港町から
「おはようございます、お嬢様」
「………おはよう、ヒルマ」
寝起きのぼんやりとした頭で考える。
昨日、テーブルでヒルマがリライスの街で受け取り、保管してくれていた手紙の類いを読んでいたのまでは覚えている。が、しかし、その先の記憶はない。
そして、開かれたカーテンから差し込む朝の日差し。
「ごめんなさい、運ばせてしまったわね」
「大丈夫ですよ」
ふふ、と笑って許してくれ、そしてそのままわたしに今日着る分の衣服を差し出してくる辺り、彼女の癖は抜けきっていないようだ。
「ありがとう。でも、自分でやるわよ?」
「…………そうでしたね」
受け取り、礼を言って。最後にそう伝えれば、ヒルマはそっと目を伏せて、静かに肯定した。
「折角ヒルマから身の清め方を教えてもらおうと思ったのに」
少し間を置いて、空気を一転させるように、わたしは昨日しそびれたことに溜息を吐く。そろそろ流石に身体を拭いたかった。
またしばらく身体を拭う機会がないのだと思うと、憂鬱になる。
しかしそんなわたしに向かってヒルマが口を開く。
「あ、もうそろそろ湯が届く頃だと思いますよ。先日、湯を持ってきてもらった際に頼んでおきました」
「あ、ありがとう」
そして事も無げに、わたしの憂鬱を解消する術を教えてくれるのだ。
夜だけではなく、朝でも湯を支度してくれる。
そんな些細なことさえ知らないわたしがベッドから抜け出し、読み途中であった手紙に手を伸ばした時。部屋にノック音が響く。
「どうぞ」
「失礼します。湯、足りますかね?」
屈強な男性がヒルマの応対を聞いてから入室し、わたし一人では抱えられないくらいの湯桶を置きながらそう問う。
「大丈夫。ありがとう」
「何かあればお呼びくださいね」
「ええ」
そんな世間話を後に、男性は頭を下げて出ていった。
「さて、先にお身体を清めましょう」
男性が階段を下りる音を聞き終えたヒルマが湯桶の傍に立ってわたしを呼び、タオルやら香油やら、謎の瓶やらを用意していく。
「これは?」
王城を出た時からずっと着ていた服を脱ぎ、肌着姿のままヒルマと並ぶ。タオルと、見慣れた香油の瓶は分かる。けれど、その近くにある謎の瓶の正体は分からない。
「当ててみます?」
きゅぽん、と可愛らしい音を立ててコルクを抜く。そして容器を傾ければ、ヒルマの手のひらに出されたのは黒と白と灰色をした細かい粒がさらりと流れる。
「……塩?」
真っ白なものしか見たことはないものの、それは食堂のテーブルに並べられていた塩に良く似ている。わたしがそう自信なさげに答えれば、頷くヒルマ。
「そう、塩です」
「これを湯桶に入れるの?」
「はい。頭皮を浸す時に、ですけれど」
胡椒、砂糖、蜂蜜などは未だ王候貴族以外には回らないと聞く。塩はそれらに比べれば比較的手に入れ易いものの、それでもこうやって湯桶に入れることはないだろう。
「塩と、香油。これらを混ぜた湯に頭を浸すと、においが気にならなくなるんですよ」
「なるほどね」
再び軽くコルクを詰め、塩の瓶を床に置く。話しながらでも手は止まらず、淡々と支度は進められて行く。
「さ、お嬢様。肌着は脱いで、このタオルをお持ちになって」
柔らかく、ふかふかなタオル。王城で使っていた物に良く似ている気がするけれど、気にしないことにするわたし。
「まずはタオルを湯に浸して。少し水気が残る程度にまで絞ってください」
「絞る?」
「こう、して、から、こう、で、こんな感じです」
そう言ってヒルマがぎゅーっと絞れば、綺麗に滴り落ちる湯。もう一度湯に浸し、わたしも同じようにしてみるものの、全く絞れない。
「……?」
握る。手前と奥に捻る。ぽたぽた湯が垂れる。
「…………今回は、私がやりますね」
数回同じことをしてみたけれど、全く絞れていないことに痺れを切らしたヒルマが手早く濡れタオルを作ってくれた。
「あとはそのタオルで体を拭えば大丈夫かと」
「ええ」
身に付けていた肌着を脱いで、タオルが冷めないうちに身体を拭う。傍らでヒルマがそわそわしているけるど、なんとか一人で身体を拭う。
「先に衣服を着てしまうと濡れてしまいますから、肌着だけ身に付けてくださいな」
再び差し出された新しい肌着をもう無言で受け取って身に付ける。これだけでも大分、すっきりした心境だ。
「次は髪、ね?」
道中ヒルマが櫛を入れてくれてはいたものの、一週間程放置された髪は流石に公爵令嬢暮らしをしていた時の美しさはない。
自慢だった銀髪も、ぱさぱさする。
