ひとつの物語のエピローグ
かつてなく長いです。
ラン兄が持ってきた三本の薬。
その中で最初に飲むように伝えられた薬を飲んだ私はほどなくして意識を失い、次に目を覚ましたのはWGCS本戦大会の前夜、大体夜の7時を過ぎる頃だった。
数日に渡る睡眠……というよりは昏睡。脳の機能をほとんどシャットダウンすることで強制的に休ませるための薬。
めちゃくちゃに強い薬だし、恐らく連日の睡眠を継続させるために別の麻酔なんかも使ったんだろう。
薬ひとつでそこまで深い眠りにつける訳がないし、仮にそんな薬があったらむしろ永遠の眠りになりかねないんだから。
とはいえ。
目が覚めた途端に頭痛は再発したものの、たった数日でも完全に脳を休めたおかげで意識はとても冴えていた。
WGCSは海外で行われる大会だ。本来なら面倒な入国審査も、大会自体の参加手続きも何もかもが全て終わっていた。
そういうところで抜け目がないのがラン兄のいいところだ。ロン姉だったらポカをしていてもおかしくない。
状況確認のついでに、この数日で集まった情報も頭に詰め込む。
こんな直前に今更WGCSで役に立つような新情報が入ってきたりはしないけれど、習慣になっているからついついやってしまう。
「あら……へぇ、見つかったのね」
情報をさらっていく中で、意外な朗報を見つけた。
それは、ここ1年ほどずっと探していたひとりのプレイヤーに関する情報だ。
プレイヤーネーム《No.666》。
ゼロウォーズ3に手をつけた頃、かつて一度だけマッチングして大敗北を喫した相手。
たった一度の戦いでわかってしまうほどの衝撃。ある意味では私やナナに匹敵する才能の持ち主であろう謎の天才プレイヤー。
今はまだその才能を開花させきってはいないけど、それだけのポテンシャルを秘めているのは間違いない。
活動期間がおそらくひと月もなかったせいで、界隈ですらチラホラと名前が上がる程度のまま消えてしまった。
それがあまりにも惜しくて、この大会が終わったあとに本格始動するであろう私のチームに一番欲しい人材として追っかけていた相手を、ついに特定するに至ったらしい。
「組織ごと潰して拾い上げるか、直接買い取るか……ま、その辺は実際に会って聞くのが早そうね」
プロフィールを見てみると、少し手を出すのが躊躇われる内容が記されていた。宗教系の、言ってしまえばヤバめな企業が手がけるとあるプロジェクトの被験者だったからだ。
才能ある人間には価値があって、欲しいからといってそうポンポンと手に入れられるとは限らない。
取り合いになることもあるし、なにより人間には心というものがある。何より重要になるのは本人の意思に他ならないからだ。
もちろん、この子自身が望むのなら何としてでも奪い取ることはできるけど。
ただ何となく、この子は手に入れられるような気がした。
根拠なんてない。でも……今の私はすこぶる冴えているから、そうなるに違いないと思えた。
「凜音様、明日のご予定ですが……おや、何かいいことでもありましたか?」
「ちょっとした朗報がね」
「それは何よりです。ふふ、凜音様の笑顔を見たのは久しぶりですね」
メイドの夏鈴がそんなことを言いながら、明日のスケジュール表と会場の地図を持ってくる。
一度見れば不要なものではあるけれど、持っておいて損する訳でもない。特に最近は突然意識が飛ぶようなことも多かったから、自分の記憶だけを頼りにするのは少し怖いしね。
それにしても私、今笑顔を浮かべていたらしい。そんなこと全く意識していなかった。
「そうだったかしら?」
「ええ、ここ2年ほどは見た記憶がありません。菜々香様に会って来た日も帰宅される頃には苦しそうにされてましたから。紫蘭様が持ってきてくださったお薬がよく効いたおかげでしょうか?」
「そうね。久しぶりに身体が休まったのは確かよ」
起きている間の頭痛は薬を飲む前と全く変わらない。脳が過剰に機能してしまうことで発生する痛みである以上、根本の解決にはなっていないからだ。
ただ、一時的に寝不足が解消されたことでずっと重かった身体の方がかなり元気になっていた。
