船旅と偶発
昼前に宿を出発したのに、戻ってきたのは夕暮れ頃。帰路に就いている最中にどれ程採集に夢中になっていたのだと三人で顔を合わせながら、宿へと戻った。
「おかえりなさい」
宿泊客が食事を取る一階の酒屋兼ロビー。
そこでわたし達を待っていてくれたファティと挨拶代わりの軽い抱擁を交わして、ヒルマは山菜を宿屋に分けるから厨房を貸して欲しいと頼みに行った。
「カールー。おかえりー」
「くっ付くな」
ヒルマとファティ、わたしと同じように出迎えの抱擁……もとい、ディルクからしたらただのからかいの一環であるそれでいつも通り茶番を繰り広げる二人を横目で眺めつつ、昨夜取り入れたばかりのそれを振り返る。
レステルは、港街である。つまり、漁業がとても盛ん。ハシュートもそうであったが漁業で生活をしている市民も多く、大黒柱が漁師であるということは言うまでもない。しかし、漁業という職業柄、いつだって命の危険が付き纏う。今朝方いつものように海に出ていった夫が数日立っても戻らず、行方の知れなくなることも残酷ながらありふれたこと。
故に、家から出る際。この街の人間は、別れの挨拶とも言える抱擁を交わすらしい。そして、無事に戻ってきたのならまた穏やかに過ごせたことに感謝して抱擁で出迎える。
ということを宿屋の女将と大将をしていて、当然気になったわたし達が二人に聞いた結果、そういうことだった。
国が変われば習慣も変わるというが、人との接触は最低限、みたいな場所で育ったわたしからすればそれはとても新鮮なことで、すごく興味を惹かれた。そして純粋に、素敵なことだと思った。
そんなわたしを察してか、とりあえずわたし達の仲を深めるために試用程度で取り入れてみようと提案してくれたのがヒルマとファティ。試用、なので、一応同性とだけというルールを設けて。
「お嬢様、そちらは?」
「あ、これは貴女に」
とうとう怒ったカールがディルクの頭を叩き、流石にそろそろかと引き際を察したディルクを見届けてから、ファティがわたしの持つ籠に目を向けた。
山菜採りの際、ついでにと沢山採集した薬草は、ヒルマが効能ごとに分けてくれている。なので、ただ籠を渡すだけという役目を預かったわたしは、彼女に籠を差し出す。
「まあ、こんなに。ありがとうございます」
一枚一枚手に取り、何にするのかを考えているであろうファティを見つめる。ハシュートでわたしを探しに来てくれた際、足を挫かせてしまったヒルマが後遺症もなく綺麗に短期間で治っているのは他ならぬ薬師の心得があるファティのおかげ。
わたしが見てもただの葉っぱにしか見えないそれらも、心得のあるファティならば薬が詰まっているようなものなのだろう。
「早速薬にしてしまいましょう。船旅に加工をしていないものを持ち込むと、良からぬことが起こりがちですからね」
ふんふん、と鼻歌が聞こえる程ではないけれど、上機嫌に見えるファティは籠を抱えて寝泊まりしている部屋へと移動して行った。
「彼女は、元々薬師を目指していたのですよ」
「ファティが?」
「ええ。……少々訳あって、イリーナ様へ仕えることとなって以降は趣味程度に嗜んでいるくらいですけれどね」
後ろでわたし達を見守り、様子の異なるファティに首を傾げていたわたしへそう補足してくれたのは彼女を一番良く知るであろうベルホルト。
わたしの生まれる前、ファティ達が帝国で過ごしたという学生の時代に何があったのかはわからない。けれど、ベルホルトの口振りからしてそう良いことではないのだろうと考え、わたしはそれ以上を掘り下げなかった。
「出来上がりましたよ」
ベルホルトと会話を終え、夕食までの空いた時間をカール達に混じることで過ごしていた時。既にわたし達の分として分けてあるのか、それ程大きくはない鍋を持ったヒルマがテーブルに鍋を置いた。
「調味料と設備を兼ね合った結果、全て山菜のスープになりました」
「ありがとう。美味しそうね」
よそって皿に注がれるスープに浮かぶ山菜達と細切れになって散らばる肉。いつもの食事が山菜が入ることによって具沢山になっており、一杯で満腹になったわたしは追加をよそおうとしてくれているヒルマにもう大丈夫と告げて、手の空いたわたしはヒルマとスープ掬い係を代わることにした。
「あっはは、ミーナ様へたくそー」
「お嬢様、やはり私が……」
「大丈夫……大丈夫よ」
しかし、慣れていないことにはトラブルが付き物。
おかわりを要求したディルクの皿を受け取り、ヒルマと同じようにスープを掬って注ぐだけの簡単な行為なのに、何故か自分の手にスープを掛けるという謎の行動を踏んでディルクへ皿を返せば彼はおかしそうに笑っていた。
心配してくれるヒルマ達に妙な気恥ずかしさを感じるわたしはそっと視線を床に向け、無言でおかわりを掬い続ける。もう、自分の手に掛けないよう細心の注意を払いながら。
「あ、わたしも片すわよ」
「あら……では、こちらを持っていっていただけますか?」
「ええ、わかったわ」
からりと空いた鍋。満腹になったら散っていったカールとディルクを後目に、片付けを申し出る。積み重ねられたお皿を受け取り、鍋を運ぶヒルマの後に着いて厨房へと踏み入れた。
「鍋、ありがとう」
