またね
日常的にトレーニングに取り組み、時折ナナと一緒に身体をメンテナンスして。
主に防衛的な反射神経のトレーニングとして簡易な組手なども行うようになり、まくらのパワーコントロールはメキメキと上達していった。
そうして一般人より少し下手……程度まで感覚が身についた頃には、ナナに声をかけられたあの日から一年が経過していた。
作業の効率は当時に比べて劇的に上がり、ある程度思った通りの力を出せるようになったことで力仕事にも進んで取り組めるようになった。
一年も同じバイトを務めたことで経験もそこそこ積み、今では立派なキッチンの戦力として扱って貰えるようになった。
まさに順風満帆。まくらにとってはようやく人生に春が来たような感覚で、ここ数ヶ月は毎日をとにかく楽しく過ごせていた。
そんなある日、閉店後の静かになった店内でバイトの締め作業をする中で、ナナとまくらは軽い休憩を取っていた。
「……どうでしょうか」
「うーん……骨格的にスポーツには向かないね、やっぱり」
二人きりになると、ナナとまくらは大抵まくらの身体についての話をしていた。
日常生活を支障なく送れるようになった今、次に目標を立てるのなら「スポーツ」という一歩先の行為になる。
ただ、ナナの視点から見ると、それは相当無茶な行為に映るようだった。
「どうしても筋肉量に見合った骨格じゃないんだよね。日常生活とかレジャーの範囲でのスポーツに過不足はないだろうけど」
「……それでも、たまにでも運動できるようになっただけで嬉しいですよ」
「それなら良かった。全身の筋肉バランスも良くなってきたね」
「……でも、やっぱり体重はすごく増えました。筋肉って重たいんですね」
「まあね。ただでさえマーちゃんは脂肪も少ないし、増えた分はそのまま体重に乗っかっちゃうし。でも見た目は太ってないし、体格的には今が適正体重だと思うよ」
「……ならいいですね」
「いいんだ……」
そんな会話をしながら、色々と余裕が出てきたからか。
まくらはずっと疑問に思っていたことを、遂に聞いてみることにした。
「……ナナ先輩は、私よりずっと強いのに軽いし小さいです。なにか理由があるんでしょうか」
ナナは軽い。何度か体重比を計ってもらっていた時、「逆に」と言い張って一度持ち上げさせてもらったため、まくらはその事実を知っていた。
この一年、パワーコントロールの一環として持った物の重さをこと細かに測ってきたまくらにはわかる。
ナナの体重は恐らく50キロにも満たない数値で、これは155センチだという彼女の身長から見ても痩せ型に分類されてもおかしくないほど軽い。まくらの半分以下だ。
実際に持ち上げてみればトレーニングで使うウェイトなどより遥かに軽く、それこそ腕力の強いまくらにとっては羽のような軽さだった。
けれど、何度も力比べをさせてもらったのに一度も勝てた試しがない。組手ではない腕相撲のようなシンプルな力比べでさえ、ピクリとも動かせなかった。
気にはなりつつも、これまでその詳細は聞いてこなかった。
聞いたところで、また「さあ?」と返されるだけだと思っていたからだ。
ところが、それはどうやらまくらの思い込みに過ぎなかったらしい。
ナナは少し呆けてから、店の天井を見上げながら口を開いた。
「私もよくわからないんだけどね。身体の質がそもそも違うみたい」
「質……?」
「うん。細胞レベルで違う……のかな。根本的な出力が違うって、昔言われたような気がする」
「……気がするとは?」
「誰に言われたかも、いつ言われたのかも覚えてないんだ」
古い記憶が思い出せないというのは別におかしな話ではない。
まくら自身も小さい頃の記憶はほとんど覚えていないし、とても印象的な出来事だけをいくつかボンヤリと覚えている程度だ。
……ただ、それでも。
恐らくナナのソレは一般的に古い記憶が薄れていくのとは別物なのだろうということに、まくらは薄らと気づいていた。
たまに、整合性の取れないことを言うのだ。
そして、言っていることにナナ本人が全く気付いていない。
まるで記憶が混濁しているかのように、ナナの体験談は所々歯抜けで、時間が入り乱れている。
そして何より、ナナは一度も「家族」の存在に言及したことがない。
親友だという同い年の女の子「リンちゃん」。その「リンちゃん」と紡いだ思い出は何度も聞いたことがあるのに、ナナ自身の家族については一度も話題に出たことすらないのだ。
その事実から憶測できることは山のようにある。
ただ、それを追求するつもりはまくらにはなかった。
大恩人の、もしかするとなんらかの心傷かもしれない秘密を抉りに行くほど、恩知らずなつもりはなかったからだ。
「……まあ、小さい頃のことって忘れてるものですよね」
「そんな感じ。リンちゃんには『ひとりだけ世界観が違うのよ。私たちと同じ理屈で生きてないの』って笑いながら言われたことあるよ」
「……リンちゃんさんの気持ちもわかる気がします」
世界観が違う。ああ、なんてしっくり来る言葉だろう。