要するに溜まりに溜まっていた寝不足の解消と、何よりも全身の疲労感が取れた。夏鈴に介抱してもらわなければ移動すらままならなかったのが、自分で立ち上がって情報を整理する余裕があるほどだ。
もちろん万全からは程遠いけど、無意識にテンションが上がってしまうくらいには元気になったということなんだろう。
「明日は本番ですね。勝算はどうでしょうか?」
「そうねぇ。予選はDokuroとは別ブロックだから、明後日の決勝までは残れるでしょ。とはいえ、明後日に関してはとても読み切れない。指先が薬を飲む前より繊細に使えるから多少は予測も上振れるけど……それでも確実とは程遠いわ」
「ふむふむ、ままならないものですね」
「敵はDokuroだけじゃないしね」
一番読めないのはDokuroで間違いない。
ただ、単純に世界トップクラスのプレイヤーだけが集まるのがWGCSという大会だ。
誰も彼も私よりずっと優れたプレイヤーであり、純粋なゲーマーだ。ほんの一手の読み違いと油断が命取りになるシビアな戦いになることは間違いない。
だからこそ、彼らは読み易いとも言えるんだけど。
「ま、何とかなるでしょ」
「……これは珍しい。まるで菜々香様のようですね」
「なんのことよ」
「その失敗することを微塵も考えていないような楽観的な感じがです。先日紫蘭様に八つ当たりしていた時の余裕のなさが嘘のようですよ」
「うっ、あれを見てたの……ま、まあ私も余裕がなかったのよ。今思えばあんなに思い詰めるようなことでもなかったってだけ」
ラン兄に弱音を吐き出してしまったのは……まあ、仕方ないことだとは思っている。
私が弱音を真っ直ぐに吐き出せる相手は少ない。それこそラン兄、ロン姉、ナナの3人くらいだ。
レン兄やお母様、お父様相手だとどうしても強がってしまうし、燈火の前ではそもそも弱みを見せられない。他の親族なんて以ての外で、それはリスナーだって同じこと。
だから、ラン兄が来てくれたことで気持ちの蓋がものすごく緩んでしまった。その結果がアレだ。恥ずかしいとは思わないけど、情けないとは思う。
薬を飲んで元気になったからって、Dokuroという男をどうやったら超えられるのかの答えは出ていない。
でも、こんなのは結局気の持ちようだ。
できない、どうしようもないと嘆いているより、何とかなると思って気楽に構えていた方がいざという時の機転も利く。
「とりあえず今は調子を整えることだけに尽力するわ」
「それがよろしいかと。お夜食は食べられますか?」
「そうね、お願い」
「はい、かしこまりました」
足取り軽く部屋を出ていった夏鈴を見送り、改めて明日の対戦相手の情報をさらっていく。
この体調の良さが明日まで続くかもわからない以上、より多くのシミュレーションをしておく必要がある。
泣いても笑ってもあと二日。優勝を掴むために、私は最後の悪あがきを始めるのだった。
☆
ラン兄が持ってきた残る2本の薬は、鎮痛系の薬だった。
つまるところ単なる頭痛薬。ただ、私の頭痛は普通の頭痛とは違う原因だから、アプローチは市販のものとは大きく異なるはず。
そこら辺が新薬をわざわざ開発しなければならなかった理由なんだろうけど、細かいことは私の知ったこっちゃない。
重要なのはドーピング検査に引っかからない成分であることと、実際に私の頭痛が一時的とはいえ改善されたという事実だけだった。
「凜音様、いい顔をされてますね」
「ふふふ、我ながらここ数年で最高に調子がいいわ」
全身に力が漲る……とまでは行かないけれど、昨晩に比べても頭痛が弱まっている分だけ思考が更にクリアになっている。
まず間違いなく過去最高に調子がいい。予選大会で負ける気なんて微塵もしないくらいには。
「それは重畳。さて、ここから先は選手のみが進める領域です。私は怜様と合流して客席から応援しておりますね」
「よろしく。というかお母様、やっぱり来てるのね……」
「光輝様も来ていますよ。ここに来ていらっしゃらないのは恋夜様くらいのものではないでしょうか?」
「親族大集合って訳? みんな暇じゃないくせに、予選の観戦からなんてわざわざご苦労なことね」
