勝利を掴み取るために
3年前の、8月8日。
リンネにとっては19歳の誕生日。そして1週間後に始まるWGCSの本戦大会を直前に控えた、重要な一日でもあった。
そんな人生において最も印象的な一日の目覚めはとびきりの衝撃と共にやってきた。
「久しぶりだな、凜音」
「……ラン兄?」
実の兄、紫蘭の来訪。
それは凜音にとっては青天の霹靂であり、全く予想外の出来事だった。
☆
鷹匠紫蘭という男は、リンネをして「完璧」と言わざるを得ないほどにあらゆる分野に秀でた人物だ。
人類としての最高峰。弱冠20歳にして父から鷹匠グループ総帥の地位を継承し、それ以来規模を拡大させ続けている傑物。
リンネやナナのように、人智を超えた才能を持っている訳ではない。
ただ、人間の範囲内で「容姿」を除いた全てが最高峰のスペックであるというだけのこと。
総合力においてあらゆる人間を凌駕する怪物。それがリンネにとっては自慢の兄・鷹匠紫蘭だった。
「起き上がれるか?」
「……無理」
「ふむ、思考の応答がやけに遅いな。体調の悪化はそれほどか。普段の生活はどうしてるんだ?」
「……夏鈴に、全部任せてるわ」
「妥当なところだな。夏鈴は俺から見ても使える娘だ。本当なら菜々香に付いていて欲しいところだが……アレは今爆弾を抱えているからな」
寝床から動けないリンネを起き上がらせながら、紫蘭はそう言った。
紫蘭は基本的に、他人を自分にとって使えるか使えないかという価値でしか判断しない。有用ならば重用する。無能ならば切り捨てる。肉親以外に対しては極めてドライな判断を下す。
そんな紫蘭の中で、肉親という例外であり、かつ末の妹という立場のリンネは目に入れても痛くないほど可愛い妹だ。
紫蘭にとってナナのような画一性を欠く飛び抜けた個は特段に有用な存在ではないが、その能力の高さは認めている。そしてなにより、愛する妹にとってナナほど有用な存在もいない。
故に紫蘭はナナを間接的に高く評価している。かけがえのないパーツであるが故に、リンネ絡みのことであれば真っ先にナナを呼び付ける程度には。
だが、今のナナは何をきっかけに爆発するか分からない爆弾のようなものだ。下手にリンネと長時間過ごさせて封じられた記憶が甦った時に、リンネに危害を加えない保証がない。
全てはリンネ本意の考えではあるが、ナナをできる限り頼らないという妹の意志と紫蘭の判断は一致していた。
ちなみに夏鈴はリンネ直属のボディガード兼メイドの名前である。
「……何しに来たの? わざわざ、自分で来るなんて」
「愛する妹の誕生日だぞ? 俺が出向くのがおかしいか?」
「……おかしいから、言ってるのよ。総帥を継いでから、誕生日に帰ってきたことなんて、なかったじゃない」
「それもそうだな。お前と直接話すのももう何年ぶりかわからないくらいだ」
少しバツが悪そうに笑う紫蘭に、リンネはため息をついた。
兄も従姉も忙しかったから、誕生日はいつもナナやトーカと過ごしていたのだ。寂しかった訳でもないしそれを恨んだことも一度もないが、「会いに来る理由」としては弱いのは間違いなかった。
「では本題に入ろう。ここ3年、お前は莫大な資産と労働力を費やして情報を集めていたな」
「……ええ。随分と、時間がかかってしまったけど」
紫蘭の言う通り。
16歳で挑んだWGCSで完敗し対プレイヤーに特化してメタを張ることを決めてから、リンネは動かせる人材の全てを、今後WGCSの競技対象になりうる全てのゲームのトップランカーを調査するのに費やした。
リンネが絞ったゲームタイトルの数は13。それだけのタイトルを集めれば、プレイヤー総数はランキングに記載されるプレイヤーだけでも1万を優に超えた。
調査に必要な時間や労力を考えれば、何もかもが足りない。毎日数億円単位で飛んでいく資産は気にせず、とにかく金と労働力を費やした。
プレイの傾向や実際のプレイ動画など誰でも確認できる情報は当然として、本名に生年月日に家族構成に住所など、個人情報から経歴、そして友人関係まで。
特にトッププレイヤーに対しては重点的に調べ上げ、ひとりひとりを丸裸にしていった。
鷹匠グループの持つ世界の隅々まで行き渡る影響力と、リンネ自身の持つ資金の暴力。
公権力を遥かに上回る情報収集力がリンネのバックには付いていた。
かき集めた膨大なプレイヤーデータのインプットにはそれほど苦労しなかった。
