港街へ
「…………これが海?」
眼前に広がった透き通る青。
底に並ぶ岩、海藻、魚でさえ目視出来る程に澄みきった青。
「はい。左手に見えるのが港街ハシュート、私達がこれから向かう所です」
海を眺めるのなら最高の場所がある、とヒルマに連れてこられた崖の上。
前回滞在していたリライスの街から馬車で一日。崖の近くで馬車を待機させ、草むらを掻き分け進むこと数時間余り。
崖の先端を陣取って眺める昼時の海は太陽をキラキラ反射して眩しく、それでいて、美しかった。
「冒険者時代にたまたま見つけた所ですが、お嬢様にも見せることが出来てとても嬉しいです」
ヒルマが笑う。幼い頃に良く見せてくれた、とても綺麗な笑顔。
「ありがとう、ヒルマ」
「いいえ」
そこで暫しの時間を潰す。何かを語らう訳でもないけれど、波の音と虫の声。それらで満たされたこの空間は、とても居心地の良いものだった。
「さ、そろそろ行きましょうか」
どれほど時間を潰したのか。ヒルマが立ち上がり、わたしに手を差し伸べてくれる。
その手を借りてわたしも立ち上がれば、ぱたぱたと服を叩いて汚れを払うヒルマ。
「うん、大丈夫です。参りましょう」
一通り整え終えたらしいヒルマがそう言い、歩いてきた道を戻る。
馬車に着く頃にはすっかり日が落ちて辺りが暗くなったけれど、ヒルマの案内のお陰でなんとかわたしも馬車へ戻れた。
「つかれた~」
馬車へ乗り込むなりわたしはくたりと座席に横になる。公爵令嬢であった時はヒルマから叱責が飛ぶだろうけど、ただのミーナである今はわたしを責めることはない。
ただ、何か言いたげにこちらを見はするけれど。
「ミーナ様……」
「いいじゃない。少しだけ、ね?」
だから対面に座っていたヒルマの元へ移動し、彼女の膝に頭を乗せる。物心付くか付かないかの時にしてもらった膝枕を今するのは少し気後れするものの、滅多にない機会と思って甘えることにした。
「本当は……」
目を閉じて、がたごと出発し始めた馬車の振動に耳を澄ませながら、何かを伝えようとした言葉を切った。
「なんですか、ミーナ様」
「ううん、なんでもないや」
わたしがいつまで経っても何も言わないから、ヒルマは痺れを切らしてわたしを催促する。そんなヒルマへ軽く首を振れば、小さな溜め息が上から降ってきた。
「ハシュートへはまだ二日程掛かります。今のうちにお休みになられては?」
「うん」
寝心地が良いとは言えないものの、少しはこの馬車にも慣れてきた。だからわたしはヒルマの言う通り意識を弛緩させて、眠りにつく。
「おやすみなさい、お嬢様」
耳に溶ける優しい声を遠くで聞く。そして、わたしの意識は途絶える。
そして二日後。途中休憩を何回か挟んだものの、おおよそ予定通りに港街ハシュートへ足を踏み入れた。
「夕方ですからねえ……これから何かをするには微妙な時間ですね」
ここまで運んでくれた御者へチップを渡して別れた後。そろそろ日も暮れ、夜に突入するという曖昧な間では、何をするにも中途半端だとヒルマは言う。
「ああ、でも……」
ふと足を止めたヒルマ。何かを思い出したように手を顎に添え、わたしを見る。
「私が昔この街に滞在してた頃は、これくらいの時間から夜市をやっていたんですよ」
と、方角を指差す。
「屋台がいくつも出ている通りがありましてね。その中で食べ歩きをしたり、呑んだくれたり、と、結構楽しい所でしたが、今もあるんでしょうか」
そんなことを思い出したら気になったのか、近くを通った人を捕まえ、今も夜市があるのかを尋ねている。
「ああ、大分規模は小さくなったがね、今もあるよ。この通りをずっと進んで行けば右手に屋台が見える」
「そうでしたか、ありがとうございます」
通りすがりの老人から情報を得たヒルマがわたしへ振り返り、夜市へ向かうかどうかを聞いてくれたので、わたしはこくこくと首を振って肯定した。
「人が多いので、気を付けてくださいね」
こんな人の中を歩いたことがないわたしを気遣って時折振り返り、わたしが着いて来ていることを確認しながらヒルマは進んでいく。
そうして歩いて数十分程か。
完全に日が落ち、それでも明るさを保つ夜市に、着いた。
「そうですね………少し、規模が縮小しましたね」