「香油と塩の量は適当です。あ、でも、先に湯桶の中に塩だけ入れて、頭皮をマッサージしてから香油を足して毛先を梳くと良いですよ」
肌着を身に付け、次の段階へ進もうという時。ヒルマがそんな助言をくれたので、わたしはそれを心にとりあえず塩の瓶を手にする。
「塩……適当…………」
一気に出ないよう瓶の傾きに注意しつつ、塩を足す。
「混ぜる」
きちんと瓶に栓をしてから湯桶に手を入れて掻き回し、これで正しいのか確認する為にヒルマを見る。
「大丈夫です。そしたら湯桶に頭を近付けて、頭皮にお湯を掛けつつ、マッサージしてあげてください」
膝を地面に着き、前のめりになりながら頭皮へ湯を掛けていく。王城暮らしをしていた時は浴場の縁に頭を乗せていればよかったけれど、こうやって一人で洗わなければならない現状の今、あの作業が中々の重労働であることを知った。
「…………つかれたわね」
手に入れた物。艶々の髪とすっきりした心と多大な疲労。
失った物。今日のやる気。
「お疲れ様でした」
なんて内心ふざけていると、ヒルマが労ってくれる。
「結局ヒルマに頼ってしまうことになったわ」
ベッドに腰掛けるわたしの後ろに座り、わたしの代わりに髪の水分をタオルに吸わせているヒルマを感じつつ、呟く。
「少しずつ出来るようになりますよ」
「ええ…………そうね」
少し声が暗くなったのは、その言葉を素直に受け入れられなかったのは、きっとこれまでの自分を全て、否定されたからだ。
出来ないことが多すぎる。今まで自分が積み上げて来たモノは全て、あの箱庭でしか価値がない。
そんなことに気が付いていながらも、実際ヒルマに手伝ってもらわないと自分の身支度すら出来ないという現実が、妙に重かったのだ。
当たり前のこと。出来なくて当然のこと。だって、公爵令嬢であった時には、必要ないものなのだから。
「ヒルマ。髪、自分でやってみるわ」
だからまずは、目の前にある課題をこなそう。
「やっぱりお昼は夜よりも人が多いわね」
「はぐれないように注意してくださいね」
午前の時間を身支度に費やした結果、ハシュートを観光するのは日の高い午後からになった。
日に焼けないように大きなツバの帽子を被ってから比較的大通りに面していた宿屋から一歩出れば、そこは昨日の夜とは違った柔らかい活気に溢れている。
港町故に旅人だろう格好の人が入り乱れ、そんな彼らの気を引く出店の掛け声。甘い香りと香ばしい香りが強制的に鼻を擽って、空いたお腹を刺激する。
「港の方に行けば揚げたての魚が見れますし、昔聖女が広めたとされる刺身、というものも出ているかと」
「刺身って、調理していない魚のことよね?」
「はい。海街でしか食すことの出来ないものですし、食べてみませんか?」
人通りの多い場所で立ち止まっていては邪魔になるので、人波に合わせ歩き、これからを予定する。その結果、お刺身というものを食べてみることに。
「どんな感じなのかしら?」
「うーん……白くて、少し歯応えがあって、お刺身に付けるタレがまたなんというか、甘くてしょっぱい不思議な感じです。最初食べた時はなんじゃこりゃっていう気持ちにはなりましたが、食べ慣れると美味しいですよ。ただ、どうしてもあの魚の匂いが駄目って方は、苦手みたいですね」
人の波に流されるがままに歩き、港を目指す。
緩く雑談をしながらそうしていると嗅ぎ慣れない、けれど嗅ぎ覚えのある匂いが鼻につく。
「ああ、潮の匂いですね。崖の上で嗅いだときよりも強いですが、大丈夫ですか?」
「ん………ええ、問題ないわ」
「まもなく港に入りますよ」
ずっと下り坂だった大通りを抜ければ、そこにはヒルマの言った通り、港がある。
「どちらかといえばここからが港町ハシュート、ですかね。上の街は港町が観光地になると踏んだ領主が開拓して、整備した土地なんです。あそこもハシュートではあるのですが、私がミーナ様に見せたかったハシュートはここなんです」
「じゃあ崖から見ていたハシュートはここなのね?」
「はい」
「そっかあ」
やっとここまで来たんだ、という思いが胸を占める。まだまだこれからではあるのだけれども、一番最初に見た海の景色にいることがとても、嬉しい。
「さ、お刺身を食べに行きましょう」
「ええ!」
とても美味しかった。何種類かのお刺身と、付け合わせのタレ………魚醤と。お腹一杯になるまで頬張って、物知りなヒルマから色んな話を聞いて、とても楽しく過ごせた。
そんな気分で、宿屋に戻る予定だった。
「う………」
ヒルマとはぐれて、知らない道に入り込むまでは。
入り込んだその道で、一人の傷だらけの少年を、見つけるまでは。