菜々香の追想
深夜。唐突に目が覚めた。
なんだか、とても頭が重い。
リンちゃんは……よく寝てる。
毎日リンちゃんの指示通りに迷宮を駆け抜けてるだけの私と違って、リンちゃんは配信とかマッピングとかスケジュールの管理まで含めて全てやってくれている。
頭を使うのが得意とはいえ、リンちゃんもきっと疲れてるのだ。
起こすと悪いからと音を立てずにベッドから抜けて、そのままベランダに向かう。
大きな部屋の割には狭いように思うけど、それでも広いベランダの欄干に両手を置いて、眠らない街の光を見下ろして。
涼し気な風が吹いている。
夜風に当たりたかった。
そして、ぼんやりと空を眺めたかった。
こうして空を眺めていると、昔の事を思い出す。
遠い、遠い……色褪せた記憶。
リンちゃんに出会う前の、虚ろな記憶を。
私の記憶は、実の所とてもまばらで精度に欠ける。
そんなことに気づいたのはごくごく最近で。
赤狼アリアと戦って以来だろうか。リンちゃんと話をする度に、私は覚えていない記憶を呼び起こされてきた。
特に記憶が朧なのが、小さい頃と15歳前後の記憶。
その中でも、最近思い出したのは小さい頃の記憶の方だ。
それは、私の原点とも呼ぶべき記憶で。
リンちゃんと出会う少し前から、リンちゃんと本当の意味で仲良くなった時までの記憶だった。
昔の私はよく笑う、好奇心旺盛な子だった。
そう言うと、誰もが信じられないと言わんばかりに首を傾げるかもしれない。
とりわけ3歳から15歳までの私しか見た事がない人なら、絶対に信じてはくれないだろう。
少し前にトーカちゃんにも変わったって言われたっけ。
今と、ちょっと前と、小さい頃と。
我ながらよくここまで差異が生まれるものだと思うほどに、私は別人のように変化してきたように思う。
今更なことだけど、私の体は他人とは違う。
人間の形をした何か。そう言われた方がしっくりくるくらいに、私の身体の作りは人間離れしている。
身体能力も、反射神経も、五感の鋭さも。
私はずっと、それをどうにか抑えながら生きてきた。
初めてお母さんを壊してしまった時から、ずっと。
昔から、物を壊すのが好きだった。
おもちゃを力づくで引きちぎったり、叩いたりしてみたり。
虫を握り潰してしまったり。
積み木をひしゃげさせて、ささくれで手を血だらけにしてしまったり。
私は幼少期からそれだけの力を既に持ってしまっていて、それは緩やかな破壊衝動として周囲に牙を剥いていた。
それこそ、物心がつくかつかないかという幼い期間を、私はひたすら壊す事ばかりで過ごしていたのだ。
お父さんとお母さんは、そんな私を見て心配してくれてはいたけれど、怒ったりはしなかった。
2人にとっても、初めての子供。どのくらいが「普通の子供」の範囲であるのかがわからなかったかららしい。
私の破壊行為は2歳に上がる頃には家電にも及び始めていたけれど、それでも幸いなことに家の外までは及ばなかった。
それも含めて、2人は黙って私を見守っていてくれたんだと思う。
そして、事故は起こる。
そう、あの日は久しぶりに両親と一緒に3人揃ってお出かけの日だった。
大好きな両親とのお出かけで、私は嬉しくて。楽しくて。
お母さんと繋いだ手を、思わずぎゅっと握りしめて。
ぱきゃっという何かが壊れるような音と共に、生暖かい液体が弾け飛んだ。
それはとても綺麗な赤色で、とても暖かい液体で。
それが潰れてしまったお母さんの手から飛び散った鮮血だと気づくのに時間は要らなかった。
痛みでうずくまるお母さんと、駆け寄ってくるお父さんと、救急車の音と、突然の惨事に対する喧騒が印象的だった。
怖い。そう感じたのは、生まれてから初めてのことだった。
自分の力が、大切な人を壊してしまうものであると……そう気付くのに十分なほど、私の力は既に人の域を超えていて。
私はその時初めて、物を壊すということがどれほど愚かで恐ろしい事なのか、幼いながらにぼんやりと理解したのだ。
その事故以来、私は物を壊さなくなった。
何が壊していい物なのかが分からなくなったからだ。
人にとって大切な物はそれぞれ違う。
朧気ながら、そんな事実に気がついたから。
そして何よりも、大切な人を壊してしまうのが怖くて怖くて仕方がなくて……幼い私はこう思ったのだ。
「なんにも触らなければ、壊れてしまうことはない」と。
力が制御できていたのなら、ここまで極端な思考には至らなかったのかもしれない。
けれど、私は自分の力を制御できるほど大人ではなかったのだ。
それからの私は、世界への興味そのものを閉ざした。
好奇心はなくなった。