「それだけ愛されているということでしょう」
「知ってる。じゃ、行ってくるわ」
微笑みながら見送ってくれた夏鈴に背を向けて、選手控え室に足を運ぶ。
疎らにすれ違う選手たちは、誰も彼もが名前を見ただけで驚くような有名人ばかり。少なくともひとつの国のトップに立てるだけの実力を持った猛者だけしかいないのは間違いなくて、誰も彼もが緊張した面持ちだった。
私だって有名人にあったらドキドキするくらいの感性は持っている。でも、残念なことに今回の大会参加者に関しては夢に出るほど詳細に研究を重ねたから、もう見飽きてミーハー気分にもなれなかった。
そうして自分の控え室に着く直前、ひとりの男が通路の真ん中に立っているのが目に付いた。
『お前さんがリンネであってるよな?』
『ええ、初めましてになるわね。eスポーツの皇帝さん?』
訛りの強い英語で話しかけてきたのは、Bボーイ風の装いに身を包んだ黒人男性。身長は燈火にも匹敵するほどなのに、不思議と威圧感はなかった。
これがeスポーツの皇帝とまで呼ばれる世界一賞金を稼いだプロゲーマー・Dokuro。
実際に彼はプロゲーマーであると同時にBボーイ、つまるところブレイクダンサーでもあって、そちらの世界でもそこそこ有名なはずだ。
勝利の女神に最も愛された男との邂逅は突然であり、そして想定通りでもあった。
『うはぁ、何度聞いてもダセェ通り名だぜ。そう思わねぇか? 戦術の魔女さんよ』
『でも嫌いじゃないでしょ? 皇帝』
『大好きだね! なんたって俺が世界の中心って感じがするだろ?』
『まるで子供ね。噂に違わずってところかしら?』
『ゲームに人生かけてるやつがガキじゃなくてなんなんだって話さ! 大人になりきれねぇやつがハマるのがこの世界だろーがよ』
漫画なら「HAHAHA」とでも手書きの効果音がついていそうなほどテンプレートな笑い声を上げて、Dokuroは心底楽しそうに笑っていた。
底抜けに明るく、悩みなんて一切ないような能天気さ。
どこまでも情報通りで呆れてしまう。ここまで裏表のない人間も珍しい。
『なんだ、もう行っちまうのか』
『馴れ合いに来た訳じゃないもの。アンタだってそうでしょ』
『そうでもねぇが、まあいいや。直近の配信サボってたから気になって見に来たってだけだし、実際に見て安心したぜ。見たことねぇってくらいにいい顔してんじゃねーか』
そんな理由でわざわざ見に来るくらい暇なのか、それだけ私を警戒してくれているのか。
まあ、今日ここで彼が私に会いに来るのも初めからわかっていたことだ。
何もかもが予想通り。1秒のズレもなく遭遇して、吐いた台詞も一言一句、予測から外れることは無かった。
『残念ながら絶好調なの。それじゃ、また明日ね』
『ああ、最高に楽しみだ。てっぺんで待っててやるよ』
サングラスの隙間から覗く透き通るような蒼眼からは、火花が散るような興奮が伝わってきた。
頂点に立つ者の余裕。重圧なんて微塵も感じていないのだろう。
「羨ましいわね……あ、サイン貰い忘れちゃった」
軽く悪態をついたところで、ふとしたことに気がついた。
数少ない日本のゲーム仲間から「Dokuroに会えたらサインを貰ってきてくれ」と言われていたのをすっかり忘れてしまっていたのだ。
「…………なるほど、そういう方向性なのね」
こういう感覚は初めてだ。
世の中に知らないことなんて山ほどある。
知識は触れなきゃ手に入らない。人の時間が有限である以上、世界は未知に溢れている。
でも、忘れるってこういう感覚なのね。
完全に無くなった訳じゃないのに、靄の中に隠れて見えなくなる。そして思い出した途端に靄が晴れる、そんな感覚。
生まれてこの方私の脳には実装されていなかった機能が、今こうして動作を始めた。
足元が崩れるような底冷えする感覚に襲われて、思わずその場でふらついた。
「ふぅ……こっちの方は想定外ね」
薬の副作用は記憶の忘却か、あるいは破壊か。
それとも薬は関係なく、ただ単に私自身にタイムリミットが迫っているのか。
ラン兄は地獄を見ると言っていたけど、なるほどこれは確かに単純な傷や痛みとは比較にならないほどの恐怖感だ。
