懐かしいゲーム
「で?」
「はい」
カーペットに正座して、二人きり。
リンちゃんの笑顔の圧力に、私はちょっと目を逸らしていた。
「別に怒ってるわけじゃないわよ」
「あ、そう?」
「話ついでに毛繕いしてあげるからこっち来なさい」
はたして毛繕いとは人が人にしてあげるものだっただろうか。
一瞬そう感じたものの、リンちゃんが笑顔で膝をポンポンと叩いているので仕方なく頭を預けることにした。
怒ってはない。確かにリンちゃんは怒ってはいない。
でも、付き合いが長いからわかる。今、リンちゃんめちゃくちゃ不機嫌だ。
「相変わらず腹が立つほどサラサラね」
「リンちゃんだって」
「私のはそれなりに努力してるの。水と石鹸のナナと一緒にしないでよね」
し、失礼な。私だってちゃんとリンスインのシャンプー使ってるし。
「そういうとこよ、ほんとに」
「いてっ」
思ってることがバレたのか、ペシッと額にデコピンを打ち込まれた。
打ち付けたリンちゃんの方が痛そうにしてるけど、指摘したらこちょこちょが飛んでくるのでそれはしない。
リンちゃんは手先が器用だからか、くすぐりが超絶上手いのだ。
本格的に髪を弄りたくなったようで、リンちゃんは口を閉じて静かになった。私も髪の毛を梳かれるのは気持ちいいので特に抵抗はしない。
しばらくの間無言で髪を梳かれながら気持ちよさでとろけていた所で、不意にリンちゃんが爆弾を放り投げた。
「聞いたわよ、今日他の女に膝枕されてたんだって?」
「うぇっ」
穏やかな笑みを崩さないまま、私の髪の毛を優しげに弄りながらの発言に、私は思わず変な声を出してしまった。
なんて言い訳しようかあたふたしていると、そんな姿が面白かったのかクスリと笑ってリンちゃんは手を止めた。
「冗談よ。別にそんなことで怒ったりしないわ」
「び、びっくりしたぁ」
「浮気がバレた男みたいな反応ってこんなかしらね」
笑いながらそう言うリンちゃんにほっぺたをつんつんされながら、私は焦りでちょっと早くなった鼓動を落ち着かせた。
「ちょっとごめんね」
「ぬおっ」
膝枕されていた私は、不意に脇の下から持ち上げられて、リンちゃんの懐にポスリと収まった。
一週間ぶりくらいに感じるリンちゃんのお胸の柔らかさで後頭部がなかなか幸せな事になってる中、お腹に回された手がぎゅうっと締め付けられる。
「むふふー」
「リンちゃん?」
「えへへ、今日は街ひとつ進めたんでしょ? いいペースじゃないの」
うーん、なんだか妙なテンションだ。さっきまでは確かに不機嫌だったのに、今はご機嫌になってる。
浮き沈みが激しいというか、お酒の匂いはしないから酔ってるわけじゃないみたいだけど……。
「明日明後日、用事があって家を空けるの。クロクロ関係で呼ばれてるから。だから今のうちにナナ成分を吸収しておくの」
ああ、なるほど。つまり今、リンちゃんは甘えん坊モードなんだ。テンションがおかしいのはそのせいだろう。
こういうとこ、他人には絶対見せないからね。家族の前と私くらいだと思う。そもそもが末っ子だから、リンちゃんって実はめちゃくちゃ甘えん坊だし甘え上手なんだ。
用事があるからなんて言ってたけど、多分、私が琥珀に膝枕されてるのがよっぽど嫌だったんだと思う。
それこそ激おこって言ってもいいくらいの苛立ちを、別の方向に変換しただけ。
消化してあげないとしばらく不機嫌は直らない。中学の頃、2週間くらい口を聞いてくれなかったことがあったから間違いない。
上手く見えないけど、手を上にあげて頭を撫でてあげれば「えへぇ」というあまりにも気の抜けた声が聞こえてくる。ダメだこりゃ。
あっ、ちょっ、テンション上がったからってお腹擽ってくるのやめて!
