお傍にいた方が良いでしょう。何か進展があれば報告に来ますので」
「ええ、お願いします」
後ろ手で扉を閉め、お嬢様が起きないように小声で交わされる会話。
「……貴女に、損な役割をさせてしまうかもしれません」
「そうならないことを祈っています。変わっていることを」
俯きがちに目を伏せるダニエルの真意を知りながら、私はそう答える。
正直な話、お嬢様の手紙が旦那様に届いていないということを把握した段階でそれが誰の仕業なのか見当が付いていた。
けれどあれから、これだけの時間が経っているということも踏まえればそうではないことも考えられるから、私は首を振ってダニエルの言葉を否定する。
「どちらにせよ、私はもうお嬢様のお傍から離れませんし、明日中には結末がわかるのですから、今話していても仕方がないでしょう」
「……ええ」
珍しく歯切れの悪いダニエルをそれ以上見ないように、私はお嬢様の元へと戻った。
寧ろ、お嬢様の前であれだけ普通に振舞えていたのが不思議な程なのだから。




