枷
怪物の目覚め。
スクナ――そして、その現実のプレイヤーである二宿菜々香は、日常生活を送る上で五感のほとんどに意図的な制限を掛けている。
それは、あまりに過敏な感覚器官を持っているせいで洪水のように流れ込んでくる膨大な情報を、できる限り遮断するためだ。
凜音がリアルチートと評し、実際に生物としておよそ人間の限界を超越した存在である菜々香だが、全ての機能が幼少期から優れていた訳ではない。
具体的に言うならば、脳が情報を処理する能力。その部分が、幼い頃の菜々香は極端に未発達だったのだ。
生まれて間もない頃の菜々香は、自身の五感が無差別に掻き集めてくる情報量に押し潰されないために、生を受けてすぐの時点で無意識のうちに五感に制限を掛けていた。
(それが、物心が付くよりも前の話)
以来、菜々香は本人ですら気付かぬうちに五感の全てを制限されたまま生きてきた。
恐ろしいのは、菜々香が制限されたままの状態でもなお、一般人を優に上回る鋭敏な感覚を有していたことだろう。
制限をかけられてなお人の枠を大きく逸脱していたせいで、凜音も、実の両親も、菜々香を検査した鷹匠グループの研究者たちも、菜々香の限界がそこだと思ってしまった。
(でも、そうじゃない)
生まれてからずっと、枷を背負って生きてきた。
どこまでが自分の限界なのか、知ることなく生きてきた。
限界を絞り出す必要がなかったから、力を抑えたまま生きてきた。
凜音の傍にいたくて、ギリギリのところで普通を演じてきた。
凜音の傍を離れてからも、それは変わることはなかった。
そんな菜々香に転機が訪れたのは、黄金の騎士ゴルドとの戦いでのこと。
あの日、菜々香は初めて「今できること」の限界を超えようとして、結果として自身の「眼」の使い方をより深く理解した。
解放感と高揚感。全てが「見える」という全能感。
ゴルドとの戦いで菜々香は至福の時を過ごした。
戦いの結末は知ってのとおり、菜々香の分身たるスクナはゴルドに打ち勝った。
そして、あの感覚を忘れないようにと反芻している中、ふとした拍子に菜々香は思った。
もしかして、私はまだ自分の力を把握しきれてないんじゃないだろうか? と。
スクナのプレイヤーアバターは、レベル90近くなった今でも現実の菜々香の身体能力を上回ってはいない。
故に、現実の肉体を自在に操れるのと同様に、スクナとして通常状態で立ち回る際にも100%の精度で完璧に考えた通りの動きができる。
だが、そこにバフによる速度やパワーの強化が加えられた時、スクナの能力は現実を超える。《餓狼》ぐらいの強化であれば届かなくとも、《諸刃の舞》のような2倍クラスのバフであればその領域に届きうる。
ステータスという名の数値が支配する仮想空間において誰もが苦戦するのが、現実の自分を遥かに上回る身体能力を持つアバターの操作だ。
人の脳は超人的な戦いにはついていけない。だが、慣れれば経験と予測によって何とかできてしまうのもまた事実で。
仮想空間慣れしたプレイヤーは、至って一般的な現実の身体能力を持つが故に、現実の自分よりも高性能なアバターを操作するのに慣れている。その経験を潤沢に持っている。
だが、現実であまりにも人並外れた身体能力を有するスクナにとって、現実の自分の限界を超えた身体能力というものはどこまでも新鮮な経験だった。
先のゴルド戦で気付いた、五感に掛けられた枷。
そして物理技能の全ステータスに最低5倍のバフをかける《憤怒の暴走》を発動したことにより得た「現実を遥かに超える身体能力」という体験。
この2つの経験を経た上で、先日凜音の実家で挑戦した対軍シミュレーション。
たった1人で1000人もの軍隊を殲滅するという超絶難易度の戦いをクリアするために、スクナは持てる全てを総動員し、そして今の自分の限界点を掌握した。
まるで鍵を開けるように、枷をひとつずつ外すように、五感に掛けられた全ての制限を取り払う。
はっきり言って、今ここで試す必要性はないと思う。
翡翠を倒すために、そこまでするのは無駄かもしれない。
(まあ、何だかとても気分がいいし)
今ここでやってみたいと思った。
ならば、それを止める理由はない。
全ての枷を取り払って、怪物は静かに目を見開いた。
☆
