絡まるもの7
「ミーナ?」
瞬きと共に降ってきた声で緩やかに意識が浮上する。
「カール」
掠れた声で無理にその人物を呼んだからか、咳が喉に絡み付いた。
咳き込む私に水差しとコップを渡してくれるカールに首を縦に動かして感謝を伝え、喉を潤す。
喉に伝う冷たさで記憶が次第にはっきりしてきて、最後の最後でみんなに再び迷惑を掛けたことを思い出しながらコップに口を付けたままちらりと辺りを見回せば、そこが以前寝泊まりをしていた宿であったことに気が付く。
そして窓から差す陽は高くて、窓際に寄り掛かってこちらを見つめて来るカールと私以外は、部屋にいない。
「みんな、は?」
サイドテーブルに水差しとコップを戻し、意を決して問い掛ければカールはゆったりとした瞬きと共に口を開く。
「買い出しに出てる」
「買い出し?」
自分に一歩近付き、会話をするには少々近い距離までやって来たカールを見上げて詳細を問えば、彼の翡翠色の眼がすっと細まった。
「話したいことは、違うだろ?」
当たり障りのない会話から始めてはぐらそうとした私の意は当然の如く見抜かれていて、そう切り出されてしまった以上避けられない会話に、わたしは触れる。
「……心配を掛けてごめんなさい」
何故、わたしに話してくれなかったのか。それを問い詰めるよりも、みんなに心配を掛けてしまったことを第一声にする。最初に謝らなければならないのは当然で、再度謝罪を重ねた。
「怒ってるやつは、誰もいない」
ベッドの上で身を縮めて謝罪を口にするわたしと、諭すように冷たいカールの立場を考えると、まるで親に叱られている気分になる。実際、それに遠くないのだから間違ってもいないけれど。
「心配した」
ただ、それだけだと言葉を続けたその声に、喉が詰まる。
「突然いなくなって、どれ程心配したかと」
詰るような声音じゃないし、責めるような声音でもない。ただ、ひたすら自分の身を案じてくれているその声を疑い続けた自分が恥ずかしいから。
「まるで……」
羞恥が故にだんまりを決め込んだわたしを見てか、何か言い出そうとしたその表情を見つめれば彼の唇はきゅっと結ばれて、代わりに何でもないと動いた。
「貴方も、わたしも、そうやって誤魔化し続けるのがいつの間にか癖ね」
まるで鏡を見ているかのようにそっくりな態度を取り続けた二人を鑑みて、わたしは自分に返ってきてもおかしくないことを言い出す。
「……」
わたしの言葉を聞いて、何か言いたそうに一瞬だけ翡翠の瞳がかち合った。けれど、それはすぐにまた窓の外に向けられる。
「…………わたし、何でもないなんて、ずっと嘘だった」
だから、自分の腹も割らずに相手のことだけ聞き出すのは卑怯だろうと、ずっとずっと胸の奥底にしまいこんだ感情を、吐き出すことにした。
「貴方達が会いに来てくれなくて、寂しかった。ヒルマもファティもベルホルトも誰もいないあの屋敷はすっごくクソみたいな所だったし、お義父様もお義母さまもお姉様も仕事も何も出来ない癖にすっごい上から目線で見てくるから、わたしがレオン様と婚約が決まったときの皆の顔は貴方達に見せてあげたかったくらいすっとしたのよ。それに………」
言いたいことはまだまだこんなものじゃ効かないくらい沢山ある。
八つのときに引き取られて、レオン様が気を利かせて十一の頃に城に入るまでは、ずっと家畜のような暮らしをしていたのだから。
一息でひとまず言い切って、まだまだ続けようとふと見上げたとき。カールの目が真ん丸になって自分を見下ろしていることに気が付く。
「何よ?貴方だってわたしが本当はこんな性格だって昔から知っているでしょう?」
カールとディルク、ヒルマとファティとベルホルト。それに、お父様とお母様がまだ存命だったときは、わたしはいつだって公爵令嬢らしく振る舞いなさいと、叱られたものだ。
「記憶、が?」
まるで、恐ろしいものでも見たかのように一歩後退ったカール。そもそも窓際ぎりぎりにいるのにそんなことをしたものだから身体が壁にぶつかって、その振動で窓際の花瓶が落ちて、割れた。
「…………貴方が割ったのは、わたしのではなくてお母様のものだったわね」
かしゃん、と乳白色の破片が床に散る。とくとくと破片の合間を縫うように流れる水が、一つの記憶を思い出させた。
『カール、花瓶割っちゃったの?』
彼等が公爵邸にやってきて、数ヶ月程。
お母様のお気に入りの絵画やカーテン、花瓶にささる花達が懐かしいその景色の中で、首を傾げるわたしがいる。
屋敷の内装は全てお母様の好み。その中でも、お父様がお母様へ最初の贈り物として贈ったクリスタルの花瓶は、皆が日々花を見て一日を始められるよう、と食堂の入口に置かれていた。
