リンネの渾名
「ふぅ……」
仮想世界を抜け出して、ほっとひと息吐き出す。疲れるような内容ではなかったけど、色々と忙しい一日だった。
時間はもう8時をとっくに過ぎていて、リンちゃんを待たせちゃったかなと思いながらリビングに向かう。
「ごめんリンちゃん、遅くなっちゃった」
リビングの扉を開けて、開口一番にそう言ったものの、リンちゃんからの反応はない。
というか、ぱっと見渡してもリンちゃんの姿が見えない。耳を澄ませば小さな吐息だけが聞こえてきて、珍しいことにリンちゃんはこんな時間までお昼寝をしていたようだった。
「リンちゃーん……むっ、ちょっと熱い」
眠っているリンちゃんの頬に手を当てると、平熱よりも随分と温度が高くなっているのがわかった。
顔も赤いし、少し辛そうな表情を浮かべている。多分普通に風邪をひいたんだろう。
薬は飲んでるみたいだし、今は起こさない方がいいかな。
リンちゃんのことだから何も食べてないんだろうし、病人食でも用意しよう。そう考えてソファから離れようとすると、不意に手を掴まれた。
「……なな?」
「ん、そうだよ。起こしちゃった?」
「んーん……ずっとまどろんでた、だけ」
無理に体を起こそうとするリンちゃんをそっと支えて、ソファに背中を預けたリンちゃんの隣に座る。
ソファにもたれかかってもなおフラフラとしているのがちょっと危なげで、こちらにもたれかかってくるリンちゃんの頭を腿の上にそっと誘導した。
「つらい?」
「……ちょっとだけ、ね。久しぶりの実家で、安心しちゃった……」
リンちゃんはそう言ってふにゃりと笑った。
一度体力を使い果たすと、リンちゃんは大抵こうなるのだ。
元々リンちゃんはそんなに体力がある方じゃないし、イベントの間も10日間走り続けるためにかなり無理をしていたんだろう。
唐突に実家に帰ることにしたのもそれなりに疲れを溜めただろうし、その疲れがロンさんやトキさんに会ったことで安心してこぼれ落ちてしまった。まあ、言ってしまえばよくあることだ。
でも、こうして体調を崩して倒れるリンちゃんの傍に居てあげられるのは本当に久しぶりだ。
「むかしから……看病されるのは、私ばっかりね」
少しだけ目を伏せながら、リンちゃんがポツリと呟いた。
「ふふふ、私は病気にならないからね」
私は生まれてこの方、病気らしい病気というものにかかったことがない。
何せこの途方もなく頑丈な体だ。最近はなんでか寝過ぎていただけで、本来なら10日くらい徹夜したってピンピンしてる。
アルバイトをやってた時はむしろ眠れなくて困ってたくらいなんだから。
そして、それをリンちゃんも知っているからか、ちょっと唇を尖らせる。
「……ほんと、ずるいわ。ちょっとくらい分けてよね」
「ほんとに、この無駄な体力を分けられたらねぇ」
私の腿に顔を埋めながらぶーぶーと鳴くリンちゃんに苦笑しつつ、私はふわりと垂れたリンちゃんの髪にゆっくりと指を通した。
髪を梳きやすいようにうつ伏せから少し体を横にしたリンちゃんが、ぼんやりとした視線のまま口を開く。
「ねぇ、ナナ……私ね、夢を見てたの」
そう言って、リンちゃんの瞳が揺れる。
体調不良で弱っているからか、不安げな声音で言葉を紡ぐ。
「3年前……WGCSで優勝した時の夢。あの時はオールスターズではなかったけど……ゼロウォーズ3の個人部門で、世界の頂点に立った時の夢」
「うん……私も昨日調べたよ」
昨日、リンちゃんとトーカちゃんが話していた、「あの頃」のこと。
私はリンちゃんが狂ったようにゲームにのめり込んでいたその時期のことが知りたくて、インターネットでリンちゃんの略歴を調べたのだ。
私の知らないリンちゃんを知るために。
プロゲーマー・リンネ。史上唯一、WGCSの頂点に立った「女性」プロゲーマー。純粋な獲得賞金額でも史上で十指に入る、すべてのゲーマーの憧れの的。
それがリンちゃんが背負う、あまりに大きな称号だった。
体格や筋力といった性差に囚われず、男女が平等に戦えるはずのeスポーツの世界。黎明期より遥かに栄えた昨今においてもなお、プロゲーマーとは圧倒的な「男性社会」だ。
第一線級の大会で実績を残せる女性プロゲーマーはほんのひと握り。リンちゃんも最初は客寄せだと嘲笑され、女だからと侮られた時代があったと言う。
そしてその全てを力でねじ伏せ、優勝というトロフィーで黙らせた。その時点でリンちゃんは不動の地位を手に入れたのだ。
「ふふ、あの頃のトゲトゲした自分って、今思い出しても笑えるんだけど……あの頃の私は、本当に強かったの。ナナ相手でも絶対勝てるって、そう言いきれるくらいに、3年前の私は化け物だった」
