刹那の旅人
メテオが大地に……ひいては琥珀に直撃する直前、メルティの視界は完全に自らの魔法によって覆われていた。
真理魔法を使えば琥珀は間違いなくスクナを助けに入るだろうと読んでいたし、案の定それは正解だった。
惜しむらくは琥珀の《終式》を目にすることができなかったこと。
この時代における「世界最強の一撃」を数値ではなく自らの目で観測したかったのだが、そう上手くはいかないものだ。
とはいえ終式の発動は多大なデメリットを孕む場合が多い。
少なからずクールタイムは要するわけで、切り札を使えない状況を良しとしない琥珀の選択を否定することはできなかった。
「上位属性程度じゃ簡単に打ち破られる訳ね。流石は鬼神の系譜ってところかしら」
真理魔法は最強の魔法、すべての魔法の行き着く果て。
その言葉に偽りはない。
だが、その中でも「格」はある。炎属性が獄炎属性に勝てないように、属性優位や相性だってあるのだ。
岩石属性の特性は「質量と実体」。魔法という不可思議な力でありながら、物理的衝撃をも発生させられるのが《メテオ》の強みだ。
魔法耐性の高い相手により効果を発揮する属性なのだが、その反面属性相性に関係なく強力な物理攻撃で破壊できてしまう欠点も併せ持っていた。
「それにしても鬱陶しい状況にしてくれたわね」
未だ巨大な岩塊混じりの瓦礫が周囲を取り囲んだことで、メルティの視界は一気に狭まった。
ほぼ間違いなく、琥珀がスクナのために作り出した穴だらけの空中庭園。
この状況が終わったとして、再びメルティと地上戦を繰り広げたとしても同じことが繰り返されるだけ。
どの道勝ち目がない以上、紛れが起こりうるこの状況で最後の攻防を狙ってくるのはわかっている。
「見栄え重視で《メテオ》にしたのは失敗だったかしら」
障害物を魔法で吹き飛ばそうかとも考えるが、真理魔法の使用後、即座に広範囲の攻撃魔法を使うのは難しい。
メルティにはMPを超速回復するパッシブスキルがあるが、真理魔法の使用によって実に1万を超える膨大なMPを一気に削ってしまったことで、瞬間的にMPが枯渇してしまった。
そして、自身を中心に全方位を消し飛ばす広範囲の魔法は最上級でない限り存在しない。
10秒もあればスクナを圧倒していた魔法の乱舞が可能な程度には回復するが、最上級魔法の使用には今しばらくの時間が必要だった。
久しぶりに真理魔法を使って、ちょっとした満足感を得ていたのは事実だ。
空中という自身の庭とも呼べる戦場にあって、余裕を感じていたのもまた事実。
だが、油断はしていなかった。
スクナとの最後の攻防に向けて、メルティが緩みかけた意識を研ぎ済ませようとした──その刹那。
「……………………は?」
言葉にならない言葉が、無意識に零れ落ちた。
気付けば、メルティの正面にある瓦礫のひとつにスクナが着地していた。
七層。ほんの僅かな時間で、気付かぬ間に七層も《時の城塞》が破壊されていた。
認識と同時に、極限まで加速する思考。
それは《時の城塞》に仕込まれた時限発動式の魔法。
時の城塞が一層割れるごとに発動するのは、時空間属性魔法 《クロノスタシス》。
使用者の体感時間を5秒間だけ2倍に引き伸ばす、単純なる思考加速の魔法だ。
多重多層構造魔法陣《時の城塞》。それは極めて頑丈だからこそ《城塞》の名を冠しているが、《時の》という枕詞が付いているのはこの仕込みが理由だった。
元より《時の城塞》の真価は、不意打ちで破壊された際に《クロノスタシス》による思考加速を用いて速攻の反撃に転じるためのもの。
だからこそ、この魔法は頑強さと即応性を兼ね備えた超高等戦術として名が知れ渡っているのだ。
(これ……は、不味い、わね)
完全に意識外の出来事で発生した状況を前に、メルティはこの戦いで初めて本気の焦りを感じていた。
《クロノスタシス》は魔法の分類としては支援魔法に当たる。いわゆるバフ効果を持つ魔法だ。