目の前にいて、暖かみさえ感じるのに、立っているステージが違うこの不思議な感覚を表現するにはピッタリの言葉だった。
「あ、そうだ。私今日でココのバイト辞めるんだよ」
「…………ええっ!?」
寝耳に水としか言いようのない突然の報告に、まくらは思わず叫ぶ様な声を出してしまった。
「知り合いの人に来て欲しいって言われてるとこがあってね。マーちゃんももう大丈夫そうだしさ」
もう、店舗には締め作業をやっていたナナとまくらと、それからバックヤードの閉店処理をしている社員の三人しか残っていない。
ナナはここでも人気者だった。少なくとも、辞めるという話が上がったなら送別会くらいは開いてもらえる程度には。
だが、まくらはそんな話を一度も耳にしていない。
もちろんまくらがハブられているという可能性も無くはないけれど、まくらはそこまでこのバイト先で嫌われている心当たりはなかったし、そういう人たちだとも思っていなかった。
どちらかと言えば……。
「……それ、誰かに言いました?」
「店長と社員さんには言ったよ」
「……他には?」
「今マーちゃんに言っただけ」
「……ですよね」
やっぱり、誰も知らない。
ナナが誰にも言っていないだけだ。
(悪気があってとか、そういうことじゃないんだろうな)
一年間。毎日とは言わなくともそれなりに顔を合わせていたし、この職場の人たちよりは長い時間を過ごしたからこそわかる。
ただ、伝える必要がないと思ってるだけ。
根本的に、誰になんと思われようと気にしていないのだろう。
何も言わずに去ったことで不義理だと思われたって、同じ職場で働かなくなればそれが最後だと恐ろしいほどドライに割り切れる。
(いや、この人の場合は同じ職場で嫌われてたとしても気にしないか)
「……ちなみに、次はどんな職場です?」
「わかんない。まだ聞いてもないからね」
「……先輩らしいです。ここは、退屈でしたか?」
「どこで働いてても退屈ではあるよ。働くの自体が楽しいって思ったことはないかも」
確かに、仕事中に営業スマイル以上の笑顔を浮かべてるところは見たことがない。
まくらがトレーニングに励んでいる時にたまに見せてくれる笑顔に比べれば、仕事中のナナは退屈しているのだろう。
(……もう、いなくなっちゃうって言うなら)
まくらはこれまで、意図的にナナのプライバシーや考えを掘り下げるような質問をすることを避けていた。
助けてもらった恩がある。人生そのものをひっくり返されたような、そんな大きな恩だ。
だからナナが自分から語ってくれたこと以外は聞かないし、言われたことは信じる。そんな不器用ながら、まくらなりに誠意のある付き合い方をしてきた。
(さっきの質問にも答えてくれたし、今しかない)
これを機に、聞きたいことは聞いてしまおう。
そう思ってまくらは口を開いた。
「……先輩、お金はいっぱい稼いでますよね。前から気になってたんですけど……借金もないし、お金を使う趣味も目的もないのに、なんでアルバイトを……ハシゴするほどやってるんですか?」
まくらのサポートを頻繁に行う必要がなくなってからは、ナナは相変わらず日に20時間のアルバイトという何を言ってるのかよくわからない生活に戻ったと聞いている。
倉本さんから初めて聞いた時は冗談だとサラッと流していたが、今となってはどうやらそれが事実らしいということもわかっている。
てっきり、お金が必要なんだと思っていた。
だからまくらはトレーニングに付き合ってもらっている時間の分お金を支払おうと提案して、「別にいらないよ。お金には困ってないから」と断られたことがある。
その時に聞けなかったこと。
何故この人はこんなにも働いているのだろう、という疑問。
最後だからと、まくらはそれをナナにぶつけたのだ。
「え……なんで、か」
ナナはキョトンとしてから、少し目をつぶって考える素振りを見せる。しばらくして答えが固まったのか、ナナは目を瞑ったまま言った。
「……ずっと何かに追われてる気がする。ぼーっとしてられないから、何も考えなくていいように働いてるだけなんだ」
「……追われてる、ですか」
「うん。こういうのなんて言うんだろうね」
「……焦燥感、ですかね」
「おお、それかも」
嫌なことがあった時、何かに没頭することでソレを忘れるというのはまくらも経験がある。
大抵は好きなことに打ち込んだりするものだろうが、離婚した後や失恋した後に社会人が仕事に打ち込むなんていうのもよく聞く話だ。
(忘れるために何に打ち込むかなんて、大した話じゃない。問題はそうまでして逃げたい何かがあるのに、ナナ先輩にはそれが何なのかさえわかってないってこと)
歪だ。
肉体が歪だったまくらとは違う。
精神と記憶の在り方が。
明らかにおかしいのに、本人も覚えていないことを理解しているのに、焦燥感をぼんやりと自覚しているのに、ソレを追求する気配すらない。
(……ナナ先輩が何か、大きな問題を抱えてるとして。私にできることはあるの?)