「そんなに?」
「そうよ。当時の私はね、強すぎて、そりゃぁもう酷い渾名ばかり付けられてたんだから」
そう言って、リンちゃんはクスクスと笑った。
少し楽になってきたのか、喋るのが随分とスムーズになってきたみたいだ。
有志によるリンネウィキによると、当時のリンちゃんは誰彼構わず噛み付く狂犬のような存在だったらしい。
プレイスタイルも今みたいにスマートに魅せるようなものではなく、戦った相手をめちゃくちゃに踏みにじるような極悪非道さ。そして勝ちさえすればなんでもいいと言う暴虐性。自分以外のゲーマーを片っ端からぶっ潰すと言わんばかりにありとあらゆるジャンルに出没する雑食性。
そんな姿を誰が呼んだか、ついた呼び名が《凶獣》リンネ。
当時のリンちゃんの呼び名を他にも追ってみると、やれ《怪物》だの《悪魔》だの《蝗害》だのと、うら若き乙女に付ける名前かと言いたくなるようなそうそうたる渾名ばかりだった。
だから、酷い渾名ばかり付けられていたというのも間違いではないと思う。
「久しぶりに、大きな大会に出るからかしらね……とっても懐かしい夢を見たわ」
「楽しかった?」
「ふふ、そうね。とても楽しかった。……プロゲーマーとしての私の原点みたいなものだから」
少し眠くなってきたのか、目を細めながらリンちゃんはそう言って微笑んだ。
「あの頃みたいに戦うのも、いいかもしれないわね……」
「リンちゃんが昔私と一緒にやってた時は切り込み隊長だったじゃん? むしろ今みたいなスマートな魔導師プレイの方が私には違和感なくらいだよ」
そう。特に印象的なのは、昔リンちゃんと一緒に『負けるまで終われないゼロウォーズペアマッチ』という動画を撮った時。
150連勝近くしたうちの120勝くらいは、リンちゃんがひたすら特攻してキルを稼ぎ続けることでもぎ取ったのだ。残りはリンちゃんが特攻で死んじゃった時に私がなんとか連勝を繋いだ分だね。
最終的にリンちゃんが寝落ちした時に間違って私のキャラの頭を撃ち抜いちゃって連勝が止まったんだけど……小さい頃からリンちゃんは常に押せ押せのプレイングスタイルだったのだ。
「そういえばそうねぇ…………」
私の言葉を受けて、リンちゃんはふむぅ……なんて気の抜けた声を出している。さっきまで流暢だった口調も、心なしかふにゃふにゃしてきた。
どうやら話をしているうちにまた眠くなってきてしまったらしい。目をパシパシしながら眠気と戦っている姿は可愛らしいけれど、病人がそんなに無理して起きようとするのは良くないだろう。
「眠い?」
「ねむくないわよ」
「はいはい」
「ねむくないったら」
ぎゅうっと私のお腹に顔を埋めるリンちゃんをぺいっと引き剥がし、ソファから立ち上がってリンちゃんを仰向けに転がす。
背中と膝の裏に手を回してお姫様抱っこをしてあげると、リンちゃんは全くためらうことなく私の首に手を回した。
「むふー……なつかしいわねぇ……むかしはよくこうやってだっこしてもらってたわよね」
「リンちゃん体力なかったからねぇ」
寝室に向かいながら、そんな懐かしい話に花を咲かせる。
リンちゃんは久々のお姫様抱っこにご満悦のようで、表情は普段の凛々しさが信じられないほどゆるっゆるだ。
寝室のベッドにそんなリンちゃんを転がすと、あら〜なんていいながらキングサイズのベッドをゴロゴロと転がっていった。
うーん、ほんとに小さい頃に戻ったみたいだ。
昔のリンちゃんはベッドの上で飛び跳ねた挙句体力を切らして息切れしてるような、活発さと体力が見合わない子だったのだ。
騒がしいので注意しに来る頃には必ず私に介抱されているせいで、怒るに怒れなかったとはトキさんの談である。
「すぅ……すぅ……」
「……寝ちゃった。ふふ、可愛いなぁ」
元々病人だったからか、しばらくゴロゴロしていたリンちゃんは唐突に動きを止めるとそのまま寝息を立て始めた。
風邪が悪化しないように上から布団を被せてやり、私も同じ布団に潜り込む。
これで起きた時に添い寝をしていなかった場合、高確率でリンちゃんは不機嫌になる。体調を崩した時はいつもそうだから間違いない。
「あー……ご飯食べてないやぁ……」
食べ損ねたなぁ……と思いつつ、意外と疲れていたのか襲い来る眠気に身を任せる。
明日にはリンちゃんの風邪が治ってますように。
切実にそう願いながら、私は意識を手放した。
リンネの過去にちょっぴり触れたり、添い寝したり。リンネは龍麗に負けず劣らず貧弱なので、たまには体調も崩すのです。
ちなみにナナは何があっても絶対に病気にならない強靭な肉体の持ち主なので、たとえインフルにかかってても添い寝できます。つよい。