そんな花瓶を見なくなって数日。
通り掛かる度にちらりとそちらへ視線を向けるカールが気になって、特に何も考えることなく彼へそう問い掛けた。
『…………ミーナ』
そうすれば彼は、こくりと泣き出しそうな顔で頷いた。
『摘んできた花を、飾ろうと思って』
齢八つか九つの頃のカールはまだ、それはそれはとても可愛らしい少年だった。今となってはその可愛さは乱雑で適当な態度に変わってしまったけれど、そのときの彼はくるりとした瞳に涙を湛えて、俯く。
『落としちゃったの』
飾り台の高さは、大人の腰高くらいまである。幼かったカールが水の入った花瓶を持てなくて落としてしまうのも、無理はなかった。
『ん、じゃあ一緒に謝りに行こう』
ぶわわ、と涙が溢れそうな眼を覗き込んでわたしはカールの手を引いて、先に食堂へと入っていたお母様の元に二人で駆け寄った。
『あらカール、どうしたの?』
『イリーナ様、あの、』
恐らく既に全てを察していたであろうお母様はわたしに連れられるカールを微笑ましそうに眺めて、もじもじと中々本題を切り出せないカールの言葉を待ち続ける。
『花瓶を、割ってしまいました』
ぎゅ、と、握られたその手が震えていたことを、覚えている。そして、意を決して告げたその怯えた言葉も。
カールは、怖かったのだ。叱られるのが、ではなくて、嫌われて、この屋敷から追い出されるのが。
再びまた自分を必要としないシュゼット家に戻ることになるかもしれないことをしてしまったから。
そんな事情を薄々と察していたわたしは庇うようにカールの前に一歩出て口を開く。
『お母様、わたしも謝ります。だから、カールを連れていかないで』
そんなことを、二人がする訳がない。けれど、声を詰まらせて緊迫した表情で罪を告白するカールを見ていたら、釣られてそう言ってしまったのだ。
『ふふ』
暫し二人で頭を下げていれば、上からは柔らかい笑い声がする。恐る恐ると同時にその姿を見れば優しく笑うお母様がいて、そのほっそりとした手がカールとわたしの頭に伸びる。
ぼうとそれを見ていたわたしと、びくりと肩を揺らして目を閉じたカールの頭に乗せられたその手が、優しく髪を撫でた。
『良く言ってくれたわね、偉いわ。怒ってなんかないわよ』
落ち着かせるように優しいその手と声音を疑うように二人で眺めれば、お母様はおかしそうにくすくすと笑った。
『お部屋にあるんでしょう?食事が終わったら、持ってきて頂戴』
直してもらうから、と続けたお母様を見つめて、カールは不安げに首を傾げる。
『直りますか?』
『職人に任せれば直してくれるでしょう』
ちらりとベルホルトに視線を向け、意味を汲み取った有能な執事長は食堂から出ていく。
『大丈夫よ』
その後ろ姿を見届けて自分達に向き直ったお母様の言葉に漸く彼は安心したみたいで、握っていた手の力が抜けた。
『カール、貴方が私を気遣って準備しようとしてくれたことは嬉しいわ。でもね、一人で全てをこなそうとするのではなくて、もう少し周りを頼って頂戴。ミーナ、貴女もよ?』
そしてそう優しく諭してくれたお母様の言葉を区切りに、わたしは回想した記憶を切った。
「きちんと貴方に相談していたら、こんなことにはならなかったかしら?」
苦い教訓は、結局以降生かされることがなかった。でも、みんなに心配を掛けないように、弱音を吐くのは恥ずかしいからと零さなかった心根を全て、伝えていたのなら。
わたしは、今もあの王城でみんなと暮らしていたのだろうか。
決して戻りたい訳ではないし、過ぎた可能性を考えるのも無駄だ。けれど、もっとみんなを頼っていたのなら、こんな風に近いようで遠い距離を埋められていたのだろうかと、思ってしまった。
そして拗れたこの心も、過去に邪魔されることなくもっと素直にみんなの優しい言動を受け入れることが出来たのだろうかと。
「ごめんなさい。意味のないことだったわね」
完全に口を閉ざしてしまったカールを見て、わたしは誤魔化す。
「……イリーナ様達のことも」
そうやって沈黙が下りた部屋を払うようにカールが口火を切った。
「聖女のことも、あの少年のことも、知らない方が良いと、思ってた」
それは、初めて聞くカールの思惑。何を話すのだろうかと、窓の外に移る市井の流れに目を向ける彼を追う。
「でも、本当はただミーナに知って欲しくなかっただけなんだろうな」
それは、わたしを思うようで、わたしを無視した彼らの結論。そしてそれに突っ込むことなく享受していたわたしに、彼らを責められなどしない。
だからただ、彼の告白を聞く。