いいことも悪いことも忘れられない完全記憶能力を呪いだと思ったことは何度もあるけれど、実際に記憶が欠損するというのはこれほどまでに怖いものなのか。
いずれにせよ、頼りにしていた才能が既に枯れ始めていることだけは疑いようもないことだった。
☆
薬を飲んでからしばらくは続いていた微弱な頭痛もすっかり収まり、体調が万全だったからだろうか。
試合前の恐怖感はなんだったのかと思うほど、予選はあっさりと勝ち抜けた。
WGCS本戦大会における《ゼロウォーズ3》の参加人数は96人。予選ラウンドではこれを2ブロック48人ずつに分けて、それぞれ半分になるように4試合を行う。
予選のルールは極めてシンプルで、合計のキルポイントが多い順に上から24人が決勝ラウンドに駒を進めることができる。
キルポイントゼロのプレイヤーが25人以上いた場合や、24位が同着になる場合は平均の生存順位を加味して上位の選手が選ばれる。
まあ4試合もやれば大抵は決着しているものだし、今回もそうだった。私は6キルしか取っていないけれど、それでも余裕を持って予選を突破できたくらいだった。
(事前に立てたシミュレーションは完璧だった。何もかもが全部、私が思った通りに動いてた)
試合の後に全プレイヤーの視点を確認したところ、その全てが私の予想の通りだった。
スタート地点も通るルートも、拾う武器から戦う相手、その勝敗まで何もかもが。
これはあまり知られていないことだけれど、実はゼロウォーズ3ではフィールド全体に散らばる武器の初期配置パターンが完全に決まっている。
合計パターン数は10000パターンを軽く超えるから常人なら覚えられないし、何より「汎用的に強い武器」の配置に限れば100パターン程度を覚えれば大抵のシーンでどうにかなるから、誰もそんなことに意識は割かない。
でも、そこは私の得意分野だ。
試合が始まっていくつかのアイテム配置を確認すれば、今回がどの初期配置パターンに当たるのかは判断できる。
初期配置で誰がどこに行くのかは、それぞれの思考回路から断定できる。それだけ私は彼らの思考をトレースしてきたし、プレイを研究し尽くしてきた。
同じ場所に降りるからと言っていつも同じ行動をする訳じゃなくて、武器や物資の配置パターン次第でその後の行動は大きく変わる。
会敵して戦い始めればまた行動に変化はあるし、その音を聞いたプレイヤーが参戦してくればその分またパターンは増える。
数千、数万、数十万、あるいは数百万パターン。私を含めて48人のプレイヤー全員がどう行動するのかを予測するには、試合ごとにそれだけのシミュレーションが必要になった。
無数に描き出したパターンの中で、私が勝利できるルートは必ずしもひとつとは限らない。
例えば今回は6キルしかしなかったけれど、ルートによっては10、20とキルをすることができなかった訳じゃないのだ。
ただ、人の心理は容易に変わる。タダでさえ悪い意味で目立ちがちな《リンネ》が目につくような結果を出してしまえば、当然明日の決勝では初回からマークされるだろう。
私はできる限り目立たないようにギリギリに、それでいて確実に勝たなきゃいけなかった。
そういう意味で今回の勝利は理想的ではあった。
目立たず、難しいこともせず、余力を残したまま決勝ラウンドに進出できたのだから。
(残り5試合で全部が終わるのね)
決勝ラウンドは5試合。やることに大きな変わりはない。
生き残ること。そして殺すこと。とにかく5試合で最もたくさんポイントを稼げば、晴れてWGCS王者となる。
ここまで来たぞ、という心臓の高鳴り。
ここまで来てしまったぞ、という夢見心地。
そして、敗北してしまったらという怯え。
「……ナナ、私に勇気をちょうだい」
ぐちゃぐちゃになりそうな気持ちを、親友の笑顔を思い出して落ち着かせる。
私は明日、鷹匠凜音の集大成を見せる。
栄光を掴むために、世界の強豪を捩じ伏せる。
☆
「今日で最後、ね……」
翌日。ホテルの自室でこれまでの軌跡を思い返しながら、感慨に耽っていた。
