菜々香の本気
二宿菜々香は最強だ。
比喩ではない。
世辞でもない。
およそ身体能力と呼べる全てにおいて、地上に生きるあらゆる生物を凌駕する。
生物として全てにおいて規格外。
それが菜々香。生まれ落ちる世界を間違えた怪物である。
そんな菜々香の中で、自分が最も強かった時期は15歳の頃。より正確には、両親の亡くなる直前だった。
身体能力だけで言えば、今の菜々香は当時と比較にならないほど強い。
菜々香の体は衰えず、常に成長し続ける。見た目は全く変わらなくとも、細胞のひとつひとつが常に進化し続けている。
それに加えて、枷の外し方を覚えて、幼少期から無意識の内に封じていた能力の解放ができるようになった。
今の菜々香は、肉体的にも精神的にも間違いなく全盛期。
きっと今なら、あの日助けられなかった両親だって助けることができるだろうし。
あるいは危機に晒す前に察知することだってできると、菜々香は密かに思っていた。
それでもなお、自分が『最強』だったのはいつかと聞かれれば。
菜々香は即座に15歳の頃と答える。
なぜならその頃の菜々香は「凜音にそう在ることを望まれていたから」だ。
菜々香には2歳の頃、自分の手で母親を傷つけてしまったトラウマがある。そして、その事実を心の底に大事にしまっている。
肉を潰してしまう感触も、弾け飛んだ血の温度も、苦しそうに蹲りながらも、菜々香を心配してくれた母の優しさも。
忘れることのできない苦い記憶だ。そして、忘れてはいけない記憶だとも思っている。
本来ならば、あの日を境に菜々香の成長は止まるはずだった。
身体も、そして心も。せいぜいが身長が伸びるくらいで、それ以外は一切の成長をしなくなるはずだった。
全ては母を、父を、そして世界を壊さないために。
だが、菜々香は凜音と出会ってしまった。
菜々香は「リンちゃん」に温もりを求め、守りたいと願い。
そして凜音もまた、「ナナ」に最高の親友であり、最強のヒーローであって欲しいと願った。
怪物は最強であることを願われたからこそ、最強に成ったのだ。
菜々香の行動原理はいつだって変わらない。
初めて会った日に、手を握ってくれたあの時から。
たとえ距離を置くことがあろうとも。
互いに触れられない距離に居ようとも。
菜々香の全てはいつだって、鷹匠凜音のためにある。
だから。
凜音が再びそうあれと望むなら。
隣に立つための資格を示せというのなら。
見せることのなかった力を、見せつけていいと言うのなら。
全身全霊で証明しよう。
ゲームだとか、現実だとか、そんな些細なことは関係なく。
凜音が誇る親友は、『最強』なのだということを。
☆
リラックスするようにトントンとその場で軽く跳ねながら、菜々香はゆったりと周りを見回した。
『バリバリヘルスくん12号』。先輩に当たる機械が11種類もあるのかとか、たかだか健康測定をするのにこんなにでかい機械がいるのかとか、色々と不思議なことはあったけれど。
少なくとも、ちょっと前まで菜々香が住んでいた三畳間の部屋よりもずっと広い。布団を敷けば暮らせるくらいの広さはある。
(確かにこれなら中で多少動き回っても問題なさそうだね)
『バリバリヘルスくん12号』にはパンチングマシン機能も付いているし、なんなら普通に最新のフィットネスゲームが搭載されていたりもするらしい。
ゲームをするためだけにこんな機械を導入する物好きがいるのかはわからないが……MCが言っていたようにただの健康測定機ではなく、少しでも楽しめる要素をということなのだろう。
『ナナ選手、準備はよろしいでしょうか!?』
「はーい」
司会の……菜々香は名前を忘れてしまったが、確かマイクとかマイケルとか、そんな感じの名前の女の人からの問いかけに手をゆらゆらさせて答える。
意気込みの段階では最初に声をかけられた菜々香だったが、実際にマシンを殴る順番は最後だった。
これは単純に凜音が任されていた大トリにそのまま菜々香が滑り込んだという話で、それ以上でも以下でもないのだが。
理由はどうあれ、出番が最後になったのは素直にありがたいことだと思っていた。
『さあ! 意気込みでは1位を貰うと高らかに宣言してくれたナナ選手ですが! 果たしてその実力はいかほどなのか! 一見華奢なその体に、実はとんでもないパワーを秘めているのか!?』
『着痩せするタイプなのかもしれませんよ』
『なるほど、可能性は十分にありますね!』
大トリ。そこにリンネが割り当てられていたのは、そのあまりに下手くそなパンチが逆に映えるからなのだが。
良くも悪くも目立つ順番である上、「1位を貰う」という不遜な宣言も相まって、菜々香の一挙手一投足に視線が集まる。
ちなみに『バリバリヘルスくん12号』には内部での患者の動きをモニターするためのカメラが設置されていて、実際に観客の目が向いているのはそれを映し出したモニターの方だった。
(さて、どうしよっかな)
外でMCが会場を盛り上げているのを他所に、菜々香は目の前にあるクッションを前に悩んでいた。
パンチングマシン……というよりは、叩きつけられたものの威力を測定するための機構。それは壁にそのままデカいマットを張りつけたような、そんな無骨な見た目をしていた。
パンチの衝撃を限りなく吸収し、プレイヤーをパンチの反作用によるダメージから守る新技術……とかいう触れ込みのこのクッションは、確かにこれまでのマッチョたちに怪我ひとつさせることなくパンチ力を測定していた。
ここを殴り付ければパンチ力が測定され、スコアとして算出されるというわけだ。
基準として、特に運動していない一般男性のスコアがだいたい150点。
男性であれば200点を超えたらぼちぼち強い、300点を超えたらかなりヤバい、400点を超えたらその道で食べて行けるくらいのパンチ力……とMCセバスが言っていた。
400点を超えるのは実際のところかなり難しいようで、筋骨隆々としたプロゲーマーの面々でも400点を超えられたのは15人中3人だけ。
その内ひとりのパンチ力は700点を超えていて、いわゆる大本命と呼ばれるようなプレイヤーだった。
とはいえ、菜々香が悩んでいる理由は1位を取れるかどうかとか、そんな小さなことではなく。
(これ、壊しちゃってもいいんだよね?)