情報が視界にさえ入ってしまえば、脳みそには勝手に記録されていく。ナナのように強引に思考のクロックを上げなくても、リンネの頭脳はそれを可能にしてくれる。
大量の情報を一気に分割して表示できるよう特注のモニターを用意して、同時並行で別の情報を音として聞きながら、集めた情報を並行して記憶した。
記憶さえしてしまえば、それらひとつひとつの内容確認は分裂しすぎて数え切れなくなった並列思考に投げてしまえばいい。電源がオフにできなくなっただけで、解析用のスペースは常にがら空きなのだから。
膨大な情報の記憶。
そして記憶した情報の解析により生み出される予想図。
それは積み重なれば積み重なるほど強い武器となり、リンネを勝利に導いてくれた。
情報を集め始めて2年半が経った頃には、世界中のトップゲーマーたちに加えて、eスポーツ業界に関する公式情報から裏情報にゴシップの内容まで、ありとあらゆる情報が彼女の手のひらの上にあった。
あるいは、悪用すればeスポーツというひとつの業界を壊滅に追い込めるほど危険な情報さえも。
別に、リンネは正義の味方ではない。
見つけた悪事を暴いて業界を浄化するんだ、なんて初々しい正義感など持ってはいなかった。
ただ、簡単に蹴落とせるのならそれに越したことはない。
自らスネに傷を負ってくれているのなら、そこを抉りとることに躊躇いはないというだけのことだ。
そうしてリンネは全体の数パーセントに満たない僅かな悪質プレイヤーを、戦わずして脱落させた。
とはいえ、大抵のプレイヤーは清廉潔白とは行かなくとも犯罪なんて犯していないものだ。
とりわけリンネにとってWGCSを優勝するための壁であるトップ層に関しては、突っつける様な闇がないプレイヤーがほとんどだった。
元々蹴落す目的で集めた情報ではなく、あくまでも対戦プレイヤーを研究するために集めた情報だ。
直接ダメージを与えられなくとも、リンネが精緻な情報という何にも代え難い武器を手に入れたのは事実だった。
「正当な報酬の対価を払っている以上、それをどう使おうが咎めるつもりはない。お前が集めた情報でグループ全体も大きな利益を得ているからな」
「……じゃあ、何しに来たの」
「恐らく今年が限界だろうと龍麗から聞いたのでな。恐らく壁に突き当たっている頃だろうと思い、激励も兼ねて会いに来たんだ」
「……はぁ、よくわかってるわね」
ありとあらゆるデータを集め、インプットするのにかかったのは、決して短い時間ではなかった。
不完全に集めた情報は無駄にこそならなかったが求めた結果には繋がらず、その間にあった2回分のWGCSでは繰り返し敗北を味わわされた。
WGCS以外の公式大会ではいくつか世界一に輝いたものもあったが、欲しい栄誉はソレではない。
日に日に身体は弱っていったし、酷使され続けた脳神経はきっとズタズタに傷つき焼け焦げていた。
最近は集中するどころか、あまりの痛みで気づけば意識が飛んでいることも多くなった。
ナナに会う頻度が一番多かったのもこの頃だ。あの子に会っている間だけは脳がゆっくり休まった。定期的に脳を休めないといつ壊れてもおかしくなかった。
このペースだときっと来年までは持たない。
次のWGCSが最後になると、そう確信していた。
そして紫蘭が指摘した通り、その最後の大会に向けて最大の障害がリンネの前に立ちはだかっていた。
「……データは、所詮データでしかない。試合中に成長する人間もいれば、そもそも限界を出し切ってない奴もいるでしょ。データからじゃ見えない力は、私の予測を簡単に壊してくる」
苦々しい笑みを浮かべて、自嘲するようにリンネは言った。
どれだけ情報を仕入れて研究を重ねても、リアルタイムで状況が変わっていくオンライン対戦ゲームでは、予測は所詮予測でしかない。
一対一で戦える格ゲーならともかく、数十人が同時に全く異なる思惑で行動するバトロワ要素の強いゲームでは、プレイヤー毎に個別に立てた予測は簡単に覆される。
スポーツ漫画でデータを駆使するキャラが主人公の想定外の成長に負ける、なんてテンプレな展開があるが、リンネの敗北はまさにソレそのものと言っても良かった。
仮にリンネの予測が完璧にハマった試合があったとしても、対戦相手が本番でこれまで引き出せなかった実力を発揮してきたなんて事象は山ほどある。
他人の成長性を組み込んだ予想図が描けない。