昨日と同じように薬を飲んだにもかかわらず、抑えきれない痛みが脳髄をジクジクと蝕んでいる。
ラン兄がくれた物はあくまでも鎮痛剤。痛みの根幹を治した訳では無い以上、悪化するほどに痛みは増すということか。
つまり昨日調子が良かったのは、これまで痛みに耐えかねて使いきれていなかったポテンシャルを無理やり引き出していたから。
そしてソレは確かに、限界へのカウントを進めたのだろう。
お前の最後の輝きを後押しする薬。
そう、ラン兄は言っていた。
睡眠で無理やり体調を回復させたのも、ドーピング剤とかではなく純粋に痛みを抑えるだけの薬をくれたのも、全部これがわかっていたからなんだろう。
苦痛によって隠されていたのは、私の才能が辿り着ける極点だった。
どうやら私の頭脳の演算能力には、まだもうひとつ先があるらしい。
「凜音」
「…………」
「凜音!」
「あら、ラン兄。どうかしたの?」
いつの間にか部屋を訪れていたらしいラン兄の呼び掛けに、少しフワフワとした気持ちのまま応える。
「試合前には話せないと思ってな。激励に来たんだが、集中の邪魔をしてしまったか?」
「大丈夫よ。考え事に集中してた訳じゃないから」
実際、何となく感慨に耽っていただけで、今日の試合の予想を立てていた訳でもない。なんなら決勝ラウンドまで暇を持て余していたくらいだ。
「Dokuroには勝てそうか?」
「何とかね。お陰様で光明が見えたわ。ありがと、ラン兄」
「そうか。少しでも助けになれたのなら良かった」
そう言ったきり、ラン兄は静かに目を閉じて黙ってしまった。
Dokuroとの戦いでは、どうあっても直接対決を制する必要が出てくる。他人任せで「誰か倒してくれないかな〜」なんて考えているようでは、まず間違いなく負ける。
そしてどれだけ事前に予測を立てようと、直接対決ではどうしてもリアルタイムな判断を強いられる。
だから、一週間前には勝てるビジョンが浮かばなかった。痛みと疲労でどうしようもなく詰んでいて、辛うじて手を動かすのが精一杯という満身創痍だったからだ。
でも今は違う。
絶望的にノロマな反射神経に変わりはないけれど、頭脳も身体も万全以上の仕上がりだ。ミクロの単位でマウスを操作できる確信があるし、Dokuroの思考だって読み切ってみせる。
まあ、そんなピンチを終盤になればなるほど謎の幸運で切り抜けるのがDokuroって男なんだけど。
それでも構わない。勝利の女神があの男を愛しているというのなら、女神ごと喰らい尽くせばいいだけの話だ。
「……もう、辛気臭い顔して。激励に来てくれたんじゃなかったの?」
「ああ、すまない。これで良かったのかと、どうしても考えてしまってな。……凜音、この挑戦は満足いく旅路になったか?」
ラン兄の後悔の滲む瞳を見て、私は思わず笑ってしまった。
ここまでお膳立てをしてくれて。
私が全力で挑めるようにサポートまでしてくれて。
相談も何もしてないのに、ずっと見守っていてくれて。
そして何より、止めることなく背中を押してくれた。
それでも最後に、後悔がないか聞いてくれる。
その家族に対してだけ向けられる愛情の重さは、今も昔も変わらない。
「ラン兄。私ね、帰ったらナナと祝勝パーティでお肉をいっぱい食べる約束をしてるの」
「……ああ」
「世界一になったのよって伝えてね。きっとあの子はなんのことだかわからないまま、ふにゃって嬉しそうに笑って『おめでとう』なんて言ってくれてね」
「そうだろうな」
「私の満足なんて、そんなちっぽけなものよ。ただ、ナナに誇れる私でありたいの。いつかあの子が戻ってきた時の為にもね」
今は暗闇をさ迷って立ち止まっているであろうナナが、もう一度歩き出した時に手を引いて上げるために。
私たちを振り回し続けた才能という名前の呪いの完成系、そして到達点をこの目に焼き付ける。
「だから見てて。相手の行動を予測するなんてチキったことは言わないわ。私はこの手で、望む未来を創り出してみせるから」
求め続けたゴールに向けて、最後の一歩を踏み出した時。
ギリギリのところで塞き止めていた最後の壁が壊れる音がした。
☆
その年のWGCS、ゼロウォーズ3の決勝ラウンドは恐ろしい程に結果が凪いだ。