この手の魔法は重ねがけが可能で、多重魔法を使ってひとりで効果を高めることもできるし、複数人でひとりを強化することもできる。
問題は、バフ魔法には二種類の効果タイプがあることだ。
ひとつは効果が「加算」されるタイプ。
もうひとつは効果が「乗算」されるタイプだ。
加算タイプのバフ効果は「プレイヤーの筋力値を50増加させる」とか「プレイヤーの筋力値を、基礎筋力値の50%分増加させる」といった文章で、特定の数字をそのままステータスに上乗せしてくれる。
対して乗算タイプのバフ効果は「プレイヤーの筋力値を1.5倍にする」だとか「2倍にする」だとか、とにかく明確に「倍加する」ような文言が記載される。
当然ながら、加算タイプよりは乗算タイプの方が強力で、その分クールタイムやらMP消費やらでバランスが取られている。
そして、重要なのは乗算タイプのバフ効果は重ねる度に倍加されることだ。
2倍する効果を持つバフが三重になったのならば、その計算式は2+2+2ではなく2×2×2。つまり6倍ではなく8倍の効果を持つことになる。
さて、当然ながら《クロノスタシス》は乗算タイプのバフ効果。重ねがけされるたびにその効果は倍加する。
そして、《時の城塞》に仕込まれた《クロノスタシス》は一層ごとに1回分。
つまりメルティの意識は今、七重発動の《クロノスタシス》下にある。
思考の加速度は2の七乗、すなわち128倍。
メルティはこの瞬間、1秒を128秒に感じるほどの極限の思考加速状態に強制的に叩き込まれたのだ。
(何をされたのか、見極めないといけない。けれど、このレベルの思考加速を5秒も使ったら、反動で私の魂が壊れてしまう)
思考の加速度を引き上げるほどに、その揺り戻しは大きくなる。その時・その場では何とも感じなかったとしても、通常の思考速度に戻った時に返ってくるのは「128倍の情報量」だ。
勉強やスポーツでよくある、集中している時はハイになっていて気づかなかったが、いざ気を抜くととてつもない疲れに襲われる現象。
それを何十倍にも悪化させたような負荷に襲われるのは避けられない。
常人であれば容易に失神しうる。この仮想空間でプレイヤーが実際にそれを体験した場合、圧倒的な情報負荷による強制ログアウトは避けられないだろう。
では。
回線の強制遮断によって護られるプレイヤーではない、NPCたちがそれだけの負荷を一気に受けたらどうなるのか?
端的に言えば、データが破損するのだ。
一部のゲーム運営用NPCを除き、彼女たちNPCは人間と同じように思考し、経験を蓄積して生きている。
だが、どれだけ彼女たちが人間に近しくとも、仮想空間で生まれ死ぬ以上データの塊であるのもまた事実。
だからこそメルティはそれを「魂が壊れる」と表現した。
とはいえ、だ。
5秒間フルで128倍かそれ以上の負荷を継続すれば相応の痛みを伴うといっても、即死する訳でもなければ許容できる範囲だって存在する。
メルティであれば128倍の負荷を、実時間で3秒分までなら許容できる。これは彼女が《天眼》を持つが故に大きなデータの処理に長けているからだ。
(クロノスタシスを解除するには、アクセを使うか《理の裁定者》を起動するしかない。鬼人族相手にバフの解除手段なんて必要になるとは思わないわよ)
魔法によるバフ効果は、基本的に時間経過以外で解除できない。そもそも、本来なら途中で解除する理由がないからだ。
例外は権能《魔法無効化》を用いるか、それと同様の効果を持つアイテムを使用すること。それにしたって敵に掛かっている効果を打ち消すためのものであって、自分自身に使うのは想定された使い方ではない。
《理の裁定者》に関しては、自身のステータスを改変する形でバフ効果が「発動しなかった」ということにできるため、擬似的な魔法消去を行えたりする。
どの選択をしたとしても、《クロノスタシス》を強制解除した時点でルール違反からの敗北だ。