多くのものを貰った。返しきれないほどの恩がある。
……けれど、まくらにはそれを返す手段がない。
まくらにできることで、ナナにできないことはない。
何よりもナナが手助けを望んでいない。助けを求められた訳では無いし、無理に介入していい結果に導けるのかもわからない。
(……はぁ、何考えてるんだろう、私)
突然の報告と、ちょっとした内面の吐露を前に、混乱していた頭を一度リセットするために。
まくらは内心で嘆息した。
(私にとっては人生を変えるような大きな出会いでも、ナナ先輩からすれば少しの間面倒を見ていただけの他人だ。一緒に過ごす時間が、ここのバイトの人より少し多かったってだけで、特別扱いされてるような気分になっちゃってただけ。……おこがましいな、私)
最後にまくらに声をかけてくれた。
そこに特別な意味なんてきっとない。
内心の吐露も、聞けばいつだって答えてくれただろう。今までそれが遅れたのは単にまくらが聞かなかっただけだ。
(これまで聞けなかったことを今更聞いて、この場で慌てて恩返しなんてバカみたいなことはやめよう。もっと早くに知って、長いことかけて考えたならともかく。私なんかがこの場でちょっと考えたからって名案が浮かぶわけないんだから)
まくらは自分が、特異な肉体を除けば凡庸な存在なのかを知っている。凡庸どころか劣ってさえいるかもしれないことを理解している。
だって自分は不器用だから。
「……ちょっと休みすぎましたね。ちゃっちゃと締めちゃいましょう」
「あ、ホントだ!」
だから、踏みとどまれた。
少なくとも今、自分にできることは何もないと。
☆
遅番の帰り道。普段家から迎えを出して貰っているまくらは、徒歩で帰宅するナナと一緒に帰ったことはない。
ただ、これが最後だと思うともう少しだけ一緒に居たいと思ってしまうもので。
ドライバーに少しだけ待って貰えるように声をかけて、近くのコンビニまで一緒に歩いた。
「……まだ、実感湧かないですね」
「なんの?」
「……先輩が辞めちゃうってことです」
「そっか」
プライバシーの漏洩に厳しくなった昨今、ナナの退職を下手に漏らさずに収めた社員一同の対応は正しい。
ナナが抜けた後のシフトが組めてさえいるなら、アルバイトの退職を周知する必要は無いのだから。
そもそも彼らだって「ナナ本人が伝えてるだろうし」と思ってわざわざ話さなかっただけだろう。勘違いモノみたいなすれ違いの結果だ。
(この感じだと、これまでに勤めてたところでもこうだったんだろうな)
社員さんたちはそれなりに責められるだろうな、とは思う。
ナナはそれだけ大きな存在だった。いるだけでどんなに忙しい日でも落ち着いて営業できたのだから、抜けた穴は大きい。
明日からは大変になるなぁ、なんて現実逃避のようなことを考えていると、コンビニの姿が見えてきた。
もう終わりなのか、と思った時。
「……ホントは……っ」
もう少し居て欲しい、と。
ふとした拍子に、嘘偽りのない本音を口にしようとしてしまって、まくらはなんとかソレを抑えた。
(言ったところで、変わらない)
前を向かせてくれた人との別れだからこそ、前を向いていたい。
だから言わなかった。
言わなかったのに。
「マーちゃんに必要なのはさ、私じゃないよ」
ナナはまくらの止めた言葉の先に答えを返してくれた。
「私たちみたいなのを必要としてくれる人は必ずいる。……でも、私とマーちゃんは同じタイプだから、お互い同じ事しかできないでしょ。それじゃ、支え合うことはできないよ」
理屈は、わかる。
自分でできることよりも、自分にはできないことを手伝ってもらった方が、できることの幅は大きく広がる。
先程まくらがナナを手助けできないと思ったのは、二人のできることが被っていて、なおかつナナがまくらの上位互換だったからなのだから。
「いつかきっと、マーちゃんを必要としてくれる人が現れる。私にリンちゃんがいるみたいにね。なんたってマーちゃんには、私にはない魅力だって沢山あるんだから」
「……ふふっ、身長とかですね」
「あっ、言ったな!」
からかうように言ってみれば、ムッとした表情が返ってくる。
できることに変わりはなくても、確かにまくらにはナナには無いものもある。
ナナに見出されたものも、そうでないものも。
そしてそれはナナの役には立たなくても、もっと強く必要としてくれる人がいるはずの魅力だった。
「……次会う時はもっと強くなっておきます」
「うん、期待してる。じゃ、またね」
「はい、また…………いつか」
そう言って、コンビニの前で別れたっきり。
ナナとまくらは、今日に至るまで二度と会うことは無かった。