それぞれの代償
ちゃんと過去編を書くことにしたのであと3話くらい続きます。
あれから1ヶ月が経ち、中等部の卒業シーズンまでまもなくといった頃。
私はナナと離れてから、学校に行くことをやめていた。
元よりナナと学生らしい青春を送るためだけに通っていただけで、義務教育自体に価値なんて見出してはいない。あんなの、2歳の頃には終わってるんだから。
それはそれとして。
私たちにとっては幸いと言うべきか、あれだけ大きな心の傷を負ったナナもひと月も経てばある程度は回復して、ご飯を食べたり睡眠を取ったりと生きるための意欲は見せてくれていた。
ロン姉の定期的な声かけにもちゃんと応えていたし、判断能力もちゃんと回復している。
やることがなくて退屈そうにしてはいるものの、逆に退屈を感じられるほど元気であることを鑑みれば、あの子が両親の後を追う心配もなくなっただろう。
この分なら、ナナとまた一緒に居られる日も遠くはないかもしれない。
そんな明るい未来を想起できるくらい、良好な経過だった。
「それだけなら、よかったんだけどね……」
良好な経過に反して大きな問題もあった。
それは、あの子の記憶の混濁と喪失。
事故の日から先だけでなく、事故の前の記憶まで、ナナの記憶はその半分以上が無くなっていた。
特に喪失が顕著だったのは、両親との記憶だ。あのクリスマスの日に至っては、何をしていたのかさえ覚えていなかった。
ナナはただ漠然と「お父さんとお母さんは事故で死んだ」という事実だけを認識しているようで、あれだけ愛していた両親のことを他人事のように語る姿には、ロン姉ですら困惑したほどだった。
「アイツは両親が関わる「記憶」に関して、その悉くを「記録」に置き換えることで心の傷にフタをしたんだ。少なくとも今は心が耐えられねぇってな」
「今は、ねぇ……でも、戻りつつはあるんでしょ?」
「おう。一応リンやアタシ、トーカあたりしか関わってない記憶は寝る度にちまちま思い出してるみてぇだが…… 物によりけりだな。両親に関してはさっぱりだ。まあ、ナナのヤツに関しては完全な記憶喪失と言うよりは記憶の隔離でしかねぇから、刺激を受ければいずれまた全部思い出すとは思うぜ」
「その時までにあの子の心が傷に耐えられるくらい癒えて……強くなっていればいい訳ね」
「そういうことだな」
一見すると治ったように見えるけど、傷が塞がった訳ではない。それなりに強固に蓋はしているんだろうけど、その蓋が外れてしまえば傷はまた開いてしまう。
薬物のフラッシュバックと同じようなものだ。もう一度ソレを思い出してしまった時に耐えきれるかどうかは、ナナの精神力次第でしかない。
「アタシもそろそろ探検に戻らなきゃなんねぇ。部下の一部はこの国に残してくが、ナナがひとりで立てるようにリンがちゃんと見ててやれ。アイツに残された記憶は、そのほとんど全部がお前との記憶だ。その意味はわかるだろ?」
「……ええ。泣きたくなるくらいにね」
そう。ご両親との記憶のほとんどを無くしたナナだけど、残された記憶のほとんどは私と過ごした思い出だった。
なぜ残ったのかなんて聞くまでもない。今のあの子にとっても、私の存在がそれだけ価値あるものだからに決まっている。
嬉しかったし、安心した。
私とナナの繋がりは、あれだけのことがあっても断ち切られることなく残っていたのだから。
今はそれだけで十分だ。これ以上望むことは何もない。
「二人で決めた通り、ナナは愛香おば様に預ける。私もこの家を出てひとりで暮らすわ。もう、私たちが鷹匠本家に帰ることはないわね」
もう少し様子を見て問題なければ、ナナは母方の叔母様の家に預けられる。
ナナの母親・晴香さんの妹である朱空愛香さん。
なんと12人もの子供を抱えるビッグマザーであり、ナナのご両親のお葬式に親戚で唯一参列してくれた人でもある。
晴香さんは駆け落ちで実家と絶縁していたから仕方のないことではあるけれど、それでも愛香さんとだけは定期的に連絡を取っていたらしい。
ナナは覚えていないだろうけど、私と会うより前の頃に愛香さんと会ったこともあるんだとか。
今後のナナを社会復帰させるために鷹匠家でサポートするかどうかというのは、なかなか結論の出ない話だった。
元々あの子は「生きる」というただ一点においては、地上のあらゆる生物を凌駕する。飽食の日本であれば、街中ならそれこそゴミを漁っているだけで生きていけるほどに強い生命力がある。