権能も武器も使わない。それがこの決闘におけるメルティ側のルールなのだから。
魔法を扱う者にとって、アクセサリーは重要な武器のひとつだ。絶対強者の立場であるメルティが任意発動のアクセサリー効果を起動して、「武器は使っていないから」なんて屁理屈を言う訳にはいかない。
かと言って解除しない選択肢もありえない。
遊び気分の戦いで自身の魂を破壊する気は毛頭ないし、そうなるくらいならプライドが傷つく方が幾分マシだ。
それらを踏まえた上で、メルティはひとつの決断を下した。
(いいわ、この戦いは負けを認めましょう。クロノスタシスは《魔封じの指輪》で対処する。その上で……今、彼女が何を掴んだのかを確かめるとしましょうか)
負けを認め、魔封じの指輪に起動のための意識を込める。
とはいえ、128倍の速度で思考する今のメルティからの信号が《魔封じの指輪》に届くのは実時間で1秒はかかるだろうし、信号から発動までも0.5秒程度はかかる。
つまり今から1.5秒、加速する意識内での体感時間に直すと約3分程度は《クロノスタシス》の効果は持続する。
その間に、たった今スクナが《時の城塞》をほとんど一瞬で七層も破壊した手段を解析する。
それが今のメルティに残された、負け確の戦いへのモチベーションだった。
フィールドの状況を精査する。
琥珀がメテオを破壊したのが約7秒前。
残骸と風圧によって穴だらけの空中庭園が作られたのがそれから約3秒後。
スクナはその直後にそれらを足場にして飛び上がり、おそらく2秒前にはメルティを叩ける位置に到達していた。
そこから約1.5秒の間に「何か」があって《時の城塞》が七層まで砕かれた。
メルティの思考が加速してから31秒。
つまり実時間にして約0.25秒の時が流れた中で、スクナはメルティの正面にある大きめの瓦礫に着地したまま動かない。
相当な勢いで降り立ったのか思い切り屈んだような姿勢で、その表情はこちらからは窺えない。
(超高速での攻撃、と見るべきでしょうね。問題はそれだけの速度を出す方法と、攻撃のルートと攻撃手段。《天眼》を通して見る限り、スクナのステータスそのものは計算通りの数値でしかない。神域に片足を突っ込んでいる以上レベル100ぽっちの鬼人族としては破格ではあるけれど、本来なら私を出し抜けるステータスではないわね)
負けを認めたが故に、メルティは《天眼》まで使っての解析を敢行する。
この世界における速度は、敏捷によって決まる。
縮地のようなスキルによる高速移動や、歩法による多少の増減はあれど、基本的な法則としてそれは揺るがない。
赤狼装束の存在や《終式》を含む各種バフによって盛りに盛られたスクナのステータスだが、それでもやはりメルティには見劣りする。
少なくとも数値で見る分には、メルティが目で追えないほどの速度が出る下地があるとは言い難い。
(火力面で見ても、一撃で城塞を七層まで砕けるはずは無いのよね。残光がないのを見るに、アーツを使ってないんだもの。素殴りだけで一撃で七層割るほどの攻撃力は無いはず……ということは、連撃だったってことになるんだけど)
速度面だけでなく、火力面でも感じる違和感。
違和感に違和感を重ねるような……そう、今のスクナの実像は、実際に起こった「結果」からあまりにもズレている。
(…………一度、食らってみようかしら。クロノスタシスはこれ以上発動しないのだし)
スクナの攻勢がここで終わるとはメルティも思っていない。
恐らく追撃が来る。その時には先程と同じ手を使ってくるだろう。
通常の時間軸にいた先程のメルティとは異なり、今は128倍速の世界にいる。
対応できるかはさておいて、何が起こっているのかを観測することくらいはできるはずだ。
そして八重以上の《クロノスタシス》はメルティでも1秒たりとも耐えられないため、最初から重ねる回数には制限をかけてある。自動発動はもうしない。
