人間らしさ
「本気で来なよ、捩じ伏せてあげる」
スクナが翡翠に言い放ったその言葉を聞いた周囲の反応は、それぞれで異なっていた。
ヒミコは「ひぇぇ……」と情けない声を出しながらアーサーに縋り、アーサーはよほど楽しいのかニヤニヤと笑っている。
黒曜は微笑ましげな表情で見守り、琥珀はスクナを見ながら少し驚いたような表情を浮かべていた。
だが、その挑発の言葉で誰よりも動揺していたのは、実のところ口にしたスクナ自身だった。
スクナは基本的に感情を負の方向に昂らせることはなく、余程のことがなければ怒りや悲しみを抱かない。
それは、スクナが根底の部分で他者に無関心だからだ。
凜音さえいればいい。凜音だけが世界の全て。
それは、初めて凜音と手を繋いだ時から変わらずスクナを支え続ける精神的な支柱であり、逆に言えば凜音以外の全てに対して平等に興味がないということでもある。
故に、スクナは他者から好かれようと嫌われようと、表面上はどうあれ心の奥底では何も感じない。
罵倒されようが殴られようが、そこに凜音が関わっていなければなんとも思わない……はずだった。
しかし、つい先日の暴走を機にスクナは変わった。
喜怒哀楽の全てを思い出し、心の奥底に眠る憤怒と悲哀を全て吐き出しきったスクナは、感情を素直に出せるようになった。楽しいと思えば心の底から笑えるようになった。
ロボットのように機械的だったスクナの心は、ようやく人並みの感受性を取り戻したのだ。
そして、だからこそなのだろう。
今のスクナは翡翠から向けられた苛立ちという感情を、上手く受け流すことができなかった。
普段なら冷たい瞳を向けて無視するような状況で、思わず煽り返すような真似をしてしまったのだ。
(……でも、不思議と嫌な感じじゃないや)
スクナは自分の行為に驚きこそしたものの、挑発し返したことそのものに後悔はしていなかった。
どの道戦うことにはなっていただろうし、そもそも先に喧嘩を売ってきたのは翡翠の方だ。
普段ならまずしないような意趣返しをしたということ自体が、スクナにとっては新鮮で面白い経験だった。
それに、苛立ちに任せた衝動的な行為をしたという意味ではスクナも翡翠も変わらないのだ。
スクナが挑発をし返したことで一方的な因縁ではなくなったことで、むしろ互いに容赦なく戦えるようになったようにさえ思えた。
「捩じ伏せる……か。部外者が、舐めてくれる……!」
そんな風に勝手に納得し、苛立ちがすっかり収まってしまったスクナに対して、翡翠の方は青筋を立てて訓練用の木剣を握りしめている。
一触即発。しかしギリギリのところで抑えている翡翠がそろそろ限界なのを悟った黒曜は、睨み合う2人の間に割って入る。
「ふふふ、互いに鬼人族らしい血の気の多さですね。では最初はスクナさんと翡翠の戦いといたしましょうか」
黒曜には、戦いを止める気などさらさらない。
むしろイケイケの気分で楽しそうな笑みを浮かべている。
そう、鬼人族は戦闘狂の集まりであるが故に、喧嘩を見るのもするのも大好きなのだ。
「スクナさんは異邦の旅人なので、殺しても死にません。翡翠はスクナさんを殺したら勝ち。スクナさんは翡翠が身につけている身代わり人形を壊したら勝ちとしましょう」
「身代わり人形?」
「互いに同意のある戦いでのみ使用できる、ダメージの身代わりになってくれるアイテムです。『互いに同意』という制限なので普通の戦いでは使えませんが、こういった訓練での事故を防ぐには便利なんです」
「へぇー」
黒曜の説明を聞いて、便利なものがあるんだなぁと感じると共に、スクナはちょっとした疑問を抱いた。
「それ、私も使っちゃダメなの?」
翡翠はNPCなので、HPを全損すると完全に消滅してしまう。
対してスクナはプレイヤーなので、HPが全損したところでリスポーンするだけなので、特に死んでも問題はないのは確かなのだが。
その身代わり人形とやらを使えば、デスペナルティは受けずに済むのではないか。
そんなスクナの疑問を聞いて、黒曜は笑顔でこう言った。
「身代わり人形は高いんです」
「ああ……そうなんだ」
それじゃあ仕方ないとスクナは素直に諦めた。たかだかプレイヤーの死を防ぐために、高級なアイテムを使うのはもったいない。
それに、そもそも負ける気などサラサラないのだから、どの道不要なアイテムだ。
「……ちなみにスクナさん。翡翠はレベル105と、この里でもなかなかの戦士です。貴女と言えど侮って勝てる相手ではないですよ」
スクナと翡翠が互いに定位置につこうと移動している際、黒曜はこっそりとそんな情報を漏らした。
「いいの? それ言っちゃってさ」
「スクナさんの呪いによるハンデも考えると、それくらいは必要な情報でしょう」
「助かることは助かるけどね」
スクナは呪いでアーツが使用できず、HPが半減している。
その上レベル的に格上相手の戦いとなれば、確かにハンデが大きすぎると取られても仕方がないか。
定位置について首を鳴らしながら、スクナはそんなことを考えた。
「スクナさん、そして翡翠。戦いに礼儀も作法も必要ありません。鬼人族に生まれたからには、純粋なる暴力で相手を屈服させるのみです!」
「押忍!」
「物騒だな」
あまりに物騒な発言をする黒曜だが、スクナとアーサーとヒミコ以外、つまりこの里の鬼人族はみな当然のことのように受け止めている。
いい加減そういう種族であるということを認めなければ。
スクナはそう思いながら、さしあたり目の前にいる翡翠へと視線を向けた。
翡翠は今にも破裂しそうな風船のように、とても張り詰めた表情をしている。スクナの挑発は驚くほどに彼女のプライドを刺激したようで、黒曜の号令があればすぐにでも飛び込んできそうな程だった。
相手はレベル100超えの鬼人で、武器は訓練用の木剣。それ以外の装備はなさそうだが、どんなスキル構成でどんなアーツを使うのか、戦う前に読み取れる情報は少ない。
逆に、それは翡翠にとっても同じことだろう。
スクナを見て理解できる情報など、打撃武器を使い鬼の舞を継承しているという程度のもののはずだ。
まあ、実際には呪いで鬼の舞すら封じられているのだが。
(……試すには、ちょうどいいか)
スクナはそう考えながら、ゆっくりと目を閉じる。
つい先日の暴走から、スクナが変わったのは何も感受性に関する部分だけではない。
全てを思い出したのだ。これまで封じてきた力の使い方を。使えずにいた全力というものを。
身に宿す埒外の暴力を、最も効率よく振るう方法を。
「それでは、始め!」
目を閉じている間に、黒曜の宣言で戦いの幕が上がる。
黒曜が開始の合図を言い放った、その瞬間。
スクナは目を見開くと同時に、生まれて初めて全ての感覚を解き放った。
幼い頃に失った人間性をようやく取り戻してきた……という話。やっと人間らしくなってきましたね。