それが今のリンネが最後のWGCSを迎える前に抱えている悩みだった。
「なるほど、やはりネックは《eスポーツの皇帝》か。アレもまたひとつの極致に立つ男だからな。eスポーツプレイヤーの価値は強さではなく、上手さでもなく、ただ勝ち続けることだと証明する最強のプレイヤー。流石のお前も弱音を吐くか」
「……どれだけ予測を立てたって、必ず超えてくるんだもの。それを考慮して再計算したら、さらに上から潰される。やってらんないわよ」
eスポーツの皇帝・Dokuro。
それはTPSやFPSといったシューティングゲームのジャンルにおいて、異なるゲームタイトルで合計三度のWGCS優勝という大偉業を達成した怪物の名前だ。
獲得賞金総額は50億円を超える、eスポーツドリームの象徴。
そして今年リンネが挑むWGCS本戦において、《ゼロウォーズ3》というTPSジャンルゲームで必ず激突する相手でもあった。
ジャンルが同じとはいえ、複数のゲームで世界トップクラスの実力を発揮できる器用さと切り替えの早さに関しては、紛れもなく世界屈指の才能。
ただ、彼自身のプレイヤースキルが世界一と讃えられたことは一度たりともない。
どこまで行ってもDokuroの技術は一流止まり。超一流の領域には踏み込めない程度のものだった。
だがDokuroは勝ち続ける。どんなピンチも乗り越えて、僅かなチャンスを掴んで勝利する。
そう、まるで物語の主人公のように。
「……勝ち続ける男。特別に上手い訳じゃないくせに、大舞台になると何故か勝利を掴み取る。データ上は明らかに劣った実力しかないのによ。あんなに理不尽な存在が許されていいの?」
「ふっ、それに関してはお前もある意味理不尽側だと思うがな」
「……うっさい」
「図星を突かれたからといって拗ねるんじゃない」
ぷいっとそっぽを向くリンネに、紫蘭は呆れたようにそう言った。
最後のWGCSでリンネが出場権を勝ち取れたのは「ゼロウォーズ3」のみ。そしてそこにはDokuroが参加する。
リンネからすれば、不可思議に勝利を掴み取る不確定要素の塊であるDokuroは最大の敵であり、目標を阻む壁なのは間違いない。
ただし、リンネとDokuroの二人を除いた残りの参加者から見た二人の脅威度が大差ないのも事実だった。
この時既に《凶獣》《戦略の魔女》《地雷原》などと大仰かつ厨二チックな通り名で呼ばれていたリンネは、徹底的なメタ戦法とカウンター戦略に特化したプレイヤーとして悪名を轟かせていた。
ただ居るだけで試合が荒れる。強すぎるからではなく、その戦い方があまりにも悪辣すぎるからだ。
やりたいと思ったことの全てを掻き乱してくるのがリンネというプレイヤーの最大の強みであり、あらゆるプレイヤーから嫌われる所以だった。
勝利の女神に愛された男と、盤上を掻き乱して食らう悪魔。
共に単純な「上手さ」とは別のベクトルに強みを持っているからこそ、二人は最警戒の対象とされていた。
「この世界には奇跡に愛された存在というものが確かに有る。それこそ俺たち鷹匠の血筋はその典型だし、菜々香のような凝集された血の結晶も含まれる。そしてお前が倒さねばならん《皇帝》は紛れもなくそのひとりだ。俺も詳しく知っている訳ではないが、あの男はゲームで例えるのなら正しく《主人公》と言ったところだろう」
「……そういう喩えをするの、珍しいわね」
「俺とてゲームへの理解はある。そしてこれは一般論だが、ドラマティックな勝利はいつだって望まれた者に訪れるものだ。望まれているからこそドラマになるとも言えるがな」
「……アイツは、Dokuroは勝つことを望まれてるってこと?」
「間違いなくな。弱者が強者を打倒する下克上はカタルシスを感じられるものだが、絶対強者の君臨もまた期待と羨望を受けるものだ。それはお前にもわかっているだろう」
紫蘭の指摘に、リンネは渋々頷いた。
そうだ。そんなことは言われなくてもとっくにわかっている。
わかっているからこそ悩んでいるのだから。
「情報を集め、プレイヤー本人に対してメタを張る。瞬発力を使わず、予め決めた通りにキャラクターを動かすだけで勝利するか、予想を覆されて敗北するか。それは体力がほとんど残っていない今のお前が考え出した、ギリギリの戦い方なのだろう」
「……ええ、そうよ」
その場その場で状況に応じて対処するだけの体力が残っていないリンネは、体力の消耗を限りなく減らすためにある戦法を編み出した。