「いいってことよ。こっちも美味いスープ貰ったしよ」
「口に合ったのなら何より」
「ああ、ここらじゃ見ない味付けだが、この辺人間じゃあないのか?」
「ええ、まあ、東の方から」
忙しなく調理をしていた大将がヒルマへ振り向き、鍋を受け取りつつ軽い世間話をしている。
「お嬢さん、お皿をこっちにくれるかい?」
「あ、ごめんなさい」
何度見ても敬語でないヒルマを見るのは不思議な気分で、じっと見つめていれば優しく女将に肩を叩かれ、流し台へと誘導された。
「うん、後は大丈夫だよ。ありがとうね」
「いえ、こちらこそありがとう」
お皿を水に付け、手早く洗い物を済ませた女将に見送られて、用を済ませたわたし達は部屋へと戻る。
「お嬢様、明日は何をしましょうか」
軽く身支度を整え、動きやすい服に着替えてベッドに寝転がるわたしをヒルマが見下ろす。何かし忘れたことがないかと思考を巡らせれば、一つ思い付いたことがあった。
「パン」
「パン?」
以前、公務でここに訪れたことのあるカールから、美味しいパン屋があると聞いた。王城で出るような白パン程ではないとはいえ、食べやすく味付けされたソースと具、それなりに柔らかい生地に包まれるそれらは値段の割には美味しく、市井でそれが食べられるのは欲がないと言わせた程の、パン。
「それなら、明日カールに聞いてみましょうか」
「ええ、そうしましょう」
明日の楽しみが一つ増えた。最近はスープに付けないと食べられないパンばかり食べていたから、そのまま食べられるパンというのはかなり楽しみである。
「おやすみなさい、ヒルマ」
「ええ。おやすみなさい、お嬢様」
ベッドサイドで幼子を寝かし付けるように頭を撫でてくれたヒルマに笑みを向けて、わたしは眠りに付いた。
が、ぱちりと目の覚めた深夜。喉が渇き、サイドテーブルに置いてある水差しからコップに水を注いで喉を潤す。
こくりと呑み込んだ水によって冴える視界を意味もなく広げれば、横で眠るはずのヒルマがいないことに気が付いた。
「……ヒルマ?」
何処に行ったのだろうかと辺りを見渡しても、窓から覗く月明かり程度ではあまり良く見えない。
じわじわと嫌な感じが肌に纏わり付いて、跳ねる心臓を落ち付けるように一呼吸吐く。
「ヒルマ?」
そして、震えないようにそう呼んだ名前はただ夜闇に溶けるだけで、望む答えは返ってこない。
「……っ、」
何処か、既視感のある息苦しい空間。何も知らないはずなのに、何かを訴えるような頭痛が酷く煩わしい。
「こわ、い?」
自分の、この内で沈み込むように深くて重たい感情は、多分恐怖。
こんな夜更けに一人で目覚めて、誰もいない部屋で過ごしたことなんて両の手で合わせても足りないくらいなのに。
「……お嬢様!?」
それなのに、何かを強く知らせるように激しくなっていく頭痛に思わず蹲れば、傾いだ音のする扉を開けたヒルマがわたしを見つけた。
「どうされました?何かありましたか?」
急いで自分の傍に駆け寄ってくれて、異変がないかと素早く確認したヒルマに首を振る。
「いえ、なんだか、すごく頭が痛くて」
脳内で鐘を鳴らされているような痛みに耐えつつ、ただ簡潔にそう説明した。痛過ぎてその場から動けないわたしをさっと抱え、そっとベッドに下ろしてくれたヒルマは氷嚢を持ってくると再び部屋の外へ。
激しくなるばかりの頭痛に、何かが引っ掛かるような既視感に、もう耐えられそうにないわたしは呻くように意識を飛ばした。
「本当に大丈夫なんですか?」
「ええ」
「本当に?」
「ええ」
そして翌日を迎えるが、何事もなかったかのように治まった頭痛。疑いの目を向けるヒルマに困りつつも、自分でも困惑した状況故に強くは言えない。ただ、本当に何ともないのだと何度も告げれば、ヒルマは別室からファティを呼び出し、軽い診察をするようお願いしていた。
「どうですか、ファティ?」
「うん……お嬢様の仰る通り、問題はないようです」
そうしてファティにも見てもらったものの、やはり特に問題はないらしく、ただもう一度あったときのために、と鎮痛剤を受け取る。
「あの、ヒルマ?」
「今日は様子を見ましょう」
完全に尾を引くことなく動けるので当初の予定通りパン屋に行こうと提案しようとしたけれど、全てを察するヒルマはにこやかに会話を遮断した。
「カールと見てきますから」
ならばせめて味見をしてきて欲しい、と言い出す前にそう言われ、わたしは静かにベッドに戻る。
ファティが一応隣室に控え、何かあったら呼ぶように、と釘を差したヒルマをベッド上で見送り、ぼんやりと天井を眺めた。
『何ともない』
そう話したことに、偽りはない。
『約束だよ』
『勿論』
ただ一つ。意識を失う直前に思い出した何の脈絡もない情景を、言い出せなかっただけで。
『だから、いい子にしているんだよ?』
『うん!』
黒い髪の男性と、銀髪の少女が何かの約束をしているその景色。覚えていないのに、直感があの日の出来事だと言っているその、とき。
「……約束」
幼い自分は、何を父にねだったのだろう。
知らない、覚えていない。
それなのに、思い返す度に千切れそうな程に苦しくなるこの感情は、きっと全てを知っているのだろう。




