喪失した物は
視点が転々とするので注意。
「……ふぅ。流石に色々ありすぎたなぁ……」
リビングのソファに飛び込むように寝転がって、私は軽くため息をついた。
室内はとても静かだ。部屋自体が防音だし、そもそも高所にあるこの部屋は喧騒とは程遠い。
夕焼けと夜の合間、柔らかな闇に包まれた部屋の中を、まだまだ眠らない街の灯りがぼんやりと照らしていた。
帰ったらリンちゃんがいない。
2日間の出張営業中だからだ。
分かっていたけど、何となく寂しい。
もう何年もひとりで暮らして、ひとりきりの生活にも慣れていたはずなのに。
1週間ちょっとという短い時間の間に、人肌の温かさになれてしまったんだろうか。
「リン、ちゃん……」
寂しい。そう思ってしまった時点で、自然と名前を呼んでいた。
もぞもぞと体勢を変えて、柔らかなソファに包まれるように身を沈める。
眠ろう。そうすれば、リンちゃんが帰ってくる「明日」になるから。
思ったよりも疲れていたのか、眠りに落ちるのに時間はいらなかった。
☆
「ナナと連絡が取れない?」
『そうなんです!』
耳元から聞こえてくる騒がしい燈火の声に、夜通し車の中で眠っていたせいで疲れ果てた私は顔を顰めた。
イベントが長引いたこと、それから打ち上げなんかに参加したことで、本当は一泊二日の予定が3日目の朝帰りになってしまった。
それ自体は別に構わないんだけど、体力が多いわけじゃない私としては結構しんどい結果になった。
とはいえ、燈火から朝早くにかかってきた電話の内容は、無下にできるものでもなかった。
「現状は?」
『一昨日一緒にフィーアスまで行って、夜の7時ぐらいまで配信をしてたのは知ってますよね?』
「ええ、合間に見てたから」
私がイベント会場で色々やっている間に、ナナとトーカが無事フィーアスに着いたというのは知っている。
あそこまで来てくれているのなら私のほうから出向いてもいいくらいだから、やっとナナとWLOが出来ると思うとドキドキが抑えられないくらい。
『円卓のフレンドに「数日前の約束通りスクナを招待したい」と言われまして、渋々ナナ姉様に連絡をとったのですが、繋がらなかったんです』
「何回電話した?」
『20回くらいでしょうか? 一応メッセージは飛ばしましたが、WLOにもログインしていないようなんです』
「なるほど……」
燈火の情報を総括するに、一昨日の夜から昨日一日中に加えて、今朝まで連絡がつかないってところかしら。
年がら年中働いていた頃ならいざ知らず、今のあの子がそれだけの間連絡がつかないのは確かにおかしいかも。
「燈火。貴方から見て、ナナにおかしな所はなかった?」
『ナナ姉様はいつも素敵です。ただ配信中、2回ほどぼーっとされていたような気がします。プレイが雑になっていたとかではなく、心ここにあらずといった感じです』
「そう……分かったわ。あまり心配しなくていいわよ。少なくともあの子が力でどうこうされることはないから」
『それは心配してませんけど……あの日の涙を思い出すと、いつまた消えてしまうんじゃないかと怖くって』
燈火がナナを心配する理由はわかる。
そして、その心配はあながち間違いではないかもしれないことも。
「ま、大方電話の電源を切ったまま忘れてるだけよ。何か分かったら連絡入れるから、とりあえず燈火は寝なさい。どうせ寝てないんでしょ」
『うっ……どうしてわかるんですか……』
むしろなぜわからないと思ったのだろうか。
電話越しでも伝わってくるほどに疲労で声質が変わっているのに。
「声を聞けばわかるわよ。全く、そんなに心配するならもっと早く連絡してきなさいよね」
『リンねぇ……ごめんなさい』
「いいわよ。とにかく、私に任せておきなさい。絶対大したことないんだから」
『お願いします。じゃあ、私は寝ますね……』
「はいはい、じゃあね」
通話の切れたスマホをカバンにしまいつつ、何があったのかを考える。
燈火にはああやって伝えたけれど、100%完璧に不安がないのかと言われればそれは否だ。
その心配は、あの子が怪我や病気にかかるとかそう言うものではなくて、私があの子をWLOに誘った理由そのもので。
ただ一緒にゲームをしたいだけじゃない。
私はもうひとつ確かな目的を持って、ナナをWLOに誘ったのだから。
☆
ああ、これは夢の中なんだな。
目の前にいる《菜々香》を見て、私はぼんやりとそう思った。
触ろうとしても、すり抜けてしまって触れない。
だから、多分これは夢なんだと思った。どうしてこんな夢を見ているのかなんて、想像も出来ないけれど。
目の前でうずくまる《菜々香》は、静かに泣いていた。
鏡写しのようだけれど、制服を着ているということは多分中学生の頃の私なんだろう。
あれから7年くらいだっけ。ちょっと前にトーカちゃんとリンちゃんに言われたけど、うん、確かに私の容姿はほとんど変わってないかもしれない。
この子はなんで泣いているんだっけ。
私が最後に泣いたのはいつだったっけ。
ああ、そうか。確かお父さんとお母さんが事故で死んじゃった時だ。
2人が死んでしまったのはとても悲しい出来事だったから、今でもよく覚えてる。
人生の転機。初めてリンちゃんと距離を置くことになってしまったことも含めて、世界が変わったようだった。
でも……泣いてた理由は、本当にそれで合ってたっけ?