スクナが閉じた目を見開いた瞬間に、その場にいる全ての存在が思わず空を見上げた。
ナニカに視られている。そんな、寒気のような感覚に襲われたからだ。
その感覚は身体を通り抜けるように一瞬にして霧散した。だが、この場にいるごく僅かな強者は気付く。この観察はまだ終わっていないということに。
(……見誤っておった。なんとふざけた存在なんじゃ、ヌシは)
見物気分で油断をしていたアーサーは、内心で冷や汗をかいていた。
今の寒気がスクナによるものであることは、アーサーにも理解できている。
寒気を感じ思わず刀に手を掛けようとした瞬間、刀に触れる前にスクナからの暴力的なほどの殺気が飛んできたからだ。
視線さえ向けずに、死角にいるはずのアーサーが反射的に取ろうとした構えを、構える前に制されたのだ。
(気付いておるのは琥珀殿と黒曜殿。それから、黒曜組にひとりと、ワシか。……姉上は呑気じゃが、それでも何かは感じとるようじゃな)
ずっと監視されているような息苦しさの中で、アーサーはスクナがどこまで知覚範囲を広げたのかを思案する。
ほんの僅かな衣擦れの音を聞いて、アーサーが刀に手を伸ばそうとしているという動作まで感知するような精度で。
森の中でさえ半径100メートル程度を索敵し続けていたことを考慮するに、範囲は少なく見積っても数百メートル単位だろうか。
(その情報量はどれほどか……常人なら数秒で廃人になりかねんような行いじゃぞ)
そう長くは持つまい。そう思った瞬間に、急に周囲を覆っていた監視の圧力が消えた。
案の定解いたか、とほっとしたのもつかの間、アーサーはそうではないことに気がついた。
(翡翠嬢の表情……焦燥、あるいは怯えか。なるほど、恐らく今のは範囲を広げすぎたんじゃな)
例えばこれが数百人の敵に囲まれているなどという絶望的な状況ならさておき、今はあくまで一対一の試合に過ぎない。
試合で互いに生まれる間合いが広くても20メートル程度である以上、そんなに広範囲の索敵は必要ない。
つまりスクナはあれほど広範囲に広げていた知覚を翡翠ひとりへと絞った。
そしてその結果が、今の翡翠の表情なのだった。
その他大勢のひとりとして視られていた時ですらあれほどの寒気がしたと言うのに、それをたったひとりで受け止めている翡翠の心境とはどれほどのものなのか。
「なんにせよ、長引きはせんじゃろうなぁ……」
今のスクナは、アーサー自身でさえも確実に負ける理由がある。
アーサーの予想が正しければ、あの莫大な知覚範囲でさえほとんど副産物のようなものだろう。
翡翠にどんな奥の手があるにせよ、勝つのは間違いなくスクナだ。
故にアーサーはただ事実として、その結末を確信していた。
(なんだ……なんなのだ、この感覚は)
武器すら構えず自然体で佇むスクナを前に、翡翠はどうしようもなく動けずにいた。
それは、強者特有の隙のなさが理由ではない。
むしろ今のスクナは隙だらけだった。近づき、切り掛かれば、どこを攻撃しても倒せそうに思えた。
さながら甘い甘い蜜の滴る果実のような、魅力的な誘惑だった。
だが、翡翠の本能が攻撃の手を止める。逃げろ、逃げろと訴えている。
見える隙の全てが罠。師である黒曜が隙のない城壁のような堅牢さだとするならば、目の前のスクナはさながら宝物を護る迷宮のように、甘い誘惑と危険な罠を両立させていた。
罠だとわかっていて飛び込むほど、翡翠は馬鹿ではない。
だが、この戦いは翡翠がほとんど一方的に仕掛けた物なのだ。
(怖気付いて、拳のひとつも振るわないなど。大恥もよいところだ!)
ギシリと木剣を握る手に力を込め、動こうとしない両足に活を入れる。
詳しいことまでは分からないが、黒曜から聞いた断片的な情報や、里に流れる噂。
それらを総合して考えるに、どうやらレベルの上では翡翠の方が数段上。であれば、ステータスの優位は翡翠にある。
「……来ないの?」
愛らしい仕草で首を傾げるスクナのあざといほどに挑発的なその姿を見て、翡翠は自身を奮い立たせて全霊の力を込めて大地を蹴った。
翡翠は鬼人族としては筋力タイプに次いで2番目に多い、敏捷タイプのステータスの持ち主だ。
とりわけ、翡翠の敏捷値は同じ鬼人の中でも群を抜いて高く、紛れもなく天才と呼ぶにふさわしい数値を有していた。
(あえて全開の速度で虚を衝く!)
