其の衝動は誰が為に
ゆらり。
ゆらりと揺れている。
目的は既になく。
帰るべき場所もありはない。
壊れた心の闇の中で。
宙ぶらりんになった衝動だけが、ゆらりゆらりと揺れていた。
イベントは終わった。
終わりを告げる鐘が鳴り、訪れると思われた脅威はひとりの鬼人によって打ち砕かれた。
歓声が上がって然るべき、そんな状況であるはずなのに。
それでも。
それでも。
始まりの街の住人たちは、誰ひとりとして声を上げることさえ出来ずにいた。
「ただいま!」
災厄が、帰還してしまったからだ。
スクナが帰ってきたのは、始まりの街の噴水広場。
全てのプレイヤーが初めに訪れるスタート地点。全てが始まる場所だった。
「あれ?」
トッと軽快な音を立てて降り立ったスクナは、不思議な光景をその目に映す。
人々が遠い。大きな円になって取り囲んでいるような、噴水を中心にスクナの周囲だけ人がいない状況だ。
今のスクナがその気になれば1秒とかからずに届く程度の範囲ではあるけれど、もっとうじゃうじゃと玩具がいると思っていたスクナは少しだけがっかりした。
せっかく壊せると思ったのに。
ちょっとだけ壊せる数が減っちゃうなぁ。
スクナが不満げな理由は、そんな遊びの時間が減って悲しむ子供のような考えだった。
けれど、そんな表情を浮かべたのも一瞬の話。
するりと投げナイフを取りだしたスクナは、何の気なしにそれを人々に向けて放り投げた。
「あ……」
それは誰が零した声だったのか。
銀の光が一閃。
トンッ。そんなあまりにも軽快な音を立てて、ナイフは幼いNPCの少女の眼球を貫いた。
まるで銃弾に打ちぬかれたかのようにその軽く小さな体を揺らし、NPCの少女は悲鳴さえなく倒れ伏した。
「えへへっ」
ナイスヒット。
そう言いたげな表情を隠すことなく、スクナは屈託のない笑みを浮かべていた。
わずか数秒のことだった。
たったそれだけの時間で、あまりにもあっさりとひとつの肉塊が出来上がった。
本来ならば阿鼻叫喚が起こるような凄惨な光景であるはずなのに、誰一人として声すら出せない。
この場にいる全ての人間が、いや、全ての生物が死を覚悟するほどの威圧感。
今の彼女の気をほんのわずかでも引いたら最後、待っているのは確実な死だ。
だと言うのに、当の本人は幼子のように屈託のない笑みを浮かべていて。
その矛盾さえ感じるアンバランスさが、一層恐怖を煽っている。
誰にしようかな、と。
次なる獲物を選ぶ姿はどこまでも残酷だった。
スクナの一挙手一投足に視線が集まる。
時間が限界まで引き伸ばされたような、永遠とも思えるような時間だった。
だが。
そんな緊迫した状況を。
英雄はいとも容易く乗り越える。
「殺しに来たよ、スクナ」
「なんだ、琥珀が遊んでくれるのね」
最強の鬼と、最凶の鬼が邂逅する。
戦いの幕は、恐ろしいほどあっさりと切って落とされた。
☆
互いの攻撃が、轟音を立てて衝突する。
衝撃波が広場の噴水を破壊し、瓦礫が砕けて飛び散った。
それは英雄同士の戦いに相違なく、人々はただ呆然と見守るしかなかった。
「はー……やってくれるわね、ほんと」
「なっ!?」
投げナイフによって片目を貫かれ、脳をえぐり取られたはずの少女が。
死んでいたはずの少女はそう呟くと、何もなかったかのように立ち上がる。
驚愕の視線を向ける周囲の人々を無視して、ずるりと音を立ててナイフを引き抜いた少女は、ソレをそのまま地面に突き立てた。
「《結界術・黒》」
スクナと琥珀を取り囲む全ての人々を守るように、半透明な黒いドームが立ち上がる。
《結界術・黒》。使い手がこの世に何人もいないほどレアなスキル《結界術》の持つアーツのひとつであり、強度に重点を置いた最硬クラスの防御でもある。
「あの2人相手じゃ気休め程度でしょうけどね」
少女はそう言ってため息をつくと、広場の中心で戦う2人の鬼人に視線を送る。
全てを悟ったような瞳で、戦いの趨勢を見守っていた。
だが、あまりにも当たり前のように起き上がった少女を前に、周りの人々は衝撃を隠せない。
勇気を振り絞って声をかけたのは、ひとりのプレイヤーの女性だった。
「あ、あの……大丈夫?」
「見てわからない?」
「あの、でも、ナイフが、目を……」