だからナナの社会復帰に向けた問題点は「あの子が社会に溶け込めるかどうか」の一点だけだった。
はっきりいって、事故の前のナナは社会不適合者だった。
意志薄弱で無気力。ただぼーっと過ごすことを良しとして、自分から何かを望むことはほとんどない。
あの子が悪いと言うよりは、望んでそう振る舞っていた。
要は自分がどれだけ常識から外れた危険な存在なのかを知っていたから、その手綱を私たちに預けていた訳だ。
馬鹿と鋏は使いようなんて言葉があるけれど、私たちは結局ナナをどう使うかを考えるより、できる限り使わないことであの子の安寧を保っていた。
でも、あの子の手綱はもう手放された。
見守っていたご両親は亡くなり、隣に居た私も一旦は手を離した。
危険だと思われるかもしれない。でもあの子はもうとっくの昔に、自分の力を制御するだけの技術を身に付けている。
だからそろそろ、私たちという鎖から解き放たれてもいい頃だ。
あの子があの子の意思で生きるようにするには、今がちょうどいいタイミングだった。
とはいえいきなり放り出すのはあまりにも無責任が過ぎるから、愛香さんにお願いをしてナナを預けることにしたのだった。
これに関しては鷹匠家一同が同意している。
ただ、もうひとつの方に関してはそういう訳でもなかった。
「お前の一人暮らし、光輝おじさんとランは納得してんのか? 頭痛も治った訳じゃねぇだろ」
「納得してはないでしょうね。でももう時間が無いし、私も退路は断ちたいの。お母様に頼んで一喝してもらったわ」
「無理やりだなぁおい。つか怜おばさんはホント強ぇな……まあいいか。あの二人に関しちゃ過保護過ぎるとこも無いわけじゃねぇし」
ひとり暮らしをするに当たって、特にお父様から強く反対された。
まあ、私は体が強いほうじゃないし、家事雑事も得意って訳じゃない。ハウスキーパーは連れていくつもりだからそこに問題はないけど、どちらかと言うと体調面を問題視してのこと。
問題視というか、単純に心配なんだろう。
お父様もラン兄もどちらも過保護だから、そもそも私に一人暮らしをして欲しくないだけだ。
でも私はもう、誰かの支えに頼る訳にはいかない。
だって、ナナが独り立ちするって言うのに、親友の私がいつまでも親の庇護を受けるなんてダサすぎるじゃない?
「目いっぱいかけてもリミットは4年半なのよ。そのくらいならまぁ、きっとなんとかなるでしょ」
「雑な試算だな……変なとこで楽観的で頑固だよな、リンは」
ロン姉はそう言って、呆れたように笑う。
でも、決して否定したりはしなかった。
「無理したっていい、やるならとことん限界まで突き進め。なんたってその才能は何もしなくても燃え尽きちまうんだ。どうせ無くなっちまうなら、ド派手に一発ぶちかませよ!」
「ええ、必ずね!」
くだらない茶番のように拳を突き合わせて、私たちは笑いあった。
☆
研究室に帰るロン姉を送り出して、自室で静かに息を吐く。
引き裂かれるような痛みが脳を貫く。
ズキン、ズキン。
そんなよくある擬音を笑い飛ばしたくなるくらいの、激烈な痛みが。
思わず顔を顰めるほどの痛みに、私は思わず唇を噛んだ。
「これが、ナナを手放した代償、ね……」
ナナと居る時だけは、落ち着いていた頭痛。
当然、あの子が居なくなったのなら落ち着いている理由もない訳だ。治ったなんてありえないし、なんなら症状は悪化の一途を辿っていた。
痛いし、苦しい。弱音のひとつも吐きたくなる。
それでも、痛みが増す毎に私の思考は研ぎ澄まされていく。
消えかけの蝋燭が、最後に眩い光を放つみたいに。
もう後戻りはできないし、する気もない。
吐きそうなほどの痛みを、エナジードリンクと共に流し込んだ。
これは、決められた終わりに向かう旅だ。
きっとその旅路は凍えるほど寒く、吐きそうな程に苦しい。
世界一という名の頂きは遠く、果てしない先にある。
共に歩む親友はもう居らず、支えになる杖も投げ捨てた。
流し続けた涙はすっかり涸れて、私に残されたのはただひとつ。
どこまでも研ぎ澄まされた刃のような才能だけ。
それは井の中の蛙が大海を知り、それでもなおただひとつの武器を手に海へと飛び込むような無謀な行為。
後は壊れるだけの私が、世界に足跡を刻むための挑戦だった。
リンネがナナに「鷹匠グループに就職しない?」と声をかけるのはもう少し先の話。