という、どうしようもなく彼女らしい理由だった。
(壊すのは簡単。というか、本気でやったら壊れちゃう。まあ、私の順番は最後だから、壊したところで企画としては問題ないんだろうけど……)
パンチの衝撃から手を保護するためのグローブを着けながら、どこまでやっていいのかを割と真剣に測っていく。
スコアのカンストは9999点だとか、理論上は車の衝突にも耐えうるだとか、そんな程度で受け止められるほど菜々香の『本気』は甘くない。
本気で殴れば間違いなく壊れる。
企画はさておき、この後の一般公開を考えれば問題は大アリなのだが、しかし今の菜々香はそんなことを微塵も考慮はしていない。
いや、考慮しなくてもいいように予め凜音が仕向けていた。
(リンちゃんは本気でやっていいって言ってた。つまり、これを私が壊すところまでは想定の範囲内のはず。そうなると、ただ壊すんじゃちょっと味気ないような気もするなぁ)
リンちゃんの期待に応えたい。
私の本気を見てて欲しい。
そんな思いが、菜々香の中のストッパーを完全に外している。
先程までは「壊してもいいのか」について悩んでいたのに、いつのまにか「壊し方」について悩んでいるほどに。
(うん、よし、決めた)
そうは言っても、菜々香の順番は既に来ているわけで、長々と悩む余裕はない。
故にここはシンプルに。
極めて単純な、パワーの証明を。
『宣言通りに1位を取るのか! はたまた可愛らしいパンチを見せてくれるのか! それではナナ選手! パンチは2回までOKですので、気合を入れてお願いします!』
「よーし……」
つい先日、ゲーム内で感覚の枷を外した時のことを思い出す。
どうしようもない解放感。全てを支配しているような全能感。
その感覚を思い出しながら、生まれて初めて、全身にかけていた『力』の枷を外す。
自分で意識して抑えている分だけではなく、無意識領域まで全てを解放する。
その結果、菜々香の体感として、劇的に何かが変わったわけではない。
知覚範囲を広げた時とは違って、全身のダルさがスッキリしたような気がする程度だ。
だが。
その場にいる全ての生物が。
目の前に現れた怪物を前に、ほんの一瞬だけ、本能的な恐怖を覚えたのだけは確かだった。
「ふぅ……」
確かめるように手を握る。
握った拍子に絶大な握力でグローブが破けたが、それは仕方がないと割り切った。
イメージはそう、ちょうど翡翠を殴り倒した時のように。
小手先の技術や工夫はいらない。
踏み込んで、殴る。それだけだ。
「せー……のっ!!」
掛け声はどこまでも軽やかで、穏やかで。
ドゴッ! と音を立てて、踏み込んだ足が地面を穿つ。
映像に、菜々香がパンチを放った瞬間は映らなかった。
ただ、一瞬だけ菜々香の姿がブレた。
気づけば拳は放たれていて、得点を表示する液晶は9999と綺麗な数値でカンストしていて。
ほんの一瞬、瞬きするのさえ惜しいほどわずかな時間。
まるで時が止まったかのように会場に静寂が満ちたのを、不思議とその場にいた全ての人間が感じとった。
ズンッ!! と重たい衝撃が会場中を駆け巡る。
菜々香の拳がクッションを容易く突き破り、鋼鉄の壁を貫いて、衝撃が『バリバリヘルスくん12号』の内部をグシャグシャに粉砕したその瞬間。
わずかな振動と、とてつもない轟音と、ハウリングするマイクの音響が、会場中に響き渡った。
大 惨 事 確 定!
容赦ない暴力がなんの罪もないバリバリヘルスくん12号を襲う……!