勝者と敗者が試合ごとに目まぐるしく移り変わり、1試合目の勝者が2試合目では即座に脱落したり、そうかと思えば3試合目では平凡な結果で終わったり。
第4試合が終わった頃には、トップから最下位までの点差が15ポイントしか無いという異例すぎる僅差の戦いになってしまっていた。
4試合が終わり、トップに立っていたのはリンネ。
各試合で目立たず、それでいて後半までコンスタントに生き残り、キルを稼いだ結果がコレだ。
実況としても観客としても、いつの間にかトップに立っていたリンネの存在に首を傾げる程度には目立たなかった。
1位と言っても2位との差は1ポイントのみ。トップから最下位まで誰もが勝利を掴む可能性のある状況は、粘り気のある独特な緊張感を会場に伝播させていた。
リンネはそんな最終第5試合で大勝負を仕掛けた。
運命の5試合目。天下分け目の決戦は試合開始の直後に発生した。
それまでは主にスニーキングによって生き残りつつ後半でポイントを稼いでいたリンネが、試合開始直後に大本命の《Dokuro》に戦いを挑んだのだ。
観客は大いに沸いた。今やどちらも優勝候補で、誰もが薄らと「試合後半の大勝負」になると思っていた戦いが、試合開始直後に発生したからだ。
それはもうつんざくような絶叫が響くほどに、その戦いは注目を浴びた。
その時のことを、Dokuroはこう語っている。
「試合中はな、誰と戦ってんのかなんてわかんねぇ。知っての通りネームは見えねぇからな。ただ、あの時だけはすぐに理解したよ。初動でウェポンもアイテムもほとんど拾えねぇ状態で、ピストル片手に突っ込んでくるイカレた野郎だぞ? あのセオリーなんて知ったこっちゃねぇってプレイに意表を突かれたのは確かだ。的確に死角から降りて攻めてきたのも含めて、完全に計算しての行動だろうよ」
試合開始直後の最も準備が整っていないタイミングで、最強の敵を落としに行った。試合の流れを読み、的確に罠を張って誘い込むというリンネ本来のカウンタースタイルとは大きくかけ離れたプレイだった。
「だが、そんなのは些細な話だ。少なくともピストル一本で殺し切られるなんてこと滅多にねぇからな。オレは落ち着いてたし、油断もしてなかった。不利な体勢を立て直して反撃しようとしたんだ」
試合開始直後にリンネの無謀とも言える強襲を受けたDokuroは、たまたま運悪く回復アイテムや弾倉ばかりが落ちている配置パターンを引いてしまい、防弾チョッキやヘルメット、そして何よりまともな武器を拾えていなかった。
それこそリンネと同じく、手持ちは最も火力に乏しいピストルだけ。とはいえ位置取りも体勢も完全にリンネが有利な条件で、反撃するにも体勢が悪すぎたため一度距離を取ろうと逃げ出した。
「……あれは紛れもない神業だった。建物に逃げ込んで完全に射線を切ったはずのオレに、2発の弾丸が届いたんだ。お前も噂くらいは知ってんだろ? 《魔法の弾丸》、魔弾の射手に登場する必中の弾丸さ」
先制の奇襲で半分程度削られていたHP。しかしDokuroには潤沢な回復アイテムがあり、10秒もあれば反転攻勢にでることが可能だった。
それ故の逃走。それ故の時間稼ぎ。その一瞬視線を切った瞬間に、リンネが放ったのはたった2発の弾丸。
それは文字通り己の全てをかけて放った、必中必殺の弾丸だった。
「2発の弾丸は扉の隙間を抜けて、その先にあった何かに跳ねた! んでもって綺麗にヘッドショット! あえなくオレは試合開始から20秒でノックアウトって訳だ」
そう。優勝候補の筆頭であり、その時点では4位の得点を持っていた《eスポーツの皇帝》は、まさかまさかの最終第5試合で最初に脱落したプレイヤーとなったのだった。
そしてその後、リンネはいつも通りのプレイスタイルを貫いて着実にポイントを稼いでいき、最後は2位のプレイヤーとの一騎打ちを制してWGCSの頂点に立った。
あまりにもあっさりと。そして誰よりも劇的に。