そう思った瞬間、夢が覚めていくのが分かった。
まるで思い出そうとするのを拒否するかのように、景色が朧に消えていく。
消え行く最中、泣いている《菜々香》と目が合った。
その瞳は、酷く虚ろで何も映していないようで。
息が詰まる程に強い、燃えたぎる様な激情を抱えていた。
☆
イベントから帰宅した私を待っていたのは、人の気配のしない家。
ため息をつきながらリビングへと足を運ぶと、全く気配を感じさせないままにソファで眠っているナナがいた。
「はぁ……やっぱりね」
チカチカと光るスマホを床に落として眠るナナを見て、私は再びため息をつく。
この様子だと一昨日の夜からずっと寝てたのだろう。
単純に寝てたから取れなかっただけという、心配していた燈火を嘲笑うかのような結果だったからこそ、私は2度目のため息を吐いたのだ。
「ナナ、朝よ」
ゆさゆさと肩を揺らしてやると、ピクリと身体が動いた。一瞬鼻を鳴らして、匂いで私だと気づいたのか少し強ばっていた体を弛緩させる。
起きる気のないその所作に三度ため息をついて、私はソファでまるまっているナナの隣に腰を下ろした。
お父様が私のために作ってくれた送迎車。それはVIPルームのように整った設備を備えたものだけれど、一晩中車の中となれば疲れることは疲れるのだ。
まして私は丸2日間のイベントを乗り切った後、長引いてしまったせいで寂しい思いをしてるであろうナナのためになるべく早く戻ろうと思って、わざわざ車で帰ってきたのに。
この子と来たら労いの言葉もなくぐっすりなんだから、少しは怒ってもいいわよね?
そう思って軽くデコピンでもしてやろうかと指を丸めていると、ナナの顔に涙の跡が残っているのが見えた。
「…………そう、やっぱりそうなのね」
霧散してしまった怒りと共に、丸めた指を解く。
予感はしていたけれど、WLOでの生活は想像以上にナナに刺激を与えてくれているらしい。
「今の」ナナが涙を流している。これがどれほど衝撃的なことか、分かるのは私だけだろう。
これは兆候だ。固く閉じられたナナの記憶の蓋が、確実に緩んできている事の証明に他ならない。
その蓋が今すぐ開くことはないと思う。でも、後は本当に引き金を引くだけというところまで来てしまっていた。
「正直なことを言えば、ずっと忘れたままでいて欲しいとも思うわ」
ナナが忘れている……いや、封じ込めてしまった記憶は、極めて限定的なものだ。時間にして1日にも満たない、本当に小さな記憶。
しかし、そのほんの僅かな記憶を無くさないといけない程に、その時のナナはどうしようもなく壊れていたのだ。
だから、自己防衛本能のままに記憶を閉じ込めた。
そして、それを失くしたおかげで、ナナは今の明るいナナへと成長していったのだ。
「ふぇ……リンちゃん……?」
「そうよ、寝坊助さん」
「早いねぇ。夜に帰ってくるんだと思ってたぁ」
なんの拍子か目を覚ましたナナが、頭が働いている気配を微塵も感じさせないふわふわとした口調でそう言った。
眠気を振り払うために頭を振る姿はまるで動物のようだけど、ソファに沈み込んだせいで逆に睡魔に負けそうになってるのが本当に可愛らしい。
「私はむしろ遅く帰ってきたくらいよ」
「んぅ?」
「私が早いんじゃなくて、ナナが寝過ぎたのよ。丸1日以上ね」
私がそう言うと、ナナは床に落ちていたスマホのホーム画面を見てから少しだけ目を見開いた。
が、あまりショックではなかったようで、私の膝を枕にするように再びソファへと倒れ込む。
「寝ちゃったものはしょうがないんじゃぁ……」
「ま、そうなんだけどね」
「というわけでもうひと眠り……ぐぅ」
よっぽど眠かったのか、一瞬で二度目の眠りに落ちるナナの頭を撫でてあげる。
ナナが眠りを求めるという事は、何か回復しなければならない要素があるということ。
体力的な問題はほぼ考えられないから、やっぱり何かしらナナの精神面に負担がかかっているのだろう。
とりあえず燈火に無事の連絡を送って、私も眠気に身を任せる事にする。
ナナみたいな体力おばけと違って、私はちゃんとインドア派なのだ。燈火に早くから起こされたせいで眠いのもあるし、目の前で気持ちよさそうに眠ってるナナの眠気にあてられたのもあるし。
気がかりなことはあるけれど、今の所は順調に進んでいる。
ようやく開きかけたあの子の記憶の扉に期待を寄せながら、私は緩やかに襲い来る眠気に身を任せるのだった。