「え………これで?」
所狭しと並ぶ屋台。ごった返す人々。視界に映る端までその景色だというのに。
「はい。もっと、凄かったですよ」
呆気に取られるわたしを微笑みながら見て、行き交う人々と接触しないように歩き出す。
「どれも見たことないものばかりだわ」
一つの屋台の前で眺めていては邪魔になってしまうから、とりあえずヒルマのおすすめを食べてみることにした。
一通り買って、手に持ちきれなくなってからそれらを食す為にメインストリートから少し外れた開けた場所に移動することに。
「あ、あそこの広場にベンチがありますね」
「本当ね」
メインストリートの一本裏の道に存在した開けた場所。メインストリート程ではないけれど比較的人通りも多く、建物の隙間からは人並みが伺える程度の裏道の広場。
「冷めてしまう前に食べてしまいましょうね」
腰掛けるベンチにハンカチを広げていたヒルマがそう言えば、わたしも同調してベンチに座る。
「お肉」
そして座ったわたしへヒルマが最初に取り出してくれたのは、串に刺さったお肉。
「そのまま齧ります。こんな感じですね」
どうやって食べようか悩んでいると、ヒルマが目の前で実践してくれる。
「あむっと、そうです。そのまま串から引き抜いて」
見よう見まねでやって見るものの、中々お肉がするりと抜けなくて苦労した。食べ終わる頃には、出来るようになったけれども。
「羊のお肉ですね。臭みも少ない、比較的良いものです」
「ええ、美味しかったわ」
とっくに食べ終えたヒルマがわたしの串を回収し、木の皿に戻す。
「魚も串です。頭と尻尾以外食べられますから」
そして次にまるまると肥えた魚。皮がぷつりと破れ、焼き目の跡がくっきり残っている。
「さっきより食べにくいわ……」
くるりくるりと串を回転する魚と格闘しながらも食べ進める。その間、ヒルマは買い込んだ屋台の料理全て食べ終えてしまった。
「美味しかったわね」
結局、わたしが食べ終わるには結構な時間が掛かった。後半に食べた料理はほとんど冷めてしまっていて、惜しいことをしたと思いながら食した。
「慣れますよ」
食事のスピードが遅いことに申し訳ないと思っていたら、ヒルマが慰めるようにそんなことを言う。
「そう………よね」
けれど思えば、今までして来た食べ方より、これから覚える食べ方の方がずっと長くなる。だからそれは慰めではなく、事実なのだと実感
。
「ねえ、ヒルマ。このお皿はどうするの?」
ふとヒルマの方を見ると、傍らには屋台で受け取ったお皿が積み上がっていた。
「ああ、これはですね。通りを出るときに戻せば大丈夫です」
曰く、大中小あるこの木のお皿は全お店共通らしく、この通りを出る際に通りの出入口にある箱の中に戻しておけばいいのだそう。
人波に巻き込まれないようにだけ気を付けていたわたしは、そんな所まで見れていなかった。
本当に、ヒルマがいてくれて良かったと改めて感謝する。
「さ、お嬢様。メインストリートに戻って宿を取りましょう」
辺りをさっと片したヒルマに促されわたしも立ち上がり、ヒルマの後に続く。
「馬車よりはマシな程度の宿にはなってしまいますが……」
「構わないわ。まだ、行き先も決まっていないものね」
夕方より更に活気溢れる夜市を抜け、抱えていた木皿を出入口にある箱に戻したヒルマ。
これから宿探しを始めるけれど、その為には基準となるラインを決めなければならない
「お嬢様のお給金のお陰で大分余裕はありますが、それでも節約するに越したことはありません」
「そうね。わたし的には、そろそろ湯船に浸かりたいけれど……」
王城にいた時の暮らしが出来るなど思っていない。だからせめて、湯浴み出来る宿が良いとヒルマに告げると、ヒルマはすっごく申し訳なさそうな顔をした。
「…………お嬢様。湯浴み出来るスペースが存在する宿は、最高級の宿です。普通、旅人が使える宿屋は盥一杯のお湯を出してくれれば良いくらいです」
「えっ…………」
そんなヒルマの言葉にわたしは少なくないショックを受ける。ああ、でも、よくよく考えずともそれはそうである。湯船に湯を溜めるのは重労働だし、それに付随する排水の処理だって手間が掛かる。