「怖かったんだ。前みたいに、ミーナが変わることが」
落ち着きなく視線を割れた花瓶に移動させ、一つ一つ破片を拾い上げたカールの言葉の真意を辿る。
何が怖いのだろうか、と。変わってしまうことで恐れるような事態があるかと。
「そうだな。本人には、分かりやしない」
比較的大きめに割れた破片の上に細かい破片を重ねてサイドテーブルに置いたカール。その通り、思考せども全く何一つ浮かび上がらない可能性。
「記憶を失ったミーナは、良くも悪くも公爵令嬢として、王太子の婚約者として完璧だったんだ。ちっこい頃のお転婆はすっかりなりを潜めて、ただただ求められるがままの、理想の姿だった」
「……そう、ね。そうであるように、努力していたから」
そしてそれを望まれて、そう望まれた通りに振舞ってきた。しかしそこにもなんら問題はないだろう。理想像を描いた完璧さだった、はずなのだから。
「欠点なんてない。だからこそ、他者を寄せ付けない冷徹さを感じていたし、気安さなんて微塵も感じられないから皆が遠巻きに付いてくる。幼い頃のミーナとは、正反対だったんだよ」
腕を組んで、壁に身体を預けながらこちらを見るカールの眼に浮かぶ不思議な感情。切なさとも、愛おしさとも感じられるようなそんな眼を、わたしは知らない。
「庭を駆け回って服を汚して怒られるような毎日だったし、誰にでも訳隔てなく接するから常に周りに人が絶えなくて、誰にでも愛されるような、可愛らしい女の子だったミーナとは」
何かを具体的に思い描いて、おかしいのか緩んだ口元。
それは、殆ど覚えていないみんなの中にだけある記憶。でも、少しだけ思い出した過去の記憶の中では、わたしは確かに想像出来ない程お転婆だった。
「イリーナ様達が亡くなってミーナが記憶を失ったとき、俺は少しだけほっとしたんだ。あのままミーナが全てを覚えていたのなら、きっとあの子はもう同じようには笑えないんだろうって思っていたから。だったら、全てを忘れてしまえて良かったんだって。だからみんなで、ミーナの記憶になるべく触れないようにしていた」
幼かったカールの最善は、今でも最適かどうかわからない。でも、わたしを傷付けたくないというその気持ちに嘘はないのだから、カールがそんな顔する必要ないのに。
「だから、さ、思ったんだ。もし、ミーナが何かの弾みで記憶を取り戻してあの王城にいたのなら、きっと俺達のお姫様が再びそこにいるんだろうって」
「それは、そう。そうね、確かに問題ね」
記憶にある限りのままわたしがあそこに立ったのなら、糾弾は免れない。というかそもそも、王妃候補にすらならないであろう。それは確かに恐れることだ、とカールの考えることが腑に落ちたところで、彼は何故か大きな溜め息を吐いた。
「そんなことじゃない。お前の周りに人が集まりすぎるのが問題なんだよ。権力のある人間、ない人間に関わらず人が集うってことは、それだけで派閥を刺激しかねない。お前を利用しようと画策して良からぬ者が寄ってくることだって大いにあった。幼い頃はイリーナ様達が風除けになってくれていたからそんなこともなかったけれど、俺達の守れない範囲にいたミーナがそんなことで傷付いて欲しくなかったんだよ」
めずらしく饒舌なカールを物珍しげに見上げれば、わたしの考えていることなど手に取るように分かっているであろう彼は諦めたように首を振る。
「まあ、もう関係のない話だ」
「そう、ね」
彼が今過程して話していたことは、もう出会うことない世界線の話だ。あの城に戻ることがなければ、わたしが多少記憶を取り戻したとてなんの関係もないから。
「花瓶、片付けてくる」
「ええ」
サイドテーブルに置いた破片達を拾い上げて、カールは足早に部屋を出て行く。
まるで何かを強引に切ったような話の逸らし方だったけれど、特にその行動の意味を見出だせないわたしは素直に彼を見送った。
「心配だから。なんて、上手く誤魔化したものだね」
扉を閉めて廊下に出れば、恐らくずっと部屋の前で立ち聞きしていたであろうディルクが振り返ってこちらを見た。
「素直に言えばいいのに」
薄藍の瞳を少しだけ歪めて、からかうようなその口調が続ける言葉などとうに察している。だから特に気にすることもなく横を通り過ぎれば、肩を竦めたディルクが視界の端に映った。
「僕らのお姫様をみんなに取られたくないから、昔みたいにならないで欲しいってさ」
背中にかけられた言葉を全て無視して階下へと降り、割れてしまった花瓶と共にいくつかのチップを宿娘に渡す。
このまま素直にミーナの元へ戻る気分にはなれなくて、俺は一度気晴らしに辺りをうろつくことにした。