しどろもどろになりながらも心配してくれているプレイヤーの女性を見て、少女は「ああ!」となにかに気がついたような声を出すと、パチンとひとつ指を鳴らした。
みすぼらしい少女の姿は仮初のもの。
金色の髪。紅の瞳。傾国と呼んでもなお足りないほどの、人並外れた美貌の少女が現れる。
「メルティよ。覚えておいて損はないかもね?」
琥珀の頼みで囮を買って出た世界最強の吸血種は、そう言って悪戯っぽく笑った。
☆
鬼神の再来。
あの日、琥珀が抱いたその思いは、決して間違いではなかった。
巨竜を蹂躙するスクナを見た時、琥珀は言葉に出来ないほどの歓喜を抱いた。
幼い頃から琥珀が思い描いていた鬼神の姿を、そのままなぞる様な光景だったから。
スクナが使えるはずのない《五式》を使用した際には驚きを覚えたが、それさえも琥珀にとっては喜ばしいことだった。
《終式》ほどではないにせよ、《絶拳》であれば《五式》を使うに値する技だ。
鬼の舞の《五式・童子の舞》は、術者に擬似的な不死を与えるアーツ。あの舞が発動している限り、《舞手のHPが尽きることはない》。つまるところが一定時間続く食いしばり効果だ。
本来は《終式》を打ち終わるまで舞手を強制的に生かすためのアーツだが、スクナは単純に反動ダメージによる死を回避するために使用したらしい。
その命さえ拾えればダメージ自体は気にしない捨て身の在り方さえも、琥珀にはとても愛おしく思えた。
だが。
喜ぶのは今この時までだ。
わずか2分に満たない時間とはいえ、琥珀が相手をするのは鬼神の写し身。
紛れもない、破壊の化身だった。
「オオオッ!」
「あははははははっ!」
瞬間に5撃。
琥珀が全力で放った連撃は、その全てがあっさりと捌かれた。
琥珀とて世界の全てを映し取るかのようなスクナの瞳を前に、この程度の攻撃が通るとは思っていない。
(だが、予想以上に……成長している)
以前手合わせした時から、たった3週間程度しか経っていない。
スクナ自身のレベルが上がったこと、そして《憤怒の暴走》によって規格外のバフがかけられたことで、もはや琥珀とスクナのステータスに差はないだろう。
それどころか、ほとんど全てのステータスにおいて、琥珀よりもスクナの方が上かもしれない。
だがそれらを抜きにしても、以前の手合わせの時に比べて段違いに動きの精度が上がっている。
力に慣れた、と言うべきか。
天賦の才を持ちながら使う機会に恵まれなかった故に、原石のまま磨かれなかった才能が、この3週間で研磨されて輝き始めた。
元の大きさから見ればこれでもまだ荒削りなくらいだが、それでもスクナの戦闘センスは異次元だ。
琥珀の力を完全に受け流し、1ダメージたりとも受けずに済ませているのだから。
さらに、その上にデッドスキルが上乗せされているのだ。
強くない訳がない。かつて琥珀が戦った誰よりも、今のスクナは強かった。
「せいっ!」
振り下ろされた宵闇での一撃を、琥珀はガードすることさえなく力ずくで掴み取る。
「うそっ!?」
「なめてもらっては困るな。仮にも私は世界最強の一角だよ?」
そう。琥珀は世界で最も筋力値の高い者に与えられる称号である《パワーホルダー》を持つ存在。
スクナが禁忌の力に染まっていようが、それでもなおソレを上回るほどの絶対的な筋力値こそが彼女の最大の武器だ。
(時間を稼ぐ。私の勝利条件はただそれだけだ)
先程の創造神の声は世界中に響き渡っていた。
デッドスキル《憤怒の暴走》。スクナに許されたその発動時間は5分のみ。故に、残り1分とない制限時間の間だけ彼女の気を引いてやればいい。
かつて終わることのない暴走で世界を半壊させた鬼神に比べて、あまりにも短いその制限時間は、恐らくスクナの未熟さ故のものなのだろう。
恐らくそれ以上はスクナの心が持たない。
琥珀とて理解はしている。
怒りとは、それほどまでに人の心を蝕む感情なのだ。
現に、今のスクナは笑顔こそ浮かべているが、その瞳は濁り切っている。
まるで取ってつけたような感情だけで、無理やり体を動かしているようだ。
宵闇を掴んで離さない琥珀に対し、スクナは想像以上にあっさりとその手を離す。
「ウアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
「うぐっ!?」
雄叫びを上げて振るわれた拳が、琥珀の腹に突き刺さる。とてつもない衝撃が琥珀を襲うが、彼女は吹き飛ばされるのを嫌い、無理やりその場に立ち止まる。
(ああ……)
なんて悲しい拳なんだろう。
琥珀は一撃で自身のHPを3割以上も削られながら、そんなことを思った。
こんなにもわずかな時間で気付いてしまえるほど、今のスクナの拳からは失意しか伝わってこない。
一見すると楽しそうに見える。
だが、それはそうしなければ保てないほどに心が磨り減っているからだ。
《憤怒》をぶつける対象は既にいない。
暴れ続ける理由はもはや存在しないのに。
そうして、目的さえ失って、宙ぶらりんになってしまった破壊衝動だけがかろうじてスクナを動かしている。
だから今のスクナは、壊すことしか考えられない。
恐らく巨竜と戦っていた時から、もうスクナは壊れていたのだろう。
あのリンネという女性を目の前で失った時、彼女の中で何かが壊れたのだ。
そうして本来のスクナであればありえないほどの暴虐に身を委ねて、その代償として心身を焼き尽くして。
それでもなお消える事のない怒りと悲しみの炎に、スクナは焼かれ続けている。
(そうか……そうだったのか)
琥珀は、スクナが堕ちた姿を見て、少しでも喜んでしまった自身を恥じる。
そうだ。かつて鬼神様が解放してしまった《憤怒の暴走》も今のスクナと同じだったのだと、気付いてしまったから。
使えば最後自身の心さえも燃やし尽くして、最後には何ひとつ残らない。何もかもを失って、焦土の上に立ち尽くす。
そんな、あまりにも悲しい力なのだと理解してしまったからだ。
「終わりにしよう、スクナ」
腹にめり込むスクナの腕を掴み、琥珀はそう宣言する。
時間を待つのでさえ惜しい。
一刻も早く、彼女を倒してあげなければ。
この悲しい鬼を眠らせてあげるのだ。
もうこれ以上、彼女が何も失わないように。
スクナは異邦の旅人だ。
琥珀たちと違い、死は一時の休息でしかない。
だからこそ琥珀はスクナを救うために、己の手で戦いを終わらせることを選んだのだ。
「いやだ! いやだいやだいやだ! まだ壊さなきゃ、全部壊さなきゃいけないの!」
駄々を捏ねるように、スクナは絶叫する。黒い涙を零しながら、心の中身を吐き出していく。
「守らなきゃいけないの! だって、だって……私は、もう……失いたくないのに…………」
そこまで叫んで、気付いた。
☆
そうだ。
どうして、忘れてしまったんだろう。
怒りに飲まれて忘れていた。
何のために戦おうと思ったのか。
壊すためじゃない。
いやだと思った。
失いたくない。
失いたくないと思ったんだ。
だから、私は、巨竜を壊して。
壊して、壊して……。
それで、いつの間にか壊すことが目的にすり替わっていた。
――もういいの?
私の中で、そんな寂しそうな声がした。
ずっと眠らせていた記憶であり、衝動。
私の願いを叶えてくれた、私自身の感情だった。
うん、もういいんだ。
私が心の中でそう答えると、声は笑ってこう言った。
――うん、よかった。
ごめんね、ありがとう。
これからはずっと一緒だから。
もう、閉じ込めたりなんかしないから。
――また遊ぼうね。
きっとすぐだよ。
声は解けるように混ざり合って、私の胸にほんのりと灯る熱を残した。
☆
スクナを覆っていたドス黒い闇が解ける。
角が元の大きさに戻り、瞳の色もじわじわと元に戻っていった。
けれど、身体中をヒビ割れさせる闇は消えず。
呪いのようにスクナのアバターを蝕んだままだった。
ギリギリの所で、スクナはデッドスキルを解いたのだ。
それは、最後の一線を超えることなく戻って来られた証であり。
スクナの決意の表れであった。
「…………琥珀」
「いいのかい?」
「うん」
それ以上の言葉は要らない。
琥珀は優しくスクナを抱き込むと、音さえしない優しい一撃で彼女のHPを奪い去る。
「リン、ちゃん」
会いたい。
会いたいよ。
琥珀に介錯されたスクナは、とても満足そうな笑みを浮かべてその命を散らした。
死をもって全ての決着を。
第3章、イベント編。
ナナの、スクナの記憶と心の物語でした。