そういう意味では加速の限界値まで一瞬で叩き込まれたこの状況は理想的に最悪な展開だったと言えるのだが……ともあれ、あえて《時の城塞》を破らせるというのがひとつの選択肢として上がってきたのも事実だった。
下手に時間があるだけ対応も悩ましい。
そんな思考の中、メルティはふとした拍子に気付く。
(沢山の、石ころ? そんなに細かくは砕かれてないはずよ)
空間に疎らに散らばる数センチ角の石ころたちを見て、メルティは疑問符を浮かべた。
琥珀によるメテオの粉砕は、魔法自体の規模がデカすぎた故かかなり大雑把なものに留まった。あるいはスクナの足場を作るために、あえて破壊の規模を大雑把に済ませた可能性もある。
少なくともかつてメルティが見た酒呑童子の《鬼哭滅業》はメテオに等しい大魔法を文字通り粉と化していたから、それだけのポテンシャルがあるアーツではあるのだ。
それに加えて、琥珀が《昇扇乱破》によって暴風を吹き上げたことによって、メテオが粉砕された時にできた細かな石ころは粉々になるか遥か上空に押し上げられた。
少なくともメルティの留まる高度にそんなに軽い石が残るはずはなく、つまりこれは《昇扇乱破》の後に発生した石ころだということになる。
(まさか)
正面に向いた視界に映るだけでも4箇所。
よく見れば、何かがぶつかって砕けたような岩塊がある。
石ころはそれらの岩塊が砕けた時に出てきたもの、という予測は着く。
だがその事実が意味することは、スクナがソレを足場として使ったということ。
(……まさか、本当に?)
そうしてメルティはこの数秒間で何が起こったのかに思い至る。
信じ難い。到底信じられない。
だが、どれだけ否定したくとも結果は確かに残っていた。
(貴女のレベルで、限界突破さえしていない身で……辿り着けていい領域じゃないのよ、それは……!)
微動だにしなかったスクナが、着地の硬直から解放された怪物が、ほんの僅かに沈み込む。
爆発、したかのような飛び出し。
あまりに強い踏み込みに足場の岩塊が砕け散る。
そんな現象を視界に捉え、それでもなお世界は無音だった。
それは理論上可能と言われながら、NPCでは絶対に再現できない、異邦の旅人にのみ許された力。
己が身を削りながら超音速の世界を駆ける、迫撃戦闘における究極戦型。
「音の世界を、旅する者……!」
超越した思考の中で、心の声なのか口に出たのかさえわからないまま、メルティはソレを呟いた。
パリン、と。
続けざまに3回の破砕音。
メテオの前に二層。
先程の七層。そしてここで三層。
それは十二層にも及ぶ《時の城塞》が完全に破砕されたことを意味している。
この不安定な空中庭園を、超音速で駆け巡る異次元機動。
128倍に加速した世界でなお反応することさえ許されない、あまりに純粋な「速度」の暴力。
「ぐ……っ」
全ての城壁を叩き崩し、最後の一撃がメルティの胴に直撃した。
☆
そこまでが限界だったのだろう。
スクナはメルティに直接攻撃を加えた直後に空中で力を失い、そのまま落下していった。
(SP切れ……いえ、マイナスに到達してる。無茶の代償とはいえ、楽しませてもらったものね……)
それなりに、無視できない程度のダメージ。
何百年ぶりかもわからない、戦闘中の物理攻撃による衝撃。
未だ加速した思考の中、コマ送りのように緩やかに落ちていくスクナを見て、メルティは静かに指を銃の形に構える。
SP切れでさえとてつもない苦しみを味わうというのに、アンダーフローの苦痛はどれほどか。
既に受けている苦痛は尾を引くだろうが、これ以上悪化させるのも忍びない。
故にメルティは苦悶の表情を浮かべて落下していくスクナへ、手向けの魔法を用意した。
「《デス》」
それは、200以上のレベル差がある相手を一方的に抹殺できる死の魔法。
今のスクナの状況がわかっているからこそ、戦いの終わりを告げるために、メルティはあえてこの魔法を撃ち込んだ。