欲求を捨て去った。
食事も給水も、与えられない限りは行わない。
唯一睡眠を除いて、私は自由意志というものを捨て去った。
そんな私の姿を見て、お父さんとお母さんがどう思っていたのかはわからない。
けれど、2人はそんな私に愛を注いでくれていた。
とても悲しそうな顔で、物言わぬ人形と化した娘を、それでも愛してくれていた。
それでも、私が拒絶してしまったせいで、私と両親との間から触れ合いというものはなくなって。
互いが互いを愛するが故に、私たちの間には歪な親子関係が生まれていった。
生まれてから2年と半年ほど。
それが、私が人形になるまでに過ごした、最も人間らしかった期間だった。
☆
それから半年。何もしないままに過ごした期間で、私の情動は完全に停止していた。
成長はしていた。忌々しい事だけれど、身体能力はより強くなっていた。
それでも私の心は、どこまでも冷たく凍りついていた。
それでいい。私はこのまま死ぬまでそう過ごすのだと。
心の凪いだ世界の中で、どこか心地よささえ感じていたように思う。
そんな停滞した環境をひっくり返したのは、お父さんとお母さんだった。
ほとんど一年ぶりに外出をした私が連れていかれたのは、2人の友人のお家。
テレビでしか見たことがないような大豪邸。鷹匠家のお屋敷だった。
その豪邸を見たからと言って私の心が揺れ動く様な事はなかったけど、決定的だったのはその後の話。
それこそが、鷹匠家の令嬢との出会い。
すなわち、リンちゃんとの出会いだった。
幼い頃のリンちゃんは私よりも少し背が小さくて、私がこれまで見た人間の中で最も脆くて儚い生き物だった。
いつでもどこでも楽しそうで、元気いっぱいの女の子。
人形のように何もしない、面白みのない私を押し付けられても、文句一つ言わずに色んな場所に連れ回してくれた。
その小さな、ぎゅっと握られる手のひらの温度が、とても温かく感じたのを覚えている。
昔から運動音痴だったリンちゃんはそれでも外で遊びたがったし、よく怪我をする子供でもあった。
遊具を使って遊ぶ時も、普通に走り回って遊ぶだけでも、必ずと言っていいほどリンちゃんは怪我をした。
最初はそれを見ていてもなんとも思わなかったけれど。
リンちゃんが怪我をするなと傍目から見ていてわかった時に、助けなければと思うようになって。
その度に、お母さんを壊してしまった時の赤い色が脳裏に浮かんで、私の体は動かなくなった。
リンちゃんを壊したくなかったから、私はどうしても自分からリンちゃんに触ることができなかったのだ。
それでも、助けたいと思うくらいには私の心は揺れ動いていて。
壊したくないと思うくらいには、リンちゃんの事を大事だと思うようになっていて。
ゆっくりと、ゆっくりと。
凍ってしまった私の世界は、リンちゃんの手のひらの温度で溶かされていった。
色のない世界が色付くように、世界が色彩に溢れていく。
私ひとりでは何一つ考えることもままならないというのに、リンちゃんに連れ回される世界はその全てが光って見えて。
その手のひらから伝わる体温が、お日様よりも暖かく思えて。
気付けば私の世界には、リンちゃんという太陽が燦々と輝いていたのだ。
リンちゃんと触れ合うために、私は自分の力を完全に制御下に置けるようになった。
どんなに窮屈な生き方だとしても、リンちゃんの傍に居たかったから。
例え自分の命を散らす事になったとしても、自分の命なんかよりも遥かに大切な存在だったから。
リンちゃんと仲良くなった後。あの犬からリンちゃんを守れた時、私はとても嬉しかった。
忌々しいとしか思わなかった自分の力に、初めて感謝する事ができた。
そして誓ったのだ。
この力の全ては、リンちゃんの為に使おうと。
その事を自覚した時、私はようやく理解した。
私は両親から愛されていたという事実を。あの惨事を経てもなお、一瞬たりとも両親から嫌悪という感情を向けられてはいなかったのだと。
どれほど歪な関係であったとしても、2人から無償の愛を注がれていたのだと。
そして、私は両親を何よりも愛していたのだと。
そんな当たり前の感情を、ようやく理解できたのだ。
戻らないものもある。けれど、これから積み上げられるものもある。
私はリンちゃんと同じくらいに、お父さんとお母さんの事を大切に思っていた。
私の世界には、お父さんと、お母さんと、それからリンちゃんの3人だけが居て。
その3人さえ居てくれれば、どんな事があっても私は幸せで居られるんだと思っていた。
だから………………?
☆
バタン、と。
何かが倒れる音がした。