「あの試合のリンネは神がかってたぜ。なんつってもオレだけじゃなく、ラストバレットまで《魔弾》で決めやがったんだからな。計算してできることじゃねぇはずだ。この世界のどんな性能のいいコンピュータを使って計算したって、跳弾なんつークレイジースキルを狙って当てるなんざ不可能って結論だった。それこそ噂の《魔弾の魔女》以外にはな」
ゼロウォーズシリーズの特異性たる跳弾システム。
それは世界中で研究されつくし、未だに完全な制御下に置いたプレイヤーはいない悪魔のシステム。なんなら開発者さえも完全な制御は事実上不可能であると発表しているほどだった。
「だがまぁ……あの時のリンネは確信を持って《魔弾》を撃てた。それだけが真実なんだろ。奇跡でもなんでもねぇ、アイツ自身が掴んだ勝利だ。所詮コンピュータなんて人の手で作られたもんだ。人智を超えたモンスターなら、不可能だってやって退けるんだろうぜ」
敗北した皇帝はそう言って、心底楽しそうに笑いながらインタビュアーの前を去っていった。
WGCS:TPS部門。
ゲームタイトル:ゼロウォーズ3。
優勝者:Rinne。
女性プロゲーマーで初のWGCSタイトルホルダーが誕生した世紀の対戦は、優勝者が試合終了直後に意識を失い病院に搬送されるという、極めて異例の幕引きとなったのだった。
☆
目を覚ました時、微かな痛みが頭に走るのがわかった。
自分の名前を思い出すのに、数秒が必要だった。
まっさらに白く塗りつぶされた脳内をひとつひとつ綺麗に掃除していかないと、自分が何者かさえわからないほどの混濁状態だった。
私は、りんね。
そう、私は鷹匠凜音。
「……そう、だわ。私、大会に挑んでたのよ。えっと、そう、どくろを倒して、そして……勝てたの、かしら?」
WGCSに勝つ。その言葉が強く強く胸に焼き付いていた。
「ああ、お前は勝ったよ。なぁリン、アタシのことはわかるか?」
知っている声が聞こえた。
この声は、そう、安心できる声。
ロンねえ。ロン姉。そうだ、ロン姉の声だ。
その瞬間に、どっと情報が流れ込んできた。いや、いくつかの情報をただ思い出しただけなんだけど。
定まった視界の先には、白い天井とロン姉の顔が映っていた。
「……えぇ、思い出した。勝ってたわね、私。世界の頂点に、立てたのね」
「おう。ちゃんとトロフィーも貰ってきてやったぜ」
ロン姉が親指で指し示す先に視線をやれば、1メートルは優に超えているであろうバカでかいトロフィーがあった。
「でっかい」
「無駄にな。でもまあ、派手でいいだろ?」
「ええ、気に入ったわ。……で、私どれくらい寝てた?」
「一週間はたってねえな。このところ何があったのか聞いとくか?」
「お願い」
「調子悪くなったら言えよな。さて、何から話したもんか……」
ロン姉いわく。
とりあえず私は試合が決着した直後には意識を飛ばしていたらしく、試合後に全く動こうとしない私の肩をMCが揺すったところそのまま頭から倒れ込んでしまったらしい。
脳の酷使で鼻血が出ていたとか、顔が真っ青になってただとか、それはもう一見すると惨劇のようですらあったとか。
幸い怪我はなかったけれど、一時は会場が騒然とした。そしてすぐさま救急車が呼ばれて、精密検査と入院措置が取られた。
試合の結果自体は特に覆ることもなく、主役不在のまま表彰が行われたようだ。
観客やイベントのスポンサーも含めて、後で謝罪しておかなきゃいけないわね。
その後、脳波が安定しない期間が丸3日ほど続き、落ち着いてから更に3日ほど経って、私はようやく目を覚ました。
つまり今日は大会から6日経ったわけだ。
「……あっ、ナナから連絡が来てなかった? 大会の三日後にご飯の約束してたのに、すっぽかしちゃってるわ」
「来てたよ。寝てる間にアタシが勝手にメッセージ送っといた。『忙しくて行けそうにないから、また今度でいい?』ってな。『いいよ〜。お仕事頑張ってね〜』って返信きてたぜ。アイツに心配かけたくねーんだろーって姉貴分の思いやりに感謝しな」
「うん、ありがと。リスケしなきゃね……」
気の利くロン姉にほっとしつつ、ゆっくりと体を起こす。
あれだけ苦しかった頭痛はすっかり跡形もなく治まっていた。間違いなく元気だけど、ずっと脳内がぼんやりとしていた。