バフに頼らない範囲で、翡翠が出し得る最速の踏み込み。小手調べの一切を排除した全力の突進により、翡翠は一気にスクナを自身の間合いに収めた。
(隙だらけであることに違いはない。ならば反撃される前に打ち込めばいいだけのこと!)
「オオオッ!」
下段から唸りを上げて襲い掛かる、高速の剣閃。
刃の潰れた木剣であるということを考慮してもなお、スクナの身体を両断するのではないかと思えるほど洗練された斬撃。
怒りや重圧で揺れ動きながら、それでも訓練で培ってきた実力を完璧に発揮できた最上の一撃だ。
この攻撃に、スクナは全く反応できていない。
あまりの速度に目で追うことさえできていないではないか。
この一撃のために研ぎ澄まされた集中力。時間が引き伸ばされたような感覚の中で、翡翠はスクナの口元が僅かに動いたのを見た。
お。
そ。
い。
ぐしゃり。
そんな鈍く水っぽい音を立てて、翡翠の身体は大地に叩き伏せられた。
「ガハッ……!?」
天地がひっくり返るような、とてつもない衝撃が翡翠の全身を貫く。
視界は揺れ、意識が霞む。まるで自分の中で爆弾が爆発したような、そんな途方もない衝撃だった。
(な……にが……)
翡翠は衝撃と混乱の中にいた。
恐らく、カウンターで、叩き伏せられた、ということのみがかろうじて分かる。
手応えが残っていないことから、自身の攻撃が当たらなかったのであろうこともぼんやりと理解できた。
完璧な一撃のはずだった。
それが、なぜ、どうして?
そんな短い疑問が翡翠の心を覆い尽くす。
だが、それは戦闘中においてはどうしようもなく隙でしかない。
スクナは地面に倒れ伏す翡翠のHPを確認する。
本来NPCのHPゲージは不可視だ。だが、琥珀と戦った時と同じく、どうやら試合や決闘のような、PvP的なシステム上の戦闘中には相手のHPがはっきりと目に見えるらしい。
そんなことを考えながらも、今の一撃で全くダメージのない翡翠のHPゲージを見て、スクナは《身代わり人形》というアイテムの効果を理解した。
スクナは「へぇ……」と楽しそうな表情を浮かべながら倒れて動かない翡翠の頭を徐ろに掴む。
そして、軽く持ち上げて、力任せに地面へと叩きつけた。
ゴッ! と硬いもの同士がぶつかる音が響く。
翡翠の顔面が先程の衝撃でひび割れた大地にめり込む音だ。
しかし、まだHPは減らない。
再び持ち上げ、叩きつける。
まだHPは減らない。
ゴッ! ガン! ドゴッ!
そんな、翡翠の頭が地面と衝突する音が鳴り響く。
あまりに惨い。恐ろしいほど残虐な光景だった。
凶行に及ぶスクナはうっすらと笑っていて、最初はかろうじて抵抗しようとしていた翡翠も、もはやピクリとも動かなくなっている。
身代わり人形によってHPが護られていようと、意識は混濁し心は折れていた。
幸いというべきなのか、あるいはそこまで耐えてしまったと言うべきなのか。
叩きつけが8回目に達した瞬間、翡翠の身体からポンッと音を立てて御札の人形が飛び出て燃え散った。
「そこまで!」
今ので身代わり人形が破壊されたという判定になったようで、黒曜の若干焦りを帯びた制止の声が響く。
いくら死なないと言っても、教え子があんな目に遭ったのだ。戦いが必要なくなった瞬間に止められるよう、黒曜は全力で見守っていたらしい。
(やっぱり使う必要なかったかなぁ)
無傷で勝利を収めたスクナは嘆息する。
五感の完全解放。それは無意味ではなくとも、この戦いにおいては不要だった。
やりたくてやったのはスクナ自身だが、たかだか一発のカウンターで翡翠が沈むとは思わなかったのだ。
(捩じ伏せるって宣言は、まあこれ以上ないくらいには見せられたかなぁとは思うけど……)
決着がついたというのにピクリとも動かない翡翠を見下ろしつつ、ちょっとやりすぎたかなぁなんて今更なことを思う。
というのも、黒曜組からスクナへの視線が恐怖一色に染まっているのに気付いたからだ。
琥珀やアーサーでさえ少し表情が引きつっている。その割に、ヒミコが喜色満面の笑みなのは何故なのだろう。
(はぁ……)
感覚の枷をかけ直し、倒れて動かない翡翠を心なしか優しく抱き上げながら、消化不良なスクナはもう一度内心でため息をついた。
ヒェッ……