それは全プレイヤーの行動を完全に予測し、予め全ての操作を決め打ちしてしまうことだった。
全ての試合で、決められたタイミングで決められた通りにキーを入力するだけ。そこに工夫や反射神経や技術は必要なく、何かを判断する必要さえない。
集めに集めた膨大なデータと、それを元にした思考のトレース。理外の演算能力による未来予知に近い行動予測が可能にする、究極のオートパイロット。
流石にいくつかのパターンを用意して適宜切り替える程度の柔軟性はあるが、リンネはたったそれだけでWGCSの国内大会を制したのだ。
そしてパターンの決められたオートパイロットであるが故に、完全にパターン外の行動をされると大きく崩れて立て直せなくなる。
それこそがリンネの頭を悩ませている、想定を遥かに超える「試合中の成長」である訳だった。
「相手の行動に全てを依存するその受け身の戦法は、確かにお前の能力に合ったものだ。サバイバル形式のTPSゲームで50人近い人間全ての行動を予測しきるその演算能力は、もはや人知で推し量れる領域の力ではない。……だがそれでも、他人に勝敗を委ねるような戦い方をしていては《皇帝》には敵わない。このまま行けば敗北するのはお前の方だろうな」
「……そんなの、私が一番分かってるわよ……!」
敵の行動に完全に依存する、リンネの意志が介在する余地の一切ない戦い。
なんなら正確なキャラコンさえあるのなら、リンネが操作する必要さえないその戦い方。
紫蘭に指摘されるまでもなく、そんな消極的な戦い方に誰よりも苦痛を覚えているのはリンネ自身だ。
だが、弱音を吐いたところで痛みが治まる訳ではない。
力の入らない身体が元気になる訳でもない。
頭痛でまともに眠れない状況が改善される訳でもない。
リンネはただ、地獄の中で唯一見出した光明にすがりついているだけだった。
そして、それをわかっているからこそ紫蘭は今日ここにやってきたのだ。
「いいか、リンネ。今日俺がここに来た最大の理由は、お前が抱え続けている頭痛を取り除いてやるためだ。大会の二日間、実質40時間に満たないであろう限りなく短い時間に、お前が全てをぶつけられるようにな」
「……そんなの無理よ。もうずっと変わらないままなんだから」
この頭痛を抑えられれば、なんて毎日のように思ってきた。
ナナと過ごす時間のように安らかな気持ちで大会に挑めたらどんなに幸せなことだろうと。何度も夢見て、そんな気持ちを甘えだと切り捨て続けてここまで来たのだ。
諦観のまま項垂れるリンネの頭を撫でながら、紫蘭は力強く語った。
「できるさ。お前が13歳の頃からこれまでずっと頭痛に苦しんでいる間、俺たちが何もしていなかったと思うのか? ……本当なら、病巣を完全に取り除くような特効薬が作れればよかったんだがな。もどかしい医療技術の限界と、そして龍麗の一声で、お前の最後の輝きを後押しするだけの薬になってしまった」
最愛の妹の破滅を後押しすることしかできない悔しさと、少しでも意味のある時間を与えられる喜びが交じった瞳でそう告げる紫蘭を、リンネは黙って見つめていた。
紫蘭が取り出したのは、三本のアンプル。特別な液体が入っているようには見えないが、それが今しがた話していた薬であることは容易に理解できた。
「流石に違法な薬物ではないが、とても『強い』薬だ。終わった後に地獄を見る覚悟があるなら、お前にこの薬を渡そう」
強い薬。違法ドラッグが強い依存性を持ち、抗がん剤が苦しい副作用を伴うように、強力な効果を持つ薬にはそれなりの代償が付き物だ。
無理やり頭痛を抑えられたとして、その代償はいかほどか。きっと、正気でいられるようなものではないのだろう。
構うものかと、リンネはアンプルを持つ紫蘭の手を強く握り締めた。死にたくなるような苦痛を、この数年嫌という程味わってきたのだ。
「…………馬鹿にしないで。地獄なんて、ずっと見てきたのよ」
「ああ。お前ならそう言うと思っていた」
「……終わった後にどうなっても構わないわ。お願い、ラン兄。私に力を貸して」
薬の効果があるかどうかなんてこの際どうでもいい。
気休めでも何でも、自分ひとりではどん詰まりだったこの状況に少しでも風を吹き込むことができるのなら、悪魔に魂を売ったって構わない。
元より壊れる前提でここまで駆け抜けてきたのだ。
地獄に踏み込む覚悟など、最初から決まっていた。