そんな私の様子に気づいたのか、ロン姉がため息をついた。
「元通りにはなんねぇか。どのくらい覚えてる?」
「ごめんなさい、元がどのくらいかさえわからないの。ただ……うん、家族とナナのことは大体覚えてる気がする。ここ何日かのことと、あの日のことは意識を失う直前までのことも大抵はね」
正直なところもっとズタズタに記憶が引き裂かれているものだと思ってた。名前しか思い出せないとか、そんなレベルで酷い状態になることも覚悟してた。
実際、目を覚ました直後はそんな状態だったと言っても良かった。
でも往生際が悪いのか、ナナとの思い出だけは全部が鮮明に思い出せて。その思い出の中の私を思い起こすと、不思議な程にすんなりと「私は鷹匠凜音なんだ」と納得できた。
そしたらそれを皮切りに、色んなことが思い出せた。家族のことや苦しかった日々の記憶が断片的に、そしてあの大会の最終第5試合で掴み取った感覚や勝利の味も。
正直、それ以外のことはほとんど思い出せていない。自分のパーソナリティがわかっただけで、他人のことが思い出せないのだ。
鷹匠グループで働いていたのは覚えている。じゃあ鷹匠グループで働いていた時にはどんな人に指示を出していたのか、とか。
ゲームのフレンドとか、SNSのフォロワーとか、リスナーや対戦相手のことも、とにかく他人のことが全く思い出せなくなってしまっていた。
それと、情報が右から左に抜けていくみたいな感覚がする。
これまでは全部をボウルに受け止めて鮮明に記憶してたのが、今はザルに水をかけるみたいに外から入ってくるほとんどの情報を覚えていられない。
普通の人って、こんな状態で勉強をしてるのかしら。
そう思うと、何もかもを全部覚えていられた昔の私はとんでもないアドバンテージを持っていたのね。
「ま、別にいいわ。思い出せないことも覚えられないことも、私にとって重要じゃないってことだし」
「そう思えんならそれでいいさ。今はそうでも、少しずつ治るかもしれねーからな」
「別に治らなくてもいいわよ。今の方がスッキリしてて楽なんだから」
「そうかい。んで、大会はどうだった? お前の求める才能の到達点ってやつは見えたか?」
あの日のことだけは、今でも鮮明に覚えている。
Dokuroとの決戦をあえて初動にぶつけた奇策が刺さったこと。
全てが思うままに動くような、自由自在の未来予測。
あの時の私は間違いなく、世界中の何よりも優れた演算能力を行使していた。
寸分の狂いもない未来を自分の手で創り出し、確定された勝利を掴み取った。
「そうねぇ……辿り着けたと思うわ。何もかも全部が理解るような感覚がした。あれが全能感ってやつなんでしょうね。望むままに未来を描いて、やりたいことが全部できたの。ほんの少しの時間だけど、ナナと同じ世界も見られたし。……何よりさいっこうに気持ちよかった!」
予測が外れたらどうしようなんて悩むことは一切なかった。
全てが思い通りに動く確信があった。
それはきっと、その時の私が覚醒していたからってだけの話じゃなくて、これまで私が積み重ねてきた努力や自信、そして裏工作の全てがあの瞬間に結実しただけなんだと思う。
あれは文字通り、私の集大成だったのだ。
「それが聞けてよかったよ。んじゃ、アタシはもう帰るぜ。今の話に関しちゃランの奴にはアタシから伝えといてやらぁ」
「よろしくね」
「あー、そういや夏鈴が怜おばさんがめちゃめちゃ心配してたって言ってたわ。3年半も無茶したんだ、せいぜいたっぷり絞られるんだな!」
「うげ……」
最後の最後に爆弾を落として逃げるように去って行ったロン姉。
お母様は確かに私を応援してくれていたけど、それは心配していないということではないのよね……。
「仕方ない、素直に叱られましょ」
起こしていた身体を再びベッドに転がし、シーツを被る。
直後に来るであろうお母様の説教に少し憂鬱になりながら、部屋の片隅に飾られているトロフィーを見て、なんとも言い難い高揚感に浸りつつ。
窓の外の青空を眺めて、帰ったらナナとどんなお店に行こうかなんてくだらないことを考えた。
次回から大会編に戻ります。