「ふぅ、ふぅ……そういえばクロクロって、リンちゃんが昔やってたアレ?」
10分程擽られたあと解放された私は、今更恥ずかしくなったのか少し顔を赤らめているリンちゃんにさっきの話の続きを聞いていた。
「そうよ。新作とかじゃなくて、普通にRTAイベントがあってね。世界記録保持者として招待されてるのよ」
「ほへぇ。なつかしいなぁ、クロクロ。私はやってないけど」
「一人用ゲームだものねぇ」
クロクロ。それは私にとってと言うよりは、リンちゃんにとって最も印象的であろう、一本のゲームタイトルの略称。
リンちゃんが伝説とまで言われたとある偉業を成し遂げた、思い出深いソフトの名前だった。
☆
プロゲーマー・リンネ。
彼女こそはプロゲーミングチーム《HEROES》における絶対的なエースであり、あらゆるゲームジャンルに精通するスーパーゲーマーである。
そんな、プレイヤーでもあり広告塔でもある彼女が最初に名前を売ったのは、実は華々しいゲームの大会などではなく、とあるゲームのRTA、リアルタイムアタックと呼ばれるプレイの配信だった。
《Clock Lock - Actors ―時忘れの英雄―》。
それは発売されて数年以上経った今でもなお、史上最大のオープンワールドと呼ばれるアクションゲームの名前である。
何が史上最大なのか。
それは単純かつ明快な話で、その圧倒的なフィールドの広さである。
オープンワールドのゲームらしく、ラスボスに直行して最短で倒せる設計でありながら、最短の距離を最速で駆け抜けて3時間はかかる。
物理的に遠すぎて、チュートリアルを含めてひたすら移動するのに2時間半以上かかるのだ。
ラスボス戦が消化試合とまで呼ばれる様は圧巻で、プレイヤースキルの見せどころはバグや裏技を駆使した移動そのものにある。
地図の縦横比が従来のオープンワールドの5倍の広さを持つとまで言われ、10年以上かけて練り上げたと謳っているストーリーを隙間なく配置したその圧倒的な密度から、その平均クリア時間は300時間を超えたという。
リンちゃんが名前を売ったのは、そのゲームのRTAの中でも最も困難であるとされたとあるレギュレーション。
全てのやりこみ要素を回収して完全クリアを目指す、100%RTAというものだった。
RTAのレギュレーションが優しくなっている昨今においてなお、最も時間がかかるRTAであると言われる所以は、あまりにも圧倒的な物量からなるゲーム時間……ではなく。
睡眠によるタイマーストップの禁止というルールにあった。
寝てもいいし、休んだって構わない。ただ、その間のタイマーはストップしない。たったそれだけのルールの存在によって、このRTAは地獄絵図となった。
初めてこのレギュレーションに参加したカナダ人プレイヤーのひとりは、168時間かけてクリアし、その記録を公式に認められた。丸々一週間かかっているが、40時間ほどが睡眠だったという。
当時中学生だったリンちゃんがこのレギュレーションをクリアするのにかかった時間は、79時間22分37秒。
一睡もせず、ほとんど食事もとらず、当時中学生だったリンちゃんはこの記録を打ち立て、それから今に至るまで1度だってこの記録が抜かれたことはない──らしい。さっき確認を取った。
現時点で2位の95時間、3位の97時間と比しても圧倒的なタイムと言えるだろう。
ちなみにリンちゃんはRTAの終了後に丸3日寝込んだ。
クロクロRTAにおける絶対王者。それがリンちゃんのプロゲーマーとしての原点。
爆発的な拡散ではなく、むしろコアでマイナーな始まりだった。
しかしリンちゃんはそれを踏み台に、時間と伝手を利用してその名前を世界に轟かせた。
もちろんリンちゃんのプレイ技術あっての事だけど、それ以上に実家のコネを使ったのも大きかったと思う。
今や押しも押されもせぬトップゲーマーのリンちゃんだけど、その始まりは間違いなくクロクロだったのだ。
たぶん、今回呼ばれたイベントも規模としては小さいものなんだと思う。少なくとも巨大なゲームの祭典とかではないはずだ。
それでも泊まりがけでゲストとして参加するのは、リンちゃんにとってもあのゲームが大切なものだからだろう。
「ちなみにクロクロの制作陣はWLOの制作にも関わってるのよ」
「へぇー」
「ま、トップのひとりだけなんだけどね。明日会ってくるわ」
それは制作陣が関わってると言ってもいいのだろうか……。
ていうか、シレッと今会ってくるって言ってたよね。知り合いですか。そうですか。
ちなみにクロクロは全世界200万本という、シリーズ物ではない作品としては中々のヒットを飛ばしてはいるものの、あまりの物量に購入者の半分もクリアできなかったとか言われてる。
低評価の理由で最多なのが「プレイ時間がかかりすぎる」である辺り、クオリティは申し分なかった。忙しい現代人には中々触る時間が取れなかっただけで。
実況動画を見ようにもパート300とか軽く超えるらしいからね。
「むしろ300じゃ中盤くらいよ」
とはリンちゃんの談である。
久しぶりに思い出したなぁと懐かしい気分に浸っていた私は、ふととある偶然に気がついた。
「そう言えば……WLOにクロクロと同じ名前のキャラいたよね」
「登場人物が多すぎてかぶっても不思議はないけど……いたかしら?」
「うん、間違いないと思う」
クロクロにおける脇役、というよりはメインストーリーに一切関わらないそのキャラは、なぜだか分からないけどとても強く私の記憶に残っていた。
「《メルティ・ブラッドハート》。始まりにして終わりの吸血鬼、だったかな」
それは、琥珀から伝え聞いた世界で唯一の名持ち単独討伐者。
最強の吸血種NPC、《天眼のメルティ》。なんとなく、私はこのふたつの存在のつながりが気になって仕方がなかった。
クロックロック・アクターズ 〜時忘れの英雄〜
リンネの残した記録は当時理論値と呼ばれていたものであり、様々なバグで時短が可能になった今でも抜かれたことは一度もない。わずか3つのガバを除きミスすることなく駆け抜けたそのあまりに精密なプレイングは、今なお伝説の偉業としてクロクロRTA界に語り継がれているとか。