貴族街でもないこの街でそんな贅沢なことをするのなら、その分部屋を多めに作って回転率を上げる方がよっぽど効率的だろう。
「仕方ないわね……」
こればっかりは文句を言っても仕方がない。確かに、わたしが読んでいた冒険譚にゆったりとした湯浴みのシーンなんてなかった。川で行水してた。それが湯であるだけ、贅沢だと思おう。
「となると、まず夜の部門で受付している宿。そして食事が付いているかいないかで決めていいと思います」
「時間で泊まる時間が区切られているの?」
「はい。大抵は夕方から翌朝までの部門と夜から翌昼まで、と別れていることが多いですね。前金を払えばどの時間帯から入っても大丈夫、という宿もあります。大概は、看板に書かれていますが………」
と、大分人の捌けた通りに並ぶ宿を眺め、たとえば、と、ヒルマが一つの看板を指差す。
「看板にその宿が売りにしているものが書いてあります。あそこの宿なら宿泊費が安いことを売りにしていて、あちらの宿は食事が美味しいことを売りにしていますね。そしてその下に、先程申し上げた部門が書いあって………ああ、あちらの食事を売りにしている宿はどの時間からでも入れると。こんな風に、宿を探すんですよ」
「な、なるほどね………」
貴族であった頃は知る必要すらない知識。いかに集客するかを考えているその工夫に頭が下がる。
「今日はあちらの食事の美味しさを売りにしている宿に宿泊しようと思いますが、よろしいですか?」
「勿論。今はヒルマに任せるわ」
いずれは自分で出来るようになりたいことだけれど、今はヒルマにお手本を見せてもらうことにする。
前回滞在したリライスではミゼルバー王国から離れるのが先で、宿に泊まることはなかった。今回が、初の宿屋である。
「こんばんは。大人二人なんだけど、部屋は空いてる?」
からん、と鳴ったドアベルに反応した従業員が近付いてくるなりヒルマは用件を伝えた。
「一部屋でしたらご案内出来ますよ」
「そう、じゃあお願い」
砕けた口調で話すヒルマを見るのは初めてで、わたしは呆気に取られる。
「お食事のご用意、お湯のご用意は、気軽にお声掛けてください」
「それなら後で湯をお願いするわ」
「かしこまりました」
そんな間でもヒルマは会話を進めていた。そして部屋の鍵を受け取って、わたしを呼ぶ。
「二階ですね、上がりましょうか」
「ええ」
すれ違う従業員に軽く頭を下げヒルマを追う。
「それなりな値段なだけあって、悪くはないですね」
こつこつと階段を上り、廊下の突き当たりの部屋に付いてからヒルマは感想を溢した。
「そうなの?」
「はい。お嬢様もそのうち基準が身に付きますよ」
部屋をぐるりと見回し一人頷くヒルマ。
「…………全てにおいて、価値観が違いますからね」
そしてぽつりとそう言った。
「ヒルマ?」
「さ、お嬢様。まずは身体を清めましょう」
わたしが問い掛けようとする前に、その言葉は隠された。てきぱき動き出したヒルマに問い質すのは不可能だと判断したわたしは、彼女の後ろを付き纏う。
「………………座っていても構いませんよ?」
恐らくわたし達の身体を拭うであろう布をバッグから取り出すヒルマが、堪えきれないとばかり遂に口に出した。
「ええ、嫌よ。今のわたしはただのミーナよ?全てをヒルマに押し付けるだなんて出来ないわ」
建前はそれ。本心は、単純に今まで自分がしてこなかった作業に興味があるだけ。
勿論、そんなわたしの考えは見透かされていて、諦めたように溜め息が返ってきた。
「そうですね………身体くらいは、自分で拭えた方が良いですしね」
もう一度溜め息を吐いたヒルマ。そして手に持っていた布をわたしに持たせ、ごそごそバッグを探る。
「使うものは清潔な布。これにお湯を含ませて、身体を拭きます。身体を拭き終えたら残りのお湯に少しこの香油を垂らして、髪を洗います。それに関しては、お湯が届いてからまた説明しますね」
布と香油を取り出し床に並べ、説明してくれる。
「ありがとう、頑張ってみるわ」
まだお湯は届いていないものの、わたしは意気込む。
それから暫く時間が経ち、お湯が届いた頃。
張り切って待っていたわたしの意思とは裏腹にやって来た眠気に負け、気が付けば朝だった。という事実が待っていることを知ったのは、勿